化学系エンジニアの独り言

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平壌

2019-11-09 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

中国人が「私が中国服を用意しますから、それを着て一緒に逃げましょう」といってくれたが、両親は「中国語が話せないから」と母と私の朝鮮服(チョコリ)をわざわざ作り、朝鮮人に変装して、母は朝鮮式に弟を背負って住み慣れた家をあとにした。

街の駅から乗車したが途中で見つかり、次の駅で降ろされ「どうして汽車に乗ったのか、元の駅まで引き返せ」と言われて、歩いて逆戻り、日が暮れて自分の家に戻ってみれば、残してあった家財道具は全部持ち去られ、壊されてあばら家となっていた。隣の家で親切に一泊させてもらい翌朝、歩いて出かけた。途中の山中で保安隊が待ち伏せしており、リュックの中から身体まで検査され、貯金通帳、時計、万年筆など引き抜かれてしまった。歩き疲れて牛車を頼んで、私と弟の二人を乗せてもらったがまもなく見つかり、其の牛車引きに向かって「お前ら、いくら金をもらって乗せたのか」と保安官から、殴る、蹴るの暴力を受けて牛車引きは逃げ出してしまった。

私達はまた歩き出した。途中見知らぬ民家によって昼食を頂いたとき、母は祖母の形見として持ち出した、たった一枚のチリメンの着物をお礼にとここで手放してしまった。元気を出して出発、次の駅でなんとか汽車に乗ったら、他にも変装した日本人が小さくなって混じっていた。やがて句現駅に到着すると、「この中にいる日本人はみな下車しろ」との命令で皆、正直に下車し、警察署に連行され、厳しい所持品の検査を受けた。

ここは数年前まで父が勤務していた場所で、地元の有力者や顔なじみの仲間が多くいた。幸い暖かく迎え入れられ、検査官に対して、父のこと、過去の勤務中のことや実績など地元民からの人望の暑かったこと等、説明してくれた。おかげで私達家族は好意を寄せられ、その夜は元給仕の家に一泊し、温かい一夜を過ごし翌朝、改めて汽車にも乗せてもらい、一気に平城に向かうことができた。句現駅を離れるとき、父はここまで一緒に来てくれた中国人に熱く御礼を言って別れた。

以前話題になった「中国残留日本人孤児」の肉親探し、日本人の孤児を育ててくれた中国人の優しさを忘れたくないと思う。

(次に続く)