風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

碑文は語る

2011-10-29 15:33:20 | 湘南鎌倉
村岡城址公園に三日月井跡の石碑が新調されました
このあたりの区画整理で紛失した石碑の代わりです

ここより東150mの処に三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています 後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で目を洗いに多くの人が訪れたようです
村岡郷土史研究会 平成23年10月21日


本在寺公園の眺望案内もできました
村岡地区藤沢市合併70周年記念事業実行委員会 2011.10



壺井三社大権現の跡の説明も立ってます
関係者のご苦労、ありがたいものです。


日枝神社の祠、説明がないと価値がわからないところです

 右側の祠は渡内4丁目1番(県道小袋谷・藤沢線沿いの「渡内」バス停北側)辺りにあったもので、平成10年(1998)区画整理事業に伴い移設したものです。
 中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に70m程行った所です。平成20年(2008)区画整理事業に伴い移設したものです。
 左側の祠は壺井三社大権現で、現在地より北東に140m程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。壷井三社大権現とは、源頼義・義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祀った祠のことをいいます。
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サツマイモ、落花生

2011-10-23 17:08:43 | 屋上
ちょっと収穫してみました。
落花生、紅あずま、安納芋です


葉っぱが枯れかけてからと思ってたのに
いつまで待っても枯れないので一部だけ試しに掘りました。


紅あずま、土の厚さがないためか、
捻くれてたり、ドテッと丸かったり


安納芋、小さいです


落花生、ゆで落花生にしましたが、
既に種子状態で固かった、収穫が遅かったみたい
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寿福寺

2011-10-23 12:13:05 | 鎌倉33観音
第24番 亀谷山・寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)【十一面観音】

鎌倉五山の第三位のお寺です。
開基は北条政子、栄西を開山とし、1200年(正治2)に建立です。

源頼朝の父義朝の屋敷があったゆかりの地、後ろは源氏山と呼ばれます。
義朝は、平治の乱で平清盛に敗れ、東国に逃げる途中、長田忠到に討たれました。
家人の岡崎義実は義朝の館跡のこの地に仏堂を建てたそうです。

鎌倉入りした頼朝がこの地に舘を造ろうとしましたが、この仏堂があり、
また土地として狭小であったことから断念(吾妻鏡)、大倉の地に幕府を作ります。
頼朝が亡くなった翌年、政子は寿福寺の建立を思い立ちました(吾妻鏡)


参道の石畳、中央のは「氷裂敷」とか「氷紋敷」、通るなということらしい。
両端は桂離宮に似たのがあるので「桂敷き」なのか?
あまり古いものではないらしいけど、いいねぇ


栄西禅師は宋から茶の種を持ち帰り、お茶の栽培を広めました。
3代将軍実朝が二日酔いの時、お茶とともに「喫茶養生記」を献じます(吾妻鏡)。
政子や実朝もよく訪れ、やがて七堂伽藍に塔頭も14を数えたとか


柏槇の古木


古そうな大木です


御朱印は庫裏で、ご住職に書いていただきました


いただいた御朱印、達筆です
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御成小学校

2011-10-09 14:35:21 | 湘南鎌倉
鎌倉御用邸の跡地に建てられた御成小学校、
市民運動会ということで、市民の皆さんに混じらせていただきました。
御成門の門札は、高浜虚子の書だそうです


正面玄関、旧木造校舎の玄関イメージの再現だそうです
校章は57の桐が恐れ多く、55の桐になってます


裏山の御成山に続く運動場、広々としています
向こうの方にはケヤキの巨木が景色を作ってます

この校庭には今小路西遺跡が埋まっています。
733年(天平5)の木簡が出ています
「糒(ほしい)五斗 天平五年7月十四日」「郷長 丸子□□」
鎌倉郡衙と推定される施設跡も発掘されました。

校舎の移築計画については、いろいろあったようですね


旧講堂、1933年(昭和8)の開校時からのものです
よく残ったものです、余裕があってのことでしょう


図書室、美しい建築です。
古い歴史とうまく調和して、さすがに羨ましいです。
コメント (1)
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大仏切通し

2011-10-09 11:47:04 | 湘南鎌倉
大仏坂が気になってハイキングコースへ登りますと、大仏切通への標識です。


いつの間にかコースが整備されてたんですね。知りませんでした。


中間の一向堂公園口、昔に比べて安全な道になったものです


いよいよ道が狭まって来ました


見事に切通してます


いい感じの切通しです

4ヶ国語(日英中韓)の標識がありました。日本語だけ抜粋
国指定史跡 大仏切通 昭和52年8月10日指定
 大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝比奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに
整備されたと考えられています。
 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が洲崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」にみえていることから、この地も戦場になった可能性があります。
 大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などと共に、かつての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。
平成20年3月 鎌倉市教育委員会



「火の見下」側にある平場のやぐらです
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