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平等思想とエコノミックアニマル化との相関関係

2009年04月28日 09時16分52秒 | 思想信条
先日ejnewsさんが「官僚が悪いのは政治家の怠慢が原因なのではないだろうか」に下さったコメントに触発されて、下記のようなコメントを書いたのですが、お目に触れにくいコメント欄ですので、ちょっと表に出したくなりました。
日本人がエコノミックアニマルと言われるようになったころのことが思い出されます。(過去記事「浪花節の世界に帰える方がましかも」も宜しかったらご覧ください。)

ejnews様 (和久希世)  (2009-04-26 )
コメント有難うございます。
引用された「人間は過去に生きた先祖達の残し蓄積した思想、科学知識、発見、発明品を利用し其の上に又一寸だけ何かを付け加えて生き続けているのです・・・・・」は、全くその通りだと思います。
キリスト教にも、仏教の影響があったでしょうし、回教もキリスト教の影響を受けたところがあるという話を聞いた事があります。

それぞれの時代、地域に合うように、
修正されたから、その教義はその地に根を下ろし、今日まで続いているということなのでしょう。

仏教にもキリスト教にも、回教、儒教にも、その他どの宗教にも、
恐らくそれぞれの祖師が唱えられたのとはかなり違う、
時代や地域の手垢が付いていて、悪い部分もたくさん追加されている事でしょう。
ですから時代にあった改革は、絶対必要であると私も思います。

只、思い出しますのに、
私の子供の頃には、浪花節の人気がまだ残っており,ラジオやテレビなどで、しょっちゅう浪花節の声が聞こえていたのですが、
ある頃を境に、ぴったりと消えてしまいました。
浪花節が聞かれなくなった頃から、
人々は義理人情を唱える人をつかまえて
「浪花節でもあるまいし・・・・」という言葉を投げかけるようになっていた様でした。

浪花節の主張するところには、
いわゆる封建思想が満ち満ちていますが、
義理とか人情という、人として大切な思想も含まれています。
浪花節を否定した時、日本人は「義理人情」という良い部分も捨てねばならないと思い違いをしたのではないかという気がするのです。

それ以後の日本に流行ったのは、エコノミックアニマルという言葉でした。

平等思想がもたらすものは、
相互に尊重しあうという良い部分ばかりではなく、
これからは門地にかかわらず平等だそうから、
ここは一番頑張って、自分の力でのし上がってやろうという風に考える者を、大勢生み出すきっかけにもなった様です。
それが学歴社会を生みだし、
人々は子供の頃から競争社会入りさせられる事にもなるし、
儲ける為だったら血も涙もないことをしても、平気な人間を生み出す契機にもなるもののようです。

平等思想に反するからと言って、儒教を全否定してしまったら、その他の良い部分まで全部否定して仕舞わねばならないと、人々は錯覚してしまうのではないでしょうか?
(それはどの宗教においてでも、同じかと思いますが)

悪い部分は時代に合わせて、修正する事にしても、その教えそのものを全否定してしまうのは、もっと悪い結果になるのではないかと思うのです。

代わりに、どんなにすばらしい教えを持ってこられたとしても、
民俗の血肉になるには、時間がかかるものですから、結局付け焼刃となって、以前よりも悪い結果を生み出す事になるかと思うのです。

民族のバックボーンとなっていたものは、悪いところは随時修正してでも、大事にして行ったほうが良いのではないでしょうか。

バックボーンを突然取り上げられたら、
人々は混乱し、自信を失くしてしまって、
結果として軽薄な我利我利亡者だらけになってしまうのではないかと危惧されます。


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4 コメント

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Unknown (ejnews)
2009-04-29 03:25:07
実を言えば儒教についてはそれ程注意を払った事が無く儒教についてのコメントももうしない様に考えていたのですが...............

一概に儒教と言っても孔子や孟子等の様に色々あって同じ儒教でも違った考え方が出来ると思います。孟子では“易姓革命”と言ってソ連のボルシェビッキ革命や国王をギロチンにかけたフランス革命等も容認出来る思想を展開していますから強ち悪い思想ではないのですが、日本で一般に理解されている儒教は侍社会が階級社会の秩序を守る為に利用したり、大日本帝国の“教育勅語”に使われて日本人を天皇の権威に従わせる為に利用された歴史がありますので私は使い方によっては危険な思想だと思っています。仏教を国家思想に利用すると、そもそも“殺生”が出来ないので帝国日本の様な軍事国家等には向いていないのですよね。
孔子の言った事を読んで見るとやはり上下関係と言う人間社会感を当然とした上での思想の様な気がするのです。孔子も確かに良い事を沢山言っているようですが余りにも階級的で王道教育の様な面が強い様に思えるのですが……………………….。
孔子の言ったとされる事で面白いのは
「君子は重からざれば則ち威あらず。」------君子は動作に重厚さが無いと威厳が無い!-----一寸余りにも表面過ぎて此れが世界的に有名な哲学者の言う事なのか!と言うのが私の感想です。
「己に如かざる者を友とすることなかれ。」------自分より下の者と交わるな?----と言う意味?やはり上下関係を気にしている?
「君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲してしかして升り下り、而して飲ましむ。その争いや君子。」--------君子は(又君子!)争わない。普通は御互いに譲り合い、争いと言えば弓道等にしておいて敗者には酒を飲ますことを罰則とする。此れがファッショナブルな君子のやり方!?---------負けた者にはお酒を飲ませる良い方法ですね!此れなら私も何時も負ける様に努力するのですが……………….。
「子曰く、性は相近し、習えば相遠し。」---------人は最初は皆同じだが習う事によって思想が違ってくる。--------と言う事で和久希世さんと私は違った考え方をしていると言う事なのでしょうね。其れで良いのですよね。民主主義ですから。
 唯、不思議なのは奈良や京都等日本各地に残る寺や“もののあはれ”其れに応じた自然観“侘び寂び” や“茶の湯“等の事を思うと私は日本では仏教の影響が長く強く,時として物悲しく思われる日本的精神の基調だと思っていましたが……………特に日本の美意識や自然観が中国や朝鮮半島の文化とは一寸違った発展をしたと言う事は仏教に影響された日本的伝統だと私が考えているだけかもしれませが……………….。
 エコノミックアニマルについては資本主義下では何処の国民でも国家と言う幻想を信じている限りエコノミックアニマルになるのだと思います。そもそもエコノミックアニマルと言う言えばは日本人が言い始めた言葉でしょうか?それとも英米人が日本の経済的発展を人種差別して見下して使い始めた言葉なのでしょうか?英米人は日本人より違法な奴隷制度、植民地主義、帝国主義、軍事覇権、等で資本主義のルールを完全に無視するやり方で繁栄を勝ち得たのですからエコノミックアニマルと言う軍事力の背景の無い経済的競争は自慢しても良いのでは?(資本主義と言う事だけについて話しているのですが)唯、英米の差別用語をそのまま日本人自身を判断する時に使ってしまうのは問題があると思います。勿論、私は戦後の日本の資本家層や政府の市民の健康や日本列島の環境を無視した政策や行動を肯定しているわけではありません。
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ejnews様 (和久希世)
2009-04-29 08:13:02
コメント有難うございます。
「子曰く、性は相近し、習えば相遠し。」---------人は最初は皆同じだが習う事によって思想が違ってくる。--------と言う事で和久希世さんと私は違った考え方をしていると言う事なのでしょうね。其れで良いのですよね。民主主義ですから。
この通りだと私も思います。

恐らく私は儒教の事について、ejnewsさんよりも、もっと何も知らないだろうと思います。

ですから私は、儒教の教義について、とやかく言うつもりは全然ないのです。
只、民主主義のためとか、平等思想のためとか言って、民族が長年大事に守ってきたものを、突然取り上げるような事をすると、
事態はもっと悪くなるのではないかという事が言いたかったのです。

エコノミックアニマルという言葉も、恐らく西欧人がやっかみ半分で言い出した言葉なのでしょうけれど、
一面の真理を付いていたという気もするのです。

敗戦のショックと、戦後の急激な民主主義化によって、過去の何もかもが否定され、自信を失った日本人は、
義理人情という言葉も、その他日本人が培ってきていた色々な美徳も、総て軽蔑するようになって、
外聞とかその他色々の制約から解放され、
強くなれたという利点もあったでしょうけれど、
それまで一般的に守られていた、回りへの配慮を一切省いて、
利益追求一辺倒を邁進する人(いわゆる我利我利亡者)を多数作り出したのではないかという気がしているのです。
明治維新の時も急激に西洋の思想が入って、
日本人の人情が無くなったと、明治の人も思っていたようですが・・・・・

過去の思想にがんじがらめにされるのも、苦しい限りではあると思いますが、何から何まで否定すると、
又別の支障が起きてくるのではないかという事が言いたかったのです。

西洋思想も勿論立派なところも多いとは思いますが、自分の国で長年培われてきた思想というのは、人々のバックボーンになっていると思えますので、全否定するのではなく、悪いところを改良すると言う方が良いのではないかと、私は思うのです。


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Unknown (ejnews)
2009-04-29 13:34:10
私は儒教を無くしてしまえと言っているのではありません。人は必要のない物は使わなくなりほって置いても廃れてしまうので其のままにしておくと言うのが私の主義でして、明治時代の廃仏毀釈運動等はタリバンのバーミアンの石仏破壊と同じ蛮行だと思っています。廃仏毀釈運動でどれだけの仏教芸術が失われたを思うと日本人とは本当に愚かだと思います。
 日本には仏教と言う此れも遥々インドからやって来た哲学が中国からやって来た思想の儒教よりも日本的になり定着しているのではないでしょうか?(日本文化は殆どが外国から入って来ている。民主主義も同じで別に東洋からの借り物か西洋からの借り物の違いだけで借り物と言う事は同じ)日本での仏教の実質的歴史は儒教よりもズット長く、然も仏陀の教えは平和的で儒教で教えられている全ての事が仏教でも教えられているので私には儒教は蛇足のように思われるのです。唯、孟子の革命思想にあたる物は仏教にには無い様な気がします。
 其れと儒教は侍社会の哲学で武器を持って暴力でインドのカスト社会の様な階級秩序を維持する為に使われたので、私には如何も受け入れられないのです。
 明治になって止せば良いのに“教育勅語”に儒教を利用し百姓や町人を煽て上げて侍気取りにさせ戦争に駆り出す原因になった事は儒教の影響が明治になって無くならず支配者階級によって意識的に存続させられた事の害だったのではないでしょうか?(だから必要の無い物は放って置いて自然に忘れ去られる様にした方が良い)その結果が天皇家を中心にした帝国主義で、後に広島、長崎の原爆投下と言う終焉を迎えたのですが、それでも日本人は自分達で自分自身の未来を決定するだけの自立心が無く天皇の“玉音放送”を待たなければあの悲惨な戦争を終わらす事が出来なかったと言う歴史でしたよね?私は此れは王道教育である権威的な傾向の強い儒教の影響ではないかと思っています。
 日本的と言われる物は全て元々外国から入って来ているので民主主義が西洋の物でも別に気にする必要は無いと思いますよ。
 西洋の歴史を見ると中国の製紙技術は13世紀頃アラビアを経てやっと輸入され、同じく中国の磁器は18世紀になってやっとヨーロッパで製造されるようになり、農耕技術も中国では少なくとも千何百年も使われていた中国式の家畜に引かせる鋤等はやはり18世紀まで待たなけらばならなかったのですが(此の農耕技術の改善が農業革命を引き起こし、それによって生まれた過剰人口が産業革命の一因になると言う歴史です)欧州は其の後短い期間に移植された技術、知識を発展させ世界を制覇する事になったのですから、本当に何処から何がやって来ているなんて全く心配する必要は無いと思いますよ。返って保守的な過去の幻影を追う様な時代になると社会は活気や創造性を失い衰退していくと言う事が歴史上知られています。
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ejnews様 (和久希世)
2009-04-29 14:50:28
思いがけず大論争になってしまいましたが、
儒教の影響の最も強い韓国では目上の人とお酒を飲む時目下の人は目上の人から顔を背けてお酒を飲まなければいけないそうですが、お酒を飲む時でもこの様な事を心配しなければいけない社会は本当に平等な民主主義の定着は難しいのでは?
というejnewsさんのコメントに対して、私は異見が有っただけなのでした。

江戸時代は武士階級は儒教漬けにされていたのでしょうが、戦後育った私たちはあまり儒教の影響を受けていたとは思えませんので、儒教についてはあくまでも、韓国の事例として私は認識していたのですが、
儒教ではないけれど日本人も特有の価値観を持って生きていたのが、
戦後何もかも古いという言葉の元に否定された時代があったように記憶しています

儒教でも仏教でも浪花節でも良い面も有れば悪い面もあるでしょう。
でもそれが国民の情緒の域にまで入り込んでいるものであるならば、敢えて排除する事は控えた方が好いのではないかという事が言いたかっただけなのです。
先ほどのコメントでejnewsさんが仰っていますように、自然に任せたら良いと私も思います。

人は自分が育てられたときに教えられた倫理観で支えられていると思うのですすが、
その倫理観を成人後、社会から全否定されたとき、子供に何を教えるか、自信を失うことになりかねないと思うのです。
子供は親の自信のなさを敏感に感じて、素直に従わず反論したり、親を「古い」と決め付けたりするでしょう。

そうやって新しい世代から、それまで有った相互扶助の精神とか色々の美風が消え去るというようなことも起きたりするのではないかと思うのです。

私の言いたかったのはそれだけのことで、
人は必要のない物は使わなくなりほって置いても廃れてしまうので其のままにしておくと言うのが私の主義とのお説なら、私に何の異論もありません。
仰るとおりだと思います。

要するに旧来の情緒、人間が本来持っている思いやりの精神を捨て去って、新しがっていると、ツケはやがて自分自身に向かって来るかもしれない。
政治家に不人情なやり口を許していたら、
災いはやがて自分の上に降りかかることになるに違いないと言う事を言いたかっただけなのです。
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