化学系エンジニアの独り言

時の話題や記事の備忘録

姉と再会

2019-12-15 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

開城の避難民収容所を出て、汽車で仁川へ向かい、4千人の仲間と引揚船に乗って博多へ移動。祖国の土を踏んだ感激は生涯忘れられない。祖国にとって初めての敗戦という予期せぬ現実にぶつかり、放浪生活に耐えて母の実家についたのが昭和21年8月11日のことであった。

そこには預けられたまま、一年余もの間、家族の生死を思って胸を痛めていた姉がいた。そんな姉に渡しは小さな一握りほどの博多人形を買ってきた。家族と暮らせるようになった10歳の姉は、その後の暮らしの中で両親の手助けに一生懸命だった。

悲惨な避難生活の中で母は生きて帰れまいと思い、12歳の兄には書くもののない中で祖父母の住所、氏名を何回も言い聞かせていたという。人一倍努力し私たち妹弟に厳しくも優しかった兄は、39歳という若さで家族の誰よりも先に他界した。

「父に引かれ国境逃れし40年前、ともに歩きし兄今は亡く」

続いて姉も亡くなり三歳だった弟は何の記憶もない。当時を振り返るのも両親と私だけになった。子供なりに体験した避難民生活を人生の土台として、私は現在和裁の道を歩んでいる。

姉が嫁ぐときに宝物として持参した、あのときの博多人形は主のいない今、どうしているだろうか。命日が近づくと無性に思い出される。

38度線を超えて

2019-11-19 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

昭和21年7月2日、待ち続けた帰国命令がソ連軍から出された。

平壌駅から晴れて汽車に乗せられて金鉱という駅で降ろされた。汽車はここまでである。

公民館のような場所へ移され数日過ごし、ここから皆、徒歩で38度線を越えなければならない。自力で誰も助けてはくれない。リュックの中身の衣類等、道中荷物になるものはここで捨てる人も多かった。弟を背負う母もリュックを捨てた。父、兄、私の三人は軽くなったリュックを背負って父に引かれて600人の団体に入って、午前4時ころ、夜明けとともに出発し歩き出した。ぞろぞろと疲れても、ひたすら歩き続けた。国境38度線に差し掛かったのは夕日の沈みかける頃で、そこには駐屯所があって、いかめしいソ連兵が銃を持って立っている。引き上げ団体の代表がソ連兵となにか交渉をしている。ソ連語の話せる代表者で、いくらかのお金を出し合って通ることを許可されたものの、5分以内で通過せよという。600人もの団体を。遅れたものは殺されてしまう。必死で逃げた。

やっと38度線を超えてアメリカ軍支配下には入ったときは、もうすっかり日も暮れており、夜半になる頃には疲れ果てて歩けない。道中の民家の寝静まった軒先に座り込み休憩している間に私は眠ってしまう。歩き出すとき、父は私の顔を叩き「起きろ、歩くんだ!!」と起こされ疲れた足を引きずって、早朝やっと開城の町についた。広場にはテントが林のように並んでいて、避難民収容所となっていた。収容所にはおびただしい避難民が集まっていた。

そこでアメリカ軍に親切に保護されて、充分な食料を与えられ、毛布の上で寝ることも出来た。生きている喜びをかみしめていた。

(続く)

避難民生活

2019-11-14 | 遺稿集
これは私の母の家族のお話です。以下文中の私は母の妹です。

夕方、平城駅で下車、行く宛もないまま駅の軒下で親子5人うずくまって一夜を過ごした。(待合室に入ることは許されなかった。)

38度線を超えて、南朝鮮へ逃避しようとするものは脱走者として捉えられ、銃殺またはソ連へ送られる。仕方なく北朝鮮から来た日本人は全員平壌に集結。いつの日か帰国命令が出るまで、ソ連軍に従う覚悟で集団生活を始めた。平壌の町には各地から、見知らぬ日本人が続々と集まり五万人にもなった。元日本人学校、寺、神社に5百人、千人と各地に分散して同じ境遇を助け合って帰国の日を待った。

男子は三ヶ月間、無料で毎日強制労働に駆り出された。その後、男子は一日7円、女子は5円と安い報酬で働いた。(朝鮮人は一日30円くらい)

江界を出るとき、一家族に千円の所持金を許されたが、度々の検査で取り上げられ、平壌での生活中に無一物になり、私と弟が着ていた毛皮のオーバーも、いつしか食料と引き換えになって着たきりスズメになった。

平壌での日本人は生きるためにみな、乞食の境遇に身を落とし、惨めな生活を送っていた。お金もなく、衣類も食料もなく、塩汁に野草を浮かせただけの食事だったり。栄養失調でやせ衰えた体だけが残った。その体さえも夜になるとソ連兵が軍靴のまま踏み込んできては、恐ろしさのため怯えている若い女性を引きずっていった。断髪して身を守った女性もいたが、どれだけの女性がたちの悪いソ連兵の餌食になったであろうか。

飢えと寒さ、零下30度にも気温が下がる中で発疹チフスやコレラなどの伝染病が流行して、弱いものから命を奪われていった。

毎朝、4人、5人とコモに包まれた死体が運ばれて異国の土となった。餓死する日本人も多く、凍った川辺に転がっている死体をその頃、6歳の私は日光浴をしているものと思いこんでいた。

そのうち、兄も弟も麻疹にかかり、弟は41度の熱のために食欲もなく苦しんでいたが、薬どころか、何一つ買ってあげることも出来ない。天命に任せる他に方法はなかった。その弟をおいては母働きに出かけた。母の報酬は5円、この5円でりんごを2個買って弟に食べさせたとき、「お母ちゃん、明日も買ってきて」と言われても財布にはお金がなかったという。幸いにも弟はなんとか回復した。

また、帰国命令が出たときには、その旅費も必要である。親子で仕事を探し必死で働いた。父は経験を買われて大工仕事に、母はソ連兵の衣類の選択の仕事、兄と一緒に私も弟も凍って突き刺すように吹き付ける平城駅前に立って、新聞売をして1銭、2銭と蓄えた。平壌の、このような生活の中で9ヶ月が過ぎた。

(続く)

平壌

2019-11-09 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

中国人が「私が中国服を用意しますから、それを着て一緒に逃げましょう」といってくれたが、両親は「中国語が話せないから」と母と私の朝鮮服(チョコリ)をわざわざ作り、朝鮮人に変装して、母は朝鮮式に弟を背負って住み慣れた家をあとにした。

街の駅から乗車したが途中で見つかり、次の駅で降ろされ「どうして汽車に乗ったのか、元の駅まで引き返せ」と言われて、歩いて逆戻り、日が暮れて自分の家に戻ってみれば、残してあった家財道具は全部持ち去られ、壊されてあばら家となっていた。隣の家で親切に一泊させてもらい翌朝、歩いて出かけた。途中の山中で保安隊が待ち伏せしており、リュックの中から身体まで検査され、貯金通帳、時計、万年筆など引き抜かれてしまった。歩き疲れて牛車を頼んで、私と弟の二人を乗せてもらったがまもなく見つかり、其の牛車引きに向かって「お前ら、いくら金をもらって乗せたのか」と保安官から、殴る、蹴るの暴力を受けて牛車引きは逃げ出してしまった。

私達はまた歩き出した。途中見知らぬ民家によって昼食を頂いたとき、母は祖母の形見として持ち出した、たった一枚のチリメンの着物をお礼にとここで手放してしまった。元気を出して出発、次の駅でなんとか汽車に乗ったら、他にも変装した日本人が小さくなって混じっていた。やがて句現駅に到着すると、「この中にいる日本人はみな下車しろ」との命令で皆、正直に下車し、警察署に連行され、厳しい所持品の検査を受けた。

ここは数年前まで父が勤務していた場所で、地元の有力者や顔なじみの仲間が多くいた。幸い暖かく迎え入れられ、検査官に対して、父のこと、過去の勤務中のことや実績など地元民からの人望の暑かったこと等、説明してくれた。おかげで私達家族は好意を寄せられ、その夜は元給仕の家に一泊し、温かい一夜を過ごし翌朝、改めて汽車にも乗せてもらい、一気に平城に向かうことができた。句現駅を離れるとき、父はここまで一緒に来てくれた中国人に熱く御礼を言って別れた。

以前話題になった「中国残留日本人孤児」の肉親探し、日本人の孤児を育ててくれた中国人の優しさを忘れたくないと思う。

(次に続く)

終戦

2019-11-04 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

父に召集令状が届き、昭和19年10月に一家で帰国した。その後、招集解除になって昭和20年6月末にふたたび朝鮮に戻るとき、戦局混乱の中で切符の制限があり、父は静岡県庁まで依頼にでかけたが、家族全員分が入手できず、必ず迎えに来るからと姉を母の実家へ一時預けた。

朝鮮の自宅へ到着後、一ヶ月あまりで思いもかけない「昭和20年8月15日」の終戦を迎え、在留邦人にとっての長い苦難の旅路が始まったのである。

朝鮮半島が南北に分断された後、ソビエト軍の支配下にある北朝鮮側に取り残された私達は、帰国への道を完全に閉ざされた。この日を境に周囲の朝鮮人の態度が180度変わった。「今日から独立した朝鮮国民だ」と、翌日には「金日成バンザイ」と叫びながら旗行列、提灯行列が続き昔の国家を歌い始め、一言の日本語も話さなくなった。二十日すぎからは毎日、ソ連の兵隊を満載した列車が北朝鮮に入ってきた。保安部隊が組織されて、日夜警戒にあたり「日本は無条件降伏したのだから、全財産をおいてゆけ!!命だけは日本のものだから返してやる。汽車にも乗るな、歩いて帰れ」という。

父は職を剥奪され、家屋敷、田畑、山林と全ての財産を没収された。父が在職中、事務の関係で懇意だったのが幸いして終戦後も中国人が、私達の味方になってくれた。また、親しかった朝鮮人が密かに食料を届けてくれたり、中国人のお世話になったりして、一ヶ月あまりを家で過ごすことができた。その間、朝鮮人が勝手に上がり込んでは何かと持ち出そうとするので、母は親しかった人たちにタンスの衣類、その他の道具類を分けていた。5人分のリュックサックに当座の着替えと毛布を入れて、戦争に負けた惨めさを味わい、茨の道を歩き始めた。

しかし、アメリカ軍支配下の南朝鮮を経て日本に帰るには、命がけの38度線超えが必要だった。現在の地図には載っていないが、私達は鴨緑江に近い北朝鮮平安北道江界郡前川面仲岩に住んでいた。歩いて帰れと言われても、平壌、現在の平壌まででも320キロはある。

(続く)

朝鮮

2019-11-03 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

私の両親は昭和6年4月に朝鮮に渡り、足かけ16年の外地生活で、父は警察官であった。父の仕事の関係で毎年、年末には近郷近在の人たちから、たくさんのお歳暮の品々がとどいた。それらをフルに活用して正月料理の準備に取り掛かるが、徹夜することもあった。

正月には百人余りの年始客で、母は其の接待に追われていた。朝鮮の板前さんは泊まり込みで朝鮮料理を、母は日本料理を、母が得意とする品の一つに羊羹があり好評だった。姉と私は晴れ着を着せてもらい、お年玉をたくさん頂いて喜んでいた。また、母は教師の経験を買われ、日本人学校の教壇に立っていた。私はお手伝いさんと一緒に乳母車に弟を乗せて学校へ行っては遊んでいた。

 当時、家の周りに咲き乱れていたマツバボタンの花。朝鮮の子どもたちと走りまわって遊んだ野原。のどかで恵まれた平和な日々のことが思い出される。

(続く)