今日のお菓子。。。『芋名月』 牛皮で漉し餡を包み、里芋風につくり、焼きコテで焼き目をつけています。
元々は中国の「中秋節」が起源で、中国では月餅(ハオチー)を食べていました。日本には平安時代に(歴史古っ)遣唐使が伝え…「お月見」の最初の記録は865年の菅原道真。(お月見は中国のコピーです^^; 日本のサブカルチャーが少々??コピーされても…^^;)
お月見は、日本では収穫祭と重なって発展しました。江戸時代にはポピュラーな行事で庶民にも広がり、日本では十五夜(旧暦8月15日)だけでなく、旧暦の9月13日にもお月見をする習慣があります。(今年の9月13日のお月様は冴え冴えとしてみごとでしたよね(#^.^#))
収穫祭の要素が強いため、収穫の前に月に祈ったとか、月見団子にはすすきも添えますが、それも稲穂に見立ててのこと。。。
しっぽりとお花。。。
今日は『茶人の逸話』--から学ぶもの――
利休七哲の荒木村重 またの名を荒木道薫
茶道の精神を守るため、武将を捨て、家族、家臣をなくして一生をおくった人物。
主君である織田信長に反旗をひるがえし、戦いに敗れ、茶壺と小鼓だけを持って逃げ、生き延びる…
どうして反旗をひるがしたのか…それは信長の(茶道の)名物狩りに嫌気がさしたからとか(そこが許せなかった??)
その背景には村重の生い立ちに関係があるようで、荒木一族はなんと利休さんの師匠さん(武野紹鴎)のお師匠さん(北向道陳=本名荒木)の家柄だったのでした。
ですから、村重自身子供のころから相当茶の湯には造詣が深く、信長や秀吉たちの“茶の湯”とレベルが違うというか…奥の深いところまで知らないくせに・・・と信長をバカにして反旗をひるがえしていったのでしょう。
しかし、現実の代償は大きいものでした。
家来や親族を取り押さえられて120名磔。他512名は小部屋に押し込まれ焼き殺され、奥さんや子供たちは京都の市中引き回しのあげく斬首。その首もさらされたそうです。
そんな中村重は自分ひとりだけ生き抜こうとします。知り合いのさまざまな城に点々と逃げかくまわれ、信長の時代の後退を息をひそめてじっと待ちます。
ようやく、信長が死に秀吉の時代になると世にでて、今度は秀吉に取り入り読み書きが不得意だった秀吉の文字の代役やお伽衆のひとりになって信長が亡くなった後5年後に生涯を終えます。
道薫のことば
「我、たとえ天涯一人になるとも信長の行路を見定めん」 彼の心に中に往来するものはなんだったのでしょう。
いずれにしても当時の“茶の湯”とは命をかけて行うもの、それほど深く重要だったようです。
水屋の様子。。
一年に渡ってのお勉強会、ひとまず今日でいったん終了して休憩します。
浅沼先生ありがとうございました!