化学系エンジニアの独り言

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終戦

2019-11-04 | 遺稿集
これは私の母の家族の物語です。以下一人称は母の妹です。

父に召集令状が届き、昭和19年10月に一家で帰国した。その後、招集解除になって昭和20年6月末にふたたび朝鮮に戻るとき、戦局混乱の中で切符の制限があり、父は静岡県庁まで依頼にでかけたが、家族全員分が入手できず、必ず迎えに来るからと姉を母の実家へ一時預けた。

朝鮮の自宅へ到着後、一ヶ月あまりで思いもかけない「昭和20年8月15日」の終戦を迎え、在留邦人にとっての長い苦難の旅路が始まったのである。

朝鮮半島が南北に分断された後、ソビエト軍の支配下にある北朝鮮側に取り残された私達は、帰国への道を完全に閉ざされた。この日を境に周囲の朝鮮人の態度が180度変わった。「今日から独立した朝鮮国民だ」と、翌日には「金日成バンザイ」と叫びながら旗行列、提灯行列が続き昔の国家を歌い始め、一言の日本語も話さなくなった。二十日すぎからは毎日、ソ連の兵隊を満載した列車が北朝鮮に入ってきた。保安部隊が組織されて、日夜警戒にあたり「日本は無条件降伏したのだから、全財産をおいてゆけ!!命だけは日本のものだから返してやる。汽車にも乗るな、歩いて帰れ」という。

父は職を剥奪され、家屋敷、田畑、山林と全ての財産を没収された。父が在職中、事務の関係で懇意だったのが幸いして終戦後も中国人が、私達の味方になってくれた。また、親しかった朝鮮人が密かに食料を届けてくれたり、中国人のお世話になったりして、一ヶ月あまりを家で過ごすことができた。その間、朝鮮人が勝手に上がり込んでは何かと持ち出そうとするので、母は親しかった人たちにタンスの衣類、その他の道具類を分けていた。5人分のリュックサックに当座の着替えと毛布を入れて、戦争に負けた惨めさを味わい、茨の道を歩き始めた。

しかし、アメリカ軍支配下の南朝鮮を経て日本に帰るには、命がけの38度線超えが必要だった。現在の地図には載っていないが、私達は鴨緑江に近い北朝鮮平安北道江界郡前川面仲岩に住んでいた。歩いて帰れと言われても、平壌、現在の平壌まででも320キロはある。

(続く)