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思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

ウロを起点にして

2022年10月07日 | もののあはれ
 すげぇ酔っている。
 まじすげえ。久しぶりに。
 最近は飲めば飲むほど身体の不調を感じて押さえているが、いろいろ環境(職場)の変化もあって、かなり酔っている。今日は。
 ああ。
 ソーラーパネルのキーボードが、SIFTキー壊れてショートカットキー使いづらくて不便で云々で、前から気になっていたテクニカルキーボード? を買ってみた。
 座椅子で足に置いてのタイピングは、誤打ち多い。キーの高さが高いので、どうしても、打ちにくくなる。

 さて。そんなことを書いていたらなんか冷めてきた。

 5月以来であるが、書こうかな? と思ったのは、特段の理由なく、いや上述、職場の変化の結果、久しぶりの、かつしばらくの間は、土日連休が確定して、なんというか。5日間連続して働くのは疲れるなと思いつつ、この1週間がんばったなの結果、酒をがぶ飲みして云々。


 リアルタイムで記録を残しておくことに意味がある。
 ウクライナとロシアの戦争について、当初、絶対すぐに終わると思った。
 それが現在、ウクライナが反攻しているほどの話である。

 もちろん他人の情報なので、本当なのかはわからない。実は情報操作ということもありえない。
 が、まあ、西側の見方だとしても、反攻しているのだろう。

 記録しておきたいのは、ロシアが当初に一気に制圧する以外、つまり、それが失敗した時に、ではこの戦争の終わりはどこにあるのだろうかと思ったことである。

 今ももちろん言われているが、自分の考えとして、ロシア側は、制圧による事実支配、しかしウクライナ側は自領を奪還しても、結局ロシアが戦争をやめない限りは終わらないんじゃないかと。とか。

 ロシアは、えっと、なんだっけ。
 選挙によって領土を、民主的に範囲にいれるという。
 ああ、新聞でも見ないと的確な表現ができないが。
 なるほどな、そういう終わらせ方なのか、と思った。

 わかるかな。説明悪いから。

 戦争して、首都制圧して、条約結んで、いろいろ決めて終わり。
 というのが戦争かなと思っていたが、
(そもそもクリミア半島の時もそういう話だったのかもしれないが、ほんと、時事に興味がないというのか知識不足であるか)
 戦争途中でも、その地域に住民投票を強いて、事実上、住民の意思で自領に参入させるという方法。
 なるほどなぁと思った。

 もちろん、それを認めない云々あるかもしれないが、なんというか、そういうものか、とすんなりいった。

 そもそも、現代的な戦争は、結局のところ、西欧の理屈である。
 と思う。
 30年戦争の頃に、あまりに規律がなくてひどいから、だれだっけか、
 調べてきたが、正しいかな
 国際法の父、名前は略す(笑)

 結局のところ、現代の戦争は、西欧主軸である。
 日本もその土壌で富国強兵して戦争して、負けたのである。

 だから、実際、日本人としては、勝手に戦争している、と言うのが本音で正しいと思う。
 みたいなことを思っている。

 何が言いたいのかうまく言えないが、つまるところ、酔っている今、今思ったことをとりあえず残しておこうということである。
 疲れた。

 最近は何をするにも疲れる。何も身体を動かさず、ただ頭の中を動かすだけでもすぐに疲れる。
 情けない
 これが老化か、と思う。


最近アニメを見た2

2022年05月18日 | もののあはれ
 2

 時系列としてはある意味最後なのだが、説明の順番としては2番目に必要だと思った。
 キノの旅 のアニメを2話ほどみた。
 魔女の旅々を ゲームしながら流し見した。

●何がいいたいのか、壱
 キノの旅は、なんか当時話題になったのを覚えている。その当時は「ブギーポップ」が話題になったのと同時代である。
 ただ、簡易にWIKIを見る限り、ブギーポップの最初は1998年で、キノは2000になっている。今となってはしょせん2年の差。

 ブギー略は一応小説を持っている。しかしキノのほうは読んだこともないし、正直この前見た数話のアニメまで、どんな話なのか知る由もなかった。
 なお、キノのアニメを続いて見れなかったのは、今更、これを見続けるほどアニメや物語に飢えていないと思ったからである。
 しかし、最近あったブギーのアニメは最後まで見た。
 そこに2つの作品の違いが自分の中にはあるのだろう。具体的に言えば、視聴者(読み手)を作品に引き入れるために1,2,3話あたりの最初にインパクトがあるか否か。
 そこにおける「雰囲気」を自分が好むかどうか。

 「魔女の旅略」は最後まで見たが、これはあくまでも、ゲームをしていて背景として流していたからである。だから、正直中身をほとんど理解していないし覚えていない。
 ならばなぜここに羅列されるのか。
 ドコモアニメで「旅」をテーマにした作品でくくられていたからである。だから「たまたま」見た。

 旅モノというジャンルがあるのだろうか。
 調べればわかるのかもしれないが、あまり調べる価値が自分には見つけられそうにないので調べない。

 この意味で、2つの作品は自分にとって興味はない。

 と、なんでこれを自分が書いたのか。
 ポイントは3つ
 時代性を超えても、同じジャンルの作品に対して、自分があまり興味がないのであれば、興味を持てない。
 キノの旅⇒魔女の略
 もう一つは、現代作品であっても興味の持てないジャンルには興味をもてない自分がいるということ。(絵柄や話の感覚でおもしろくおもえるかもしれないが、だとしても)
 そして最後のポイント。
 ・・・
 ? 忘れた。
 いや、そもそも何も思っていなかったのか。
 ただ、上の2つとは違う感覚でもって、しかしこの2作品を(最近見たアニメとして)挙げなければならないと思ったこと。
 うまく説明できないのが悲しい。
 



最近アニメを見た(ガンダム00)

2022年05月18日 | もののあはれ
 すごく酔っている。
 これはなんとも懐かしいフレーズに思える。
 最近はもう、文字を書くどころか、物事も考えず、いわゆる「脳死」でゲームをしているだけの生活である。
 ただ、酔っているのは毎日で、なんとか酒をやめられれば、と思う。

 2022年5月 ガンダム00を久しぶりに見た。その感想を残しておく。
 一番最初に言いたいのは、誰だっけ、ピンクの髪の女の子、最初(1st)はロックオンの彼女だった彼女がセツナに花を渡すときに、前は、節操がないと思った。(ロックオン死んで弟ビンタして、こんどはセツナに接近かよと思った)が、別段彼氏彼女の関係ではないのかと、冷静に見れた。
 何度も見ないと勝手解釈で勘違いしてしまういい事例だと思った。

 とはいえ、以下もそのような勝手解釈の勘違いがあるかもしれないが、それはそれ。
 その時の思いを記録することが重要だと思っている。

 さて、話はズレるが、いやいやズレない自分の話はないかもしれないが。
 00で一番好きなキャラは誰かと言われたら、なかなかに難しい(女キャラ)。
 しかしやっぱりソーマフィー略 なのかな、と思ったのが今回である。
 何かのブラウザゲームでいろいろ情報を集めたときに、銀髪がどっかの国で人気があるという情報を得た。真偽は知らない。
 なお、ブラウザゲームは艦これである。

 しかし同じく思うのは(タイミング的に同時にガンダムNTを見てしまったこともあるかもしれないが)、強化人間系のテーマ(話題)は・・・。結局そういう分類を自分が好んでいるのかなぁと思うところである。

 で、本題に入るが(過去に自分が何か00について考えていたかどうか覚えていないが)(確か映画については少し何か残した気がするが、さかのぼるのがめんどい今)、2007年(2ンdは2008)当時、自分が何をしていたか覚えていないが、それから15年たった2022年5月現在。
 放映して、よかった作品だと思った。

 当時、2002ねんぐらいだったか。2001年か。
 そういう記憶曖昧だが、アメリカでテロがあった。
 まじほんと覚えていない。2011年あたりのどこかの大震災大津波原発問題さえ、あまり覚えていないぐらいなのだから。
 ともかく、2007年当時、自分は00をリアルな、現代を描く作品なのか、それは「アニメとしてはふさわしくないのではないか」と思った。
 ガンダム再興的なSEEDから、ディスティニーは内容的に「戦争」をより強調した作品だったと思っているが、それをさらに「現実」問題として扱ったのが00だと、当時も思っていた。

 今、こうやって見直すに、00は、「いいんじゃないかな」と思っている。

 2007年当時、あまり考えることのなかった「現実世界の、見てみないふりをしている問題」を「ガンダム作品として描くこと」で(ガンダムが戦争を根本においたアニメであるという意味で、そういった自然な意味で(現実問題としては受け入れられないとしても、アニメの分類として)違和感なく受け入れられる設定として)、当時は「アニメ」としてしか問題とされなかった問題。これはいかなる意味においても「当時代性」として、どうしても「しょせんアニメ」(これはしょせんドラマと同じ意味で)

 やや酔っぱらって適当になってきているか。

 しょせんアニメ。どんなに社会的なことをしようとも、しょせんアニメ、という考えでしか、「その当時」の作品を、その当時のものとしてしか受け入れられないという「感覚」を「時間的に過ぎ去った」今、つまるところ改めて冷静に判断できるようになって思うに、

 と、くどくどした思いの結果。

 「考えさせられる作品」であるというのは、間違いないということである。
 そして2022年5月現在起こっている事象を思うに、こういう事象があって初めて、考えさせられるのか、とも思った。
 自分には無関係という思いがある限り、00はしょせんアニメでしかなく、メッセージ性は薄らいでしまう。

 あー酔っている。
 このまま酔いがさめるまで考えてから書き直せば・・・それはそれで恥ずかしくて全消去するだろうか。

 いろいろなガンダム作品を、自分はだいたい見ていると思う。見ていない最近の作品もあるが、しかし、一番「現実」をあらわしたのは00だと思う。
 それこそ現実的な地理観念歴史観念がつながっているから、かもしれないが、現実的に思えるのは00だけである。
 そのほかの作品はいくら戦闘して、いくら悲しくても現実的でも、しょせん「違う世界のお話」になってしまう。
 
 とはいえ、しかしこの自分の思いも、2000年代初期のあのテロを根本においた「同時代性」によって成立する問題なのだろうと思う。
 この作品だけを見て、果たして「おもしろいのか」否か。
 この作品が過去の現実の問題を作品の発起にしたのだろうという、「同時代性」をもつゆえに。

 云々。

 とにかくそんなことを思った。
 それ以外としては、ガンダムのお家芸の長距離大破壊兵器を壊すという展開。しかも2回するのかよと。ただ、初代はソーラーシステム(レイだったか)を壊す話ってあったっけ。

 さらに追加として、とある・・・、
 とあるVtubverのサムネに、ガンダムシリーズでポケットの戦争は最初に見るなとあったが、名言だと思う。
 しかし、あの作品が以後の、そういった「悲しさ」のテンプレートになっているのだと思う。

 作品としてどうしても、盛り上がりなど、オチを決めていかなければならないし、「アニメ」的な意味で、「わかりやすく」敵を設定する必要がある。
 だからリボンズがラスボスになってああいう展開にならざるをえないのは、当時も、しょせんそういうものと思っていたが、まあ、しょうがないのだろうなという思いは今も思う。

 しかし、それこそイノベーターの幾人かとも、「わかりあえる」結果として、生き残らせる展開もあったのではないか? と思うし、そういうところが「ない」点が、消化不良なのかもしれないとも思った。
 作品は十人十色。結果も十人十色。もしくは時間がなくて整合性がとれなくてしょうがなかった、もあるかもしれないが、「作品」として、今少し消化不良に終わってしまう感はある。
 もちろん「自分の思い」である。
 人によって受け取り方は千差万別であるから。

 だから人はわかりえないともいえる。


 
 

 

 
 



 

昨今のファンタンジーについて

2022年01月06日 | もののあはれ
 まあついでだし続けて書く。

 なんだっけ。忘れた。
 そもそもシャナなりハルヒなり、原作しらずのアニメしか見ていないから、原作に対する話ではない。
 あくまでアニメに対してである。
 あるいは俺ガイルにしろSAOにしろ。

 無職転生についてすこし。
 Ⅰ期のとき、リアルで見てないが、盾の勇者かなにか見た後に、ついでに見てみるかでdアニメで、途中で寝落ちしていたらしい。
 2期始まる前ぐらいに見直して、何かこれおもしろいけど、なんかどこかで見たことあるなぁと思っていたら、うっすら、寝落ちして少しだけ見ていたんだと思い出したわけで。

 さてはて。
 正直最近見たとき、某声優のナレーションやらロキシーやら、どストライクではまったのだが、なんで前に寝落ちしたときは何も思わなかったのだろうと、正直不思議に思う。

 ただ一つ言えるのは、主人公の詳細設定を、いわゆる説明しない証拠を後出しすることで、なにか育成要素やら成長要素やら進展要素やらに使ってくるのは、許せない。最初から作者がそのように設定していたのだとしても「無職が転生した」という設定で見始めているだけに、後出しは萎える。

 くどいが、アニメについての話であるが、
 某アニメを彷彿とさせるナレーションが最高におもしろい。
 そしてロキシーが最高にクール。
 しかし(自分にとっては)それだけのことである。

 ここ最近、はたらく魔王を見た。
 この働く魔王の時期が、アニメ的に最近のファンタジー作品の始まりだと思う。
 いわゆる、正統ファンタジーが廃れて、たとえばまおゆうみたいな(嫌いだけど)、ファンタジー世界の解説作品とか。そういう流れとして、「現代的思考をもってのファンタジー考察」というのが、いわゆる異世界転生ものだと思っている。

 いわゆる転生ものは昔からある。それこそ浦島太郎もそれに類する。
 タイムリープでいうなら有名どころで「ときをかける少女」、「戦国自衛隊」も同。
 さらにさかのぼって昭和初期、大正、明治、あるいは江戸以前の作品で、浅学にして知らない。
 知らないから適当に言うが、禁忌的だったのかなと思った。
 誰もが昔にもどって改めてやり直せたら。とは、歳をとれば思うもの。しかしそれを具体的にやらなかった。

 源氏物語の軟派男のおもしろさなど。「生まれ変わったならば」みたいに妄想する要素としてありえるが、具体的にタイムリープするという設定としては作らなかったし作る意味がなかったと。
 意味がなかったというのは変な言い方か。不要だったと。

 幻想的作品に妄想するだけでは足りず、「この自分が過去にもどってやり直す」という具体的な事案を実行するという、言い換えれば特定的ジャンルとして成立したこと。

 その意味で、新ジャンルを生み出したと言えるのだろう。ツンデレ等と同じく。

 ただ、それでもなお、あまりよろしくない風潮だとは思う。
 リセット世代というのも変ではあるが、やり直すことを具体的に描くのは、人生に対して、不敬極まりないし、どのみち、それらのオチは、リセット利かないのが人生だ、でしかない。
 わかりきった答えの単純なテーマを描いても、易いものでしかないんじゃないのか。

 そんなことを思った。
 思うのは自由であるから。

 なお、何度でもいうが、ロキシーは、近年まれにみる、自分的なハマリである。
 彼女がいるだけで無職転生はおもしろい。と記しておこう。

 

銀英伝を見る(R4一月)

2022年01月06日 | もののあはれ
 すげえ酔っている間に。

 久しぶりだ。
 久しぶりにここを書く気がする。いつぶりか調べるのも面倒だ。酔っている。

 さて、テレビをほとんどみなくなって、スカパー入っているのがもったいないと思うこと数か月、Yotubeで新銀英伝の無料放送をしていると知ってみている令和四年正月。

 新旧の問題はある。正直、スペースオペラという意味不明な冠でクラシックを背景に作った旧作は、素晴らしいと思う。これを知っているだけに、新作は、美形絵ばかりの現代的なのが鼻につくが云々。

 さて、最近万葉集を読んでいるが、高校なり、勉強として見ていてもさっぱりつまらなく。
 が、歳をとって今、理解できてくるところがある。そもそも歌を歌っているのは、歳をとった人や、死ぬ前の人や、そういうことを理解してみると、ものすごく感銘を受ける。(例えばそうだな。くさまくらたびにしあればしいのはにもる、だったか。泣けてくる)

 歳をとって読み直して、改めて理解できる作品はすばらしい。

 銀英伝も、いつのまにかこの年36歳レンネンカンプ(だったかな)を「うっ」と思ったのがすでにはるかな過去。
 もはやラインハルトにとっては(あくまで20代前半のラインハルトとっての)老害と言われそうな世代になってしまったが、改めてこうやってみていると、

 たとえばアスターテのパエッタとか、あるいはクーデターのリンツとか。
 主人公ヤンの適役と言うかなんというか。
 若い当時は「くそ野郎」みたいに思っていたが、歳をとってみるに、「うーむ」とうなるところがある。
 天才であれば気にしないのかもしれない。しかし歳をとって、思った以上に自身の能力が低下したこと、あるいはそもそも能力なんてなかったのかもしれない。そういうことがわかるようになってしまっては。
 彼らの気持ちもわかってしまう。

 歳はとりたくないものだ。
 そんなことを思ったので、久しぶりにここに至った。

 あるいは、そういうことを思っている人たちが、新作を作ったのかもしれないと。

 あと思った。
 オーベルシュタインは、ラインハルトのことがかなり好きなんだと思う。
 命を救ってもらったうえに、現状社会を破壊するだけの覇気と才能をもっていて、そして彼を補佐できる場を与えてもらったこと。
 だから、ただ幼馴染というだけで(武勲はあるにしても)階級を無理やり上げたキルヒアイスに嫉妬したのだと思う。
 オーベルシュタインが何を考えていたのか、わからない、と思っていたが、そういう風に考えると、案外わかりやすい男だったのかもしれないと思った。

おおむかしのことについて

2020年12月19日 | もののあはれ
 三国志14記事書いて、さあ三国志14しようかなと思っていたが、こうやって文章を書いてしまうとついつい、・・・この時間からはもう明日を思うと酒が飲めないが、酒によった勢いで続いて書いてしまう。いつものことである。

 今、万葉集を読んでいる。というか読み始めたばかりで数日もすると飽きるかもしれないが。

 前に書いたかな?

 むかしの日本ってどうなの? と思うと、実際わからないみたいで、「おもしろい」と思った。
 面白いと思った理由に、やまたいこくとひみこはどこに? である。

 最古の日本の歴史書は「日本書紀」である。読んだことない。
 古事記は大学のときに授業があって少し目を通したが、今更ながら、偽書の疑いがあったのだと知った。
 今はおそらく、序文のみが偽書もしくは時代が違うのであって、本文自体は当時性に適合すると、大学の授業で使った本書の解説に書いてあった。読んでなかったのだなぁ。

 最初に書くと、天武天皇の頃に、いろいろ何かがあったらしいである。
 で、簡単に書くと、いわゆる知られている魏志倭人伝の卑弥呼。三国志つながりではないが、これは中国の歴史書として確実な話である。では日本の歴史書に、なぜやまたいこくとひみこがでてこないのか。である。
 これを前提とした検討でいろいろな案がでて、面白そうと思うが、自分としては結局のところ、中華思想の世界観から離脱しようとした天武天皇頃の雰囲気で、中国王朝の臣下となったやまたいこくもしくは卑弥呼を否定した。である。
 あくまで自分の思いであってなんら論理的根拠はない。

 ただ、そういったことを最近見ていていろいろ思ったこととして、
壱 ヒミコは日の御子(巫女)か。と思ったこと。
 日は日の国として、古事記的にも最初の頃はそういう(人名や神名)名称が多かったので。
弐 スサノオ神話は出雲神話なのかな、と。
 ただ思うのは、国譲りとはどういう意味なのか、である。
 (大和王権が)弱い国から権力を奪えば国譲りとは言わない。占領とは言わないまで「従えた」で済むのだから。(大和王権が)強い国から権力を奪う。というのはありえない。強い国には勝てないから。
 そうなると「なんで国譲?」
 連合国家で権力が移ったことに対する根拠、言い訳、建前として「譲られたから俺たち正統なのよ」ということの、他連合国家への表明だから?
参 出雲国
 について書いている地元の人がいた。読んだが、自身素人と言っていたが、確かに学者的でないと思った。(言うなら自分も素人なのだが)問題は、いろんな文献にあたっていないこと、自分の知りえる範囲範囲内でしか語れないこと。例えば「万葉仮名」。について左記地元の人は、そんなことわからないというようなことを書いていた。万葉仮名を否定することによって、そもそも自らの意見に根拠がなくなるわけであって、たとえ真実を語っているにしても、読まれる価値がなくなってしまう。そういうのが学者的である。
 例えば、「松江」「山陰」「江川」などの地名について、それらが中国(の呉)にあって、云々。それだけ読めばけっこう「ほお」っと納得のいく話であるが、根拠も論拠もない。
 一つでも根拠がないと思えば、他すべて眉唾になってしまう。それが学者的である。

肆 言語
 万葉仮名については自分もよくわからないが、仮に出雲なりに中国人が入ったとしよう。
 あるいは雄略天皇期でもいい。
 中国語と日本語は語順が違う。(もちろん大昔のことを知らないから、ここですでに自分が間違いかもしれないが)中国語は英語と同じ言語圏である。
 ではむかしの日本語も(語順が)そうだったのか?
 ただ、万葉集のころは、語順的には今の日本と同じだと思う。(どうだろう)
 で、仮に中国からの移入があって、たとえば徐福でもいいが、日本のどこかに入植したとする。かれらは日本語を話さない。中国語のままである。日本化する。
 そうなると、なんら痕跡がのこらないから、調べようがない。である。
 む。この話題はかなり適当というか何言ってんのかわからなくなったが。
 仮に大多数が移民すれば、その地域は元の言語を維持できるのではないか、ということである。徐福はたとえば3千人で云々である(徐福伝説はあくまで例えである。仮に数千人規模で移民があった場合の話である)。ただその後100年もすれば、3千人ごときは同化して日本語を話すようになるといってしまえばそれまでであるが、自分がここで言いたかったのは、同化の問題を考えれば、そもそもそんな多くの人が一気に流入してこなかったのでは? である。
 であれば、松江なり山陰なり、地名としては残らない(人数的に少なければ精力的に地名を残すだけの権威がない)という参に対する反論である。

伍 万葉集読むなら古今和歌集でいい
 まあ、まだ万葉集ちょろっとしか読んでないからの意見だが、万葉仮名で書かれているから、実際本当にそのように読まれていたかどうかわからない、である。
 江戸時代ごろのだれかそれかとかが、これはこう読むのであって、なんとすばらしい詩であるか。しかし実際はそう読まないと近代わかった。だとしたらすばらしい詩かどうか・・・。
 古今和歌集は万葉仮名ではないから。すくなくとも、どう読む? という疑問は不要であるし、宣長さんも古今の心をみたいな云々。
 まあ、本居宣長も、こうやって考えると、怪しさ抜群ではある。確かに古事記をがんばってくれて、解読の手間暇を現在減らしてくれる功績があるにしても、正しい正しくないは別問題であるから。

六 もう少し話題として天武天皇。
 天皇家が代々云々の問題は、継体天皇が一つの問題であること。
 万世一系。
 ただ、継体天皇以後は一応万世一系となっている。(そもそも天皇のそれぞれの名称は天武天皇後のだれかが一括して定めたとあるが(それまで天皇という名称がなかったから(それまでは大王(おおきみ)だったと簡易説明))、そのとき「継体」とわざわざ名付けたところに意味があるのだろう。
 そういった意味で「天智天皇」「天武天皇」も思うところはある。ロマンスを思えば「額田王」を入れればいい。

七 書く必要はないかもしれないが。
 これを書くとあまりよくないのかもしれないが、今の日本に天皇は必要なのか、という問題である。
 はっきりいって、皇族は途絶える現状にあると思う。
 後醍醐天皇をはじめとして? いやいや別にいづれかの徳川将軍でもいいが、アホみたい子供がいる。下手したら100人とか・・・。それはなぜか、ということである。「それ」を否定する人がいるからだろうと。
 ということはとりあえずおいて、民主主義と、王国制と、他云々か。
 民主的に成立したアメリカが民主主義であるのは別に構わないと思う。成立からして自由と平等(はあったのかな?)
 中国は、大きな目で見たら昔から変わらない皇帝制だと思う。
 中国の皇帝は別に血縁関係ない、禅定か改革である。劉邦しかり他知らないが。
 イギリスはなんで王国制度なのか、よくわからない。改革が王家に至らなかったからだろう。フランスと違って。
 で、日本。
 天皇制度がなくなった先に、どのような未来像があるのだろうか。
 おそらくそのとき、自分は生きていないと思うが、どうにでもなれ、という心境にもなれない。
 そもそも国力的に日本は弱い。
 対外的にも弱いうえに、体内的にもまとまりを欠いたら、いい餌になるだけではないのか? とか思ってしまう。杞憂であればいいのだが。

 
 
  


日本の歴史15を読んで

2020年08月18日 | もののあはれ
 激昂にしろ歓喜にしろ、思ったそのときに書いておかないと、だらだらずるずる。しかしまたふとした時に同じことを思って、云々かんぬん。
 しかし今現在疲れてしまったので、なんだかどうでもよくなったが。
 中身を考えるのめんどくさいので思った順に書く。

 とにかく、読んでいてなんか腹が立つ。
P48-49 三方ヶ原の戦い
「これは信玄の賢明な戦略であった」でイラっときた。
 何をもって「賢明」というのか。文脈からは、信玄は、「一刻も速く西へ西へ進んで信長を挟撃する」ために、何十日もかかるであろう浜松城の包囲戦をせずに「台地に誘い出して一気に勝敗を決した方がいいと判断したのである」
 なるほど、これは確かに「賢明」である。イラっと来たのは早とちりだったと思ったが、
「一方の家康の役割は、同盟者信長のために信玄の西進を阻むことであったから、浜松城に座して信玄の西進を見送るわけにはいかなかった」 
 ? 続いて、
「信長の援軍はわずか三千、家康軍は八千ほどに対し、武田軍は二万数千といわれ、勝ち目はなかったが」
 言ってること矛盾してね?
 いや、言ってることは矛盾してないのかもしれないが、普通に考えるとおかしな話。
「浜松城に座して信玄の西進を見送る」「勝ち目はなかった」
 まあ、当時の詳しい現実を知らないから、結局のところ自分の言うことも勝手な意見だけど、急いでいるから包囲戦しなかったこと、相手を野戦に引きずりだすことは、確かに賢明であるが、そもそも敵の数が多いのに野戦を挑むこと自体、それどういうこと? である。夜戦に引きずり出したことを「賢明」というならわかるが、勝ち目もないのに、「指を加えて城で座っているのはだめだから」野戦をしたというのは論理に穴がある。西進すればいいじゃん。その後ろをつけば問題ないじゃん? それで済む話。まあほんと詳しくしらないから以下はさらに適当に言うが、二万のうちの数千を包囲戦でなくて、家康が城から動けなくさせる程度に配置して、その間に信玄は西進する。
 まあ、いい。↑のほうでイラっと来た理由だが、直接的には、「信玄が偉大だから、その戦略は賢明だった」 というふうに見えて腹が立つわけだ。
 つまり、信玄が西進を急いでいたが、ここは後方のために浜松城を包囲して陥落させたという「歴史事実」が仮にあったとしたら、作者は、その戦略を賢明だった、というのだろうと思ったわけだ。
 違うだろ?
 このシリーズの前のやつも、そういう感じを受けたが、この15は、まだ50P 読んでないのに、3,4回は同じようなことを思った。
 
 せっかくだから、そもそも最初の3pから
「・・・戦争で「乱れた世」を統一した三人を偉人・英雄に祭り上げ、彼らの・・・」
 めんどくさいので省いたら、意味が通じないかな。改めて読み返すと初読時の印象と少し違ったが、しかしやっぱり同じか。
「私たちは、略、評価する教育を受けているから」で上につながるが、ようは、今の教育で、信長たちを英雄として見ているとして、「英雄たちがその血塗られた手で権力を握ったことを忘れず、被支配者からの視点を失わないようにして、この時代を見ていきたいというのが私の基本姿勢である」
 ああ、なるほど。こうやって読み返すとそうかーと思う。
 自分が言いたかったのは、そもそも信長たちを英雄として見ていること自体、おかしいんじゃね? と思っていたから、だけど作者は、彼らを「英雄」として見ていきますよと言っている。だから上、英雄に類する信玄に対して、賢明ということが容易にでてくるのだろう。自分は信玄を英雄的に考えるのはダメじゃん? つまり英雄観という点から歴史見るなよ、これ歴史漫画か? せいぜい時代小説か? と思ったわけだが、そういう視点で書いているのか。だとしたらこの点については文句は言えない。

 まあ、結論としては、激昂、歓喜いずれにしても、いったん冷静に見直せということだろう。
 思い込みがどうしてもある。思い込みのまま読み間違える。
 しかし、将軍義昭を奉じて、なんで官職も役職もいらないと言ったのか。わからないし、そういった肩書なく、統治をおこなうという、その権限はどこからきているのか。上に同じく、大事なことを読み間違えたのだろうか。これって例えば、地方で私的な政治団体が、総理が体調悪いらしくて、許可はとったんで代わりに俺らが日本治めます。でも俺は総理にも政治家にもならないよって言ってるようなもんじゃないのか? 昔だからそれが成り立つなんてことはなく、そこにはちゃんとした権限があるわけで、そういうことがなんかいろいろ例として挙げてあるのはわかった。それが最終的に将軍のハンコいらないよ、信長のハンコがあればそれでいい、になってくるのはわかる。だけど、そもそも、信長はどういう立場で統治をおこなったのか。が、見えない。例えば頼朝だったら見える形としては征夷大将軍だが、いろいろな政策を行うために朝廷からいろいろ許可をもらっていた(と思う)。室町幕府も、構造として、管領がいてうんぬん(あんまわかっていないが)。で、信長の肩書はなに?
 そういえば、足利6~8代ぐらいの誰かだっけか、大内氏がいわゆる傭兵的な存在として云々というのがあったが、(将軍家は私的な兵士がいないみたいな。まあいるんだろうけど諸守護に対するほどの軍事力がなかったとか)、そういうときの大内氏と同じようなものなのか。そのときの大内氏はどんな感じだったのか、ああ、まったく覚えていない。
 と、ぐだぐだだなあ。
 とにかく、オチとしては、信長英雄だから、信長のしたことはすごい。普通ではない。という前提のもとに、戦国期の歴史は考えられてるんじゃないのか? とか思ってしまう。逆に、この戦国期は日本の歴史の中でも知名度が高く、その割に維新ほどデータがあるわけではない昔だから、なかなかに描くのが難しく、でも人気のところだから、下手なことを書いたら、それこそ自分みたいな人にケチつけられたりとか。誰もが書きたがらなかったから、スケープゴートとして云々とか思ったりした。
 それでも、勉強の糸口としては、手掛かりとして、この日本の歴史シリーズは参考になる。本当でありがたい。

anotherを見て

2020年06月12日 | もののあはれ
 以前も書いただろうか。覚えていないが。
 氷菓見て、なんかのつながりで、ああ、another。anotherなら死んでいたのanotherか。しかしネタ知っているし見るのもなんだかなぁと思ったが、1話目見ていて、あれどんな話だっけかと、うっかりネタバレ見て、ああしまった、ネタバレしてしまったと後悔した。実は忘れていたのである。もちろん全部忘れていたわけではなく、ある程度は覚えていた。だから先述、ネタ知っているし、と思ったわけである。忘れていたほうが楽しめるネタバレ部分を、うっかりネタバレしてしまった。ちなみに、そのときは何を忘れていたのか、それを忘れてしまった。これについては、別に怖い話ではなく単なる物忘れの話である。いや、現実的には怖い話なのだろうが。

 さて、結論としては、おもしろかった。原作は知らないからどうでもいい。漫画や映画もあるようだが、どうでもいい。アニメの話である。
 Wikiで一番印象に残った話が、人気のあったあかざわさんのラストを変えたというところか。あとで言われてわかるようなことだが、見ていたその時、なんか変だなぁと思ったのは、こういうことだったのかと納得した。という書き方ではわかりにくい気もするが。あんまりネタバレしないように書こうと思ったらなかなか難しい。
 早い話、なんというか。簡単に言うと、中盤がけっこうおもしろいと思った。もう少し見ていたいと思っていた。そして、うっすら記憶していたクライマックスを迎えて、ああ、なんというのか。
 おもしろいけど、これじゃだめだよな感。
 ただし、左記、中盤がかなり楽しめたという意味で、おもしろかったと言える。

 で、ここからはネタバレに通じるが、始まってからの数話は、実際、どのへんがミステリ的におもしろいのかと見当違いな気持ちになっていた。つまり、話を知っているから、主人公目線での疑問がまったく疑問でないから、おもしろさの要素が共有できていなかった。
 序盤のおもしろさはメイについてである。彼女に対する興味をもてなかったら、見ていておもしろくない。
 その意味で、ラストまで見終えて、おもしろかったなと思えるために必要なのは、結局のところ、主人公の犯人に対する思いではないかと。
 いや、犯人はいないけど。
 主人公の思いが12話だけでは描き切れていなかったのが、まあ、しょうがないことではあろうが。

 その辺も含めて、見終えて少しだけモヤモヤしたのでネットをいろいろ見た。
 そういえば、当時はそれこそコメントの流れる動画形式で見ていたかもしれないなぁとか、適当に回顧しておく。なつかしい。映像より文字を読んで楽しんでいた気がする。みんなでわいわい見ている感覚で、つまらないアニメもおもしろく感じられたものだ。という、この発言が事実かどうかは、覚えていないということにしておきたい。もしくは夢の中の話か。

 検索した先で、いろいろコメントがあって、少し思ったことがある。
 簡単に説明すると、本格だろうがなんだろうが、こういった作品はしょせん名探偵コナンとさほど変わらない。しょせん漫画、子供向け。
 というのはダメか。ともかく。
 ご都合主義である。
 それこそ毎年ではないが、明らかに平均以上に関係者が亡くなる学校があって、しかも(アニメゆえの誇張演出であって、実はたんなる事故死だったしても)、不可解ではないにしても、やや大仰な事故をしている。エレベーターの故障はともかく、大型の工事車両があんなこと、ふつうならんじゃん。云々。
 警察が調べないのはおかしいとか、近所の人や、同じ学校の人がどう思っているのか、とか、都合よすぎ、みたいな発言。
 リアリティーがないというのもあったが。
 たしかに難しい問題である。が、それでもやっぱり、警察云々はともかく、リアリティーを旗印にした言い分は、相手にしないでいいと思う。というのは暴言かもしれないが。
 そういったことを前提にして作られているわけなのだから。
 ノンフィクションにたいしてリアリティーがないというのは変ではないと思うが、フィクションに対してリアリティーがないというのは、それもまた変ではないが、この場合は、具体的に何についてのリアリティーがないのか、とテーブル設定が必要だろう。
 ん、話がズレてきている気もする。

 現象のせいで、警察も深入りしないし、近所の人も深くかかわらない。そういう現象。
 ししょのなんとかさんだっけか、いかにも歯切れの悪い説明だったが、リアリティーで考えたら、そもそも成立しないのはわかっているけど、そういうことが実際に起きているんだよという状況であること。これを受け入れるか入れないか、そこが分岐点なわけであって、受け入れられないなら、それでいいじゃん。なんでわざわざそこでリアリティーを口にするのか。
 しかし知人Fは黒子のバスケにリアリティーがないと言った。
 理解している人は言わないし、理解していないから言う。ただそれだけのことである。
 別に悪い悪くないではなく、ただ、わかっている者にとっては、なんとも。
 という話をすると、またズレてきている気もするが。

 ともかく、不思議な現象の中に、主人公が迷い込んで、なんとかしようとして、いろいろ方法を考えて(実際考えてはないないが)、脱出しようとするそういった経緯、を面白いとして楽しんだんだと思う。
 結果が見たいから見たわけではない。結果は知っているのだから。
 楽しむというのは、経緯を楽しむことなんだなと、そんなことを思ったので、こうやって書いているわけである。
 ただ、その経緯の結果を、すなわち作品全体に対する思いも、気持ちのいい感触にしようとしたら、もう少し違う描き方をしてほしかった、というのは自分の要望である。

 そうそう。話がズレていると何度か書いたが、何が言いたかったのか思い出した
 コメントに今の自分のように、こうしたほうがよかったのでは? とか、警察などの現実的な対応みたいなことについてもこうしたほうが、みたいな。言い方を変えるなら、なんで作者はそんなことがわからないの? みたいなのを見たが、みさきめいが美少女であることを含めて、作者はわかっているけど、あえてそうしなかったんじゃないの? と思った。
 それこそ自分は、つまるところ、母親がわりのおばさんに対する主人公の気持ちで作品を整理すればいいと思った。
 しかし作者、もしくはアニメの方向性としては、そういう方向もあるけど、別のにしようとか、いろいろな解釈にとれるようにしておこうとか。(実際主人公はそもそもおばさんに会ったことあるのか? という設定だと思う。付き合いが短いから、この方向性がとりにくいというのはあると思う)

 以上。思うところを思うがまま書いてみた。
 ただ、おもしろく思っていた経緯の具体的な自分の気持ちが書けなかったのは、数年先、これを読み返したとき、どんな思いをしたのだろうか、わからないのだろうなと思うところ。
 もう少し見ていたいと思う気持ち。
 言葉にすればそういうことだが、この中に自分の感じられた気持ちは垣間見えない。そのことが、やや悲しい。

 ちなみにあかざわさんにたいする変だなと思ったのは、それこそ、リアリティーのない変な死に方をしたことについてである。WIKIによると、人気があったため死に方を変えたとのこと。階段すべって傘にささって死ぬのとどちらが確率高いのだろう。リアリティーを口にする人に文句をつけた自分も、基本的には、現実的に考える人間である


 

エヴァQを見て

2020年04月23日 | もののあはれ
 職種によって暇忙各種。正直数年働かなくても食っていける余裕はあるけど、やっぱりそれでも、いざ働かなくなったら、収入を考えるようになるのだろうなぁと思うこの頃。忙しくてストレスはかなりたまっている。(基本一車線の)自動車道で、後ろのトラック気になって、でもしばらく前まで車いるから飛ばしてもしょうがないしと、二車線ゾーンでトラックのさらに後ろの車に抜かれて、それは構わないが、さらにトラックも抜いていって、なんかちょっと腹が立って、前に車がいなければ飛ばすゾーンに入って、トラックの前に車がいなくて、やや煽った。うーん。反省。かといって二車線ゾーンでそれまでのスピードを保って抜かれているわけで、そこでスピードだしてぬかさないようにするのもなんか嫌味だし、すぐに前の車に追いつくし、うーんといまだにうじうじ思ってしまう。イラっとくるようなことになってもあおるな、と自重の一例としたい。(ようは、そうなるとわかっていたのだから、体裁気にせず抜かせなければよかったじゃんという判断を実行しなかった判断力の低下と決断力の甘さについて、うじうじしているわけであると書いておかないと、あとあと忘れてしまうだろう。あと、自動車道おりたジャンクションカーブ手前までで本線走るトラック抜いてやろう的なことをやってしまって、スピード出しすぎてちょっと焦ったから。あと10年ぐらい歳をとっていたら判断ミス操作ミスで事故死していた率かなり高めのことをしてしまうような情けないことをしてしまったがゆえに。だからそんなことをするなら最初から抜かさせるな、と)

 さて。Youtubeで4月27日まで無料で見られる映画三作。新作が6月放映だったというのを今日知った。そして延期することも。鳥取シネマは、昨日あたりから休館になった。今日木曜休みだからメンズデーでホラーのやつ見に行こうと先々週から思っていただけに、ややショック。「忙しくなければ」先週の木曜とか仕事終わって見れたけど、「忙しくて」早く帰れないから。
 だからイライラ・・・ループする。みんなが忙しければいいんだけど、自分だけが早く帰れないからイライラが増すわけである。
 ま、せっかくなのではっきりと言えば、新人教育で早く帰れないうえに、その新人が、どうにもこうにもとろいから。と、これについては長くなるので書きたくなかったが、と逆接にすると話が長くなるのでやめる。しょうがないとあきらめる話でしかないわけだから。でもね、去年の新人はものすごく仕事の覚えが早くて、その教育が自分だった可能性もあったが、新人教育はとにかく帰るのが遅くなるからそもそも嫌なわけで他の人になったわけだが、その翌年の今、なんでよりによって、というイライラ。その結果それこそ事故死しかけたわけであるから、困る。

 で、タイトルについては特段中身を書くわけではない。ただ思った。2012年か。そんなに前になるのか。

 あっと、書こうと思っていたことを忘れていた。
 今年は日本の歴史を読んでいる。講談社学術文庫のやつ。まあ、読んでも一日10分そこらだから遅々として進まないが、藤原四兄弟が天然痘で死んだとあって、ふーんと思っていたが、うーんと思う。
 子供の頃エイズが話題になって怖がった覚えがある。
 そんなことを思った。

 で、話を戻すが、セカイ系とかの話題はすでに10年ぐらい前か。このブログの最初の頃に書いた覚えがあるが、エヴァが由来だと(多分)思う。前にも書いたから同じことだが、一つの気になる物語が終わってくれるから、その終わりを見る。結果、「つづく」だったわけであるが、さらにそこから8年ということか。それこそエヴァの呪縛から早く解放してくれ、さすがにアスカと少し違って社会的には大人になってしまった自分であるが、改めて見て(そもそも前に見たときは、どのような形態で見たのか・・・。映画館でやってくれたら大きな画面で見たかったな、か。鳥取市ではしてなかったと思う。多分)。
 ガキシンジには、確かについていけない。が、これを土台にして各種の展開を行っていることに、なんか嫌な感じがする。
 まあ、嫌な感じがするのはそもそものエヴァらしさだろうけど、ガキシンジだからこんなことするでしょ? そもそも主人公だし許してね。みたいな展開に見えてしまう程度の歳の取り方をしてしまったのが悲しい。
 スイッチ押せないミサトさんとかリツコさんとか、そのへんは前にも書いた通りで、今でもそれはよくわかるところである。
 鬱系とか、そういう系統での、セカイ系ということか。今思った。
 別に世界が崩壊するから主人公が鬱になるとか、見ていて鬱っぽいとかある必要はない。
 世界が滅ぶからとりあえず遠い宇宙まで戦艦で旅立つとか、世界がすごい悪そうなやつに支配されるからちょっと冥界まで行ってゴールドな人たちが再度死ぬとか。鬱ではない。
 アニメ(に限らないが、今はもうアニメしか見ないから)は気持ちよく見たい。気持ちよくないアニメだとしても、それはそれでよし。でも、それで世界が滅んでしまうのは、どうにもこうにも、周囲は何してたの? 仕事してんの? あほじゃないの? とか思ってしまうから。世界が滅ぶ可能性があるのに、なんで乗せるの? その結果世界が滅んで、なんでシンジ君のせいにするの? おまえらの責任だろ? 責任転嫁すんな。と思うと、作品的に破綻しているわけである。
 自分の見方が悪いのかもしれないが、シンジ君に責任転嫁しているという感がQからは見えない。覚えがよくない、記憶能力も低下している今、確かテレビ版ではそんなこと、子供に責任押し付けてるみたいな話題をした気がするが、Qを見ている限り、Qの中ではそんなことが言われていなかった気がする。まあ、その後の「つづき」でそういう責任転嫁を認めるような話をするなら、「一貫性のある物語」としてはQをおもしろく思うのかもしれないが、その「つづき」が放映されていない以上、文句を言うしかない。わけである。

 イライラしているから文句を言う。なんとも情けないことか。
 でも、アスカは好きだなと改めて思った。見た目は子供、頭脳は大人。しっかり仕事をする、それでいてしっかりとわかっている。
 最後なんだかんだシンジの面倒を見るアスカ。大人である。

 だからこの作品はダメなのだ。
 アニメは子供がみるものなのだから。大人はでてはいけないのである。

 追記
 そうか、ゼーレ側の手ごまみたいな感じでシンジ君が悪いことしたという意味では、シンジ君が悪いとはいえるのか。