風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

古東海道探し

2013-12-28 10:00:00 | 古代史

飛鳥や奈良時代の道路は、高速道路のように直線で、幅が12mとか9mもあったそうだ

上の図は、足利健亮さんの「地図から読む歴史」講談社学術文庫の図です。
木津から長岡京を直線で結ぶ古山陰道で、次のような特徴があります
・A-Bを結ぶ道が、C-D、E-Fの道路と一直線でつながる
・I-H-Gの道は、奈良から丘陵と平野の境を折れ線グラフのように北上し、Gでスムーズにつながる
・A-Bを結ぶ道は、崖沿いに通じる狭い里道だが、最もスムーズに老ノ坂峠につながる
・B-Cは長岡京(784-794)で消されたと考えられ、古山陰道は奈良時代以前からあった

神奈川県ではどうかというと、平塚市の東中原遺跡構之内遺跡で、
幅9.7mとか12mの古代の東海道と思われる道路遺跡が検出されてます

相模国の東海道は時代によって、ルートの変遷があったようです
(古東海道1)ヤマトタケル以来のルート  
  足柄峠→・・・→走水→上総国
(古東海道2)771年、東海道に武蔵国編入のころ
  足柄峠→・・・→夷参(座間?)→武蔵国→下総国
(一時迂回)802年、富士山の噴火で箱根路(筥荷途)に迂回
(古東海道3)927年、延喜式ができたころ
  相模国の駅伝馬:坂本、小総、箕輪、浜田、足上、余綾、高座郡
  武蔵国の駅伝馬:店屋、小高、大井、豊島、都築、橘樹、荏原、豊島郡

それぞれの駅伝馬がどこかは木下良さん説とかいろんな説があるようですが、
地名のこじつけや、郡衙や国府、国分寺の近くからの憶測でいずれも根拠は薄いかも


直線的ということをキーワードにして比定するとこんな感じかな?
坂本-箕輪-浜田-店屋-小高-大井は、ほぼ「矢倉沢往還」ですが、一直線に乗ります

さらに面白いのは、伊勢原(箕輪?)と走水をつないだ線上に、
高座郡衙(下寺尾)、藤沢、鎌倉郡衙(今小路)がほぼ乗るという直線です。
大山に向かってるので測量もしやすそうだし、意味がありそう

この線で、地形的に直線的な道路建設が可能か、
1886年の迅速測図で、鎌倉、藤沢から高座郡衙にかけて、直線を探してみました。



鎌倉から伊勢原方面には、香川あたりを通る直線が引けそうに思えます

また、藤沢から海老名方向、にも直線が見えます。
この線には1918年に通水する横須賀水道路が建設されます。
意外にも藤沢が焦点になって切り替わったようですが、丘陵から平地に変わる地形によるのかな?


鎌倉から高座郡衙あたりを拡大してみますと、
藤沢から伊勢原への道は、ほぼ「田村通り大山道」になると思います。
坂上田村麻呂が通った伝説とか、田村大道とも呼ぶようで、どうかな?


藤沢から鎌倉あたりの拡大です。大道小学校を通って、
宮前、寺分、梶原を通って、源氏山から扇ヶ谷に通してみました。

直線的な小袋谷から瓜ヶ谷、海蔵寺裏の大掘切りへの道も魅力的なのですが、
戸部で行き止まりになってたりして、やっぱり東海道ではなさそうに思います。
扇ヶ谷って、大路ヶ谷が訛ったんでは?とかいろいろ妄想してしまいました。

八幡宮の境内を突っ切って、金沢街道はまっすぐでそれらしい。
走水へは、山越えで池子に抜けたいけど、痕跡はわからない。
利便性を考えて、朝比奈の切通しを通ったというぼ輔さん説はありだと思う

そのうち実地を歩いてみようと思います
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茅ヶ崎北陵

2013-09-14 12:43:40 | 古代史
高校の文化祭、来年は体育祭の年なので最初で最後の文化祭


う~ん、正直言って物足りない。はち切れてないなぁ


親の展示の方がおもしろいんだが、これでいいのか?


新校舎を建てようとしたグランドに遺跡が出たのが痛いよね


高台の旧校舎は使えなくなって、仮校舎住まい。
エアコンついて喜んでると同窓会は言うけど、伝統の重みが喪失してる


体育館は問題ないみたい


部室も味があるんだけど


ここら辺、遺跡だらけです。
旧校舎の東のグランドには環濠集落や高座郡衙、
がけ下の仮校舎の西には七堂伽藍、寺尾橋の辺りは船着場です


ここ下寺尾遺跡群の景観復元イラストです

旧校舎のある高台は、縄文海進の時代には岬で、仮校舎の辺りは海でした。
弥生時代には、海水面が低くなって、高台には環濠集落ができたようです。
そして古代(飛鳥~奈良)には高座郡衙が作られ、ここが高座郡の中心でした。
800年ごろ見捨てらたようで、それより新しい遺跡は見つかりません


すごい遺跡なのは明らかで、保存や展示するのは当然なんですが、
仮校舎の場所はNG。グランドの東あたりを取得できなかったのかかなぁ、
うちの子供には全然間に合わないけど
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難波津

2013-09-07 17:58:06 | 古代史
私の小学校の校歌には「咲くやこの花、難波津の♪」という歌詞がありました
この難波津の場所にはいろいろ説があり、近年は日下雅義さんの高麗橋説が有力です

日下さんは地道な現地調査を基に、考古学や歴史学を総動員して
古代景観を復元し、通説を覆してきました。文庫本「地形からみた歴史」には感心します


上の図は弥生時代の大阪、日下説です。難波潟には淀川と大和川が流れ込み、
上町台地の海側には3つの帯状の沿岸州(バリアー)が伸びている
このころの津は住吉大社あたりだったようです


日下さんによる、6~7世紀の大阪。見れば見るほど深い図です。
難波宮から難波大道が南北に伸び、河内飛鳥から住吉津への大津道が東西に交差、
古市と百舌鳥の古墳群をつなぐ丹比道(たじひみち)が丘陵地帯を横断。
淀川は放出(はなてん)から、大和川は平野川などに分かれて河内湖に流入してます


天満砂州には、難波の堀江が開削されてます。現在の大川です。
難波津は南北のラグーンあたり、現在の高麗橋あたりという説です。

東横堀川は豊臣秀吉の命により開削されたらしいですが、
低いところを掘るはずで、東横堀川のあたりがラグーンの跡と考えるのが自然です。
という訳で、難波津の跡、東横堀川に沿って歩いてみました。


現在の高麗橋です。名前の由来は
高麗館(こまのむろつみ)」があったからという説があります


大手橋、ガス灯な感じです


本町橋


農人橋、
東横堀川はまだまだ続きますが、今日はここまで
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富士北麓の浅間神社

2013-05-02 23:42:35 | 古代史
富士山が世界文化遺産に内定、おめでとうございます
以前から行きたかった富士山北麓の浅間神社を巡ってみました

まず構成資産の1つ、忍野八海に寄りましたが、富士山が見えにくくてがっかりでした


北口本宮冨士浅間神社
参道には巨大な杉が並んでます
客観的に見て、鎌倉の文化遺産がショボイのは明らかですね


吉田口登山道の起点で、富士講とのつながりが強いようです
由緒:景行天皇40年、日本武尊ご東征の折、当地「大塚丘」に立ち寄り、
富士の神霊を遥拝され「富士は北方より登拝すべし」詔されたのが始まりとか


■大塚丘


大塚丘の祠です。神皇紀には次のような記載があります。

景行天皇40年、阿祖山太神宮の阿祖彦王が神都復旧を企て、東北諸国が謀反を起こそうとした。
朝廷に洩れ、天皇は小碓尊(日本武尊)を遣わした。伊勢に詣で、尾羽張で美夜受媛を寵愛された。
富士川で戦いがあり、東軍は敗れて退いた。猟師が欺き、皇子が茅野に分け入ると
東軍は八方から火を放つが、皇子は草を薙ぎ迎え火を放ち、東軍は焚死するもの多かった。
皇子は家基都駅に至り、菅原の大塚(後の篠垣)より福知山を遥拝した。


富士古文献、延暦大噴火前の古図の部分です。右上に流れ出てるのは相模川(桂川)。
菅原に篠垣塚が描かれ、富士山は福地山、家基都駅は加吉駅と書かれてます。

このあたりは大化5年に甲斐国に編入されるまでは相模国に属してたらしく、
「家基都」は「やきづ」と読め、古事記に出てくる焼津は家基都のことらしいです


河口浅間神社


延喜式神名帳にある名神大社「甲斐国八代郡 浅間神社」がこことされてます。
由緒:第56代清和天皇の貞観6年に富士山大噴火があり、富士山噴火の鎮祭を行った

神皇紀には次のような記載があります

貞観6年(864)5月に富士山が噴火、太神宮である七廟中3廟が焼失。
翌年7月勅使の藤原氏宗を派遣、橘末茂や伴真貞に御舟山に現れたような宮殿を再興させた。
12月勅使の藤原安麻呂などを派遣し、再び官社に列することにした。
868年に新富士に道路を拓き、歌舞音曲を演じ、加後坂において遥拝することになった


北東本宮小室浅間神社
撮りそこなったのでストリートビューよりです
ここが、富士古文献(宮下文書)を伝えた宮下家が宮司を務める神社です。

由緒:崇神天皇6年阿曽谷神社を鎮祭したことに始まる。
応神天皇第二御子(大山守皇子)が宮守を司り阿曽谷宮守神社と改称。
厩戸皇子来り富士山北東國本宮阿座眞明神と改称。
1686年(貞享3)古屋敷より今の新屋敷に引移した

神皇紀にはもっとトンデモナイ由来が記載されてます

天照大御神が阿祖谷小室の阿田都山に阿祖山太神宮(宮守の宮、元宮)を創立、
九州に遷都した鵜茅葺不合51代の即位式は、太神宮の神殿で行われた。
神武天皇が再興、崇神天皇はここから天照大御神と大御宝を大和に移した。
崇峻天皇の世、厩戸皇子が勅使として、七廟を再興。
光仁天皇の世、坂上苅田麿が先現太神と改称する勅を伝え、先現と浅間を混用
平城天皇の世、坂上田村麿が再興、坂に仁王門を創立、峠に鳥居を建設
足利氏により衰退するが、天文元年に氏子が宮守神社と福地八幡大神を再興


■小室浅間神社の古宮
小室浅間神社の由緒によると、1686(貞享3)年以前は古屋敷にあったことになります。
大明見の交差点から宮守川の川沿いに行くと南朝英霊神と泰山府君大神があります。
何の説明もありませんが、奥にあるのが小室浅間神社の古宮とのことです


これが阿祖山大神宮の祠ということになります。
何度も再興してるためか、小さな祠しか残ってませんが、悠久な話だなぁ


福地八幡宮
富士吉田市下吉田1-12-26に鎮座します。
延暦大噴火前の古図にも描かれてます。福地は富士のことですね。
福地八幡大神=寒川大明神のはずですが、祭神を見ると違うみたい、
渡辺綱命を合祀してたりして、渡辺一家衆の神社みたい
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往古の大阪

2012-08-16 07:26:14 | 古代史
八軒家から中之島の景色、
大阪ってこんなに綺麗だったのね


昔あったという常夜燈が復元されてました
先代の常夜燈は生国魂神社に残ってるようです)
江戸時代、このあたりは船宿などが8軒あり、八軒家浜と呼ばれてました
(正確には土佐堀通の南側、昔は川幅が広かったとみえる)


近くには渡辺津の碑、平安時代後期の呼び名です
京都から淀川を舟で下って、ここ渡辺津で上陸、
紀州熊野本宮への参詣路である熊野街道がここから始まります

大阪でも最近、古地図がはやってるみたいです。
古地図を読み解くにはかなりの予備知識が必要ですが、
本渡章さんの「大阪古地図むかし案内」がおもしろいです


浪華往古図(筑波大学附属図書館蔵)
これは1756年(宝暦6)に刊行された、古代の大坂のイメージです

渡辺橋のそばに熊野一ノ王子、南にのびる道は天王寺の脇を通って熊野道です。
大阪城の場所には、石山と小坂村、生玉神社や坐摩神社もここにあった想定、
ここに石山本願寺ができたころに、「大坂」と呼び換えたとのこと

天王寺の北、堀江川が上町台地を横切ってますが、これはムリ、
仁徳天皇が難波宮の北に掘ったという「難波の堀江」は大川と考えられてます


貞享四年 新撰増補 大坂大絵図(大阪歴史博物館蔵)
元禄のちょっと前、1687年の地図です

大和川付替えは1704年、大和川はまだ大阪城の北で大川と合流してます。
中之島の南に橋はありますが、堂島への橋はまだですね、
北浜にあった米市が堂島に移り、曽根崎にキタが発展する前の頃です

東横堀川、西横堀川、それをつなぐ道頓堀川に長堀川、
1698年に開削される堀江川を残して、西船場もほぼできてます、
河村瑞賢が1684年から開削した安治川が完成した頃です

実家のまわりなんですが、町名の由来のスゴさ、始めて知りました
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