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思い立ったが吉日

たぶん魂の叫び

シティーハンターを見た

2024年09月28日 | もののあはれ
 ××××のやつが××××××で×れた。

 最初にちょっとだけ違和感はあったけど、
(今となってはそれが何だったのか忘れたけど)
 大変おもしろかった。

 素晴らしい出来だとおもう。
 部屋の雰囲気とかも、まさにそれで、
 とにかく、感激レベルである。

 今、ちょうどエンディングだが、やっぱり神谷明だったか。
 とにかく役者に違和感がなかった。

 他には、
 冴子さん役の人をみたとき、かわしまなおみを思い出した。

その四 理由を書く

2024年08月30日 | もののあはれ
 ラピュタが続いている間に、そもそもなんで3つ立て続けに書いたのかの理由を述べておこうと思った。
 数年したら、なんでこれ書いたか、わからなくなるだろうから。

 理由は2作品をおもにする。
 今夏アニメの、バリィと、状態異常のアニメ。

 結局のところ剣と魔法のファンタジーが好きなのだが、そういう純王道ファンタジーはなかなかないし、あっても、おそらく、・・・
 だから異世界ものしか、自分には救いがないわけで、救いを求めて、おもしろく思えるものはないかと、期待し続けるのである。
 小説や漫画は見なくなったので、ただひたすら、アニメを。

 さて。
 ばりぃのほうから行こうか。
 バリィとは、敵の攻撃をはじく行為である。

 ゲームのプレイ行動を基本とした、こうだとおもしろいでしょ作品になるのであろう。
 この辺は、お母さんがすごい強い仲間であるとか、防御力が強いとか、あげくは嫁とか、そういった類なので、この点についてリアリティは云々しない。
 が、竜を倒してなお、自覚がないのはリアリティがない。
 これを成立し得る精神構造に、嫌悪感を覚える。
 おもしろいのはおもしろいのだが・・・

 状態異常のほうは、やや難しいか。
 先に、なんだっけ、俺だけなんだっけ。その前には、俺だけなんだっけ。・・・同じこと言ってる?
 ギャグ路線ではなく、死人が出るシリアス系で。
 もう、ギャグ路線は、本格ギャクかつ、しっかりとした話しのものでしか見られない。
 中途半端で、正義の味方になったりとか、云々は、ばからしくて見ていられない。

 状態異常は、ぎりぎり均衡をとっている。あと一歩でやっぱ見なくなるといった線をぎりぎり超えないのが、しかし、うーん。超えてきたかなと思ってきた。おそらく、1.25倍で見ていたという理由ではなく、話がスピーディすぎて、なにこれ総集編? みたいな早さで。
 ていねいな造りでないから、やや・・・。

 少し前に、回復魔法のやつが仕返し云々の構造で。これは、包み隠さず表現すれば、ただの鬼畜エロゲ―だった。他に最弱スキルが云々みたいなやつは、あれも、8割エロ方向だったか。

 話はそれるが、エロにしたいならエロすればいい。
 エロは二次作品で十分だ。
 本テキストにエロは無用だ。ちょっとぐらいあってもいいが、テキストはテキストだ。他は二次作品でいい。
 テキストをみて、いろいろ妄想する。その妄想を楽しむのが二次作品であって、妄想の結果の二次作品を見ても、そこからどうすればいいのだろうか。なんの創造性もない。
 と思っている。

 シータがあれやこれやされて楽しむのは、本編にいらない。しかしもちろん、それを楽しむものがあってほしい。それが二次作品だ。
 いまの見るアニメは、ほぼほぼ二次作品ばかりである。これも断定したくなる。
 創造の余地がない。妄想の余地がない。
 しかし、これらからも想像、妄想ができるのだろうから、ここからそういった結果の作品がさらに作られていくことになるのだろう。
 と思うと、さらに面白みが減退する。
 個人的な意見である。

 さて。状態異常のは、女神に復讐してやるという構成自体は、別に問題ない。が、なんというか、他が中途半端か。悪い奴なら殺してもいいという、そういう観念が二次作品全般にある気がする。この共同観念はなんであるのか。そういう観念が現代的な思いなのか? 人を殺すということがどういうことなのか、結局軽く考えられている気がする。軽いならだれもかれも殺せばいいのに、それでいてイイ人とか言わせるとか、なにそれ? 人を殺すという点に一貫性というか、一貫性がないとしたら、ただたんなる結果のような(陰の実力者はどちらかというと、ただの結果・行為的であり、その意味で人の命を軽く考えている観があって気に入らない)

 人間として、人の死は重大であるという観念。
 それがいいかどうか、の問題であろう。
 史記を見ていると、軽いなぁと思う。
 
 登場人物が死んだりするからシリアスである。
 シリアスなものが、自分の好みである。
 しかし人の死を軽く描いているからおもしろくない。(この面白くないは、話ではなく、気持ち的におもしろくないという意味である)

 個人的な感想である。
 そういう感想の結果、1~3+解説の4つを書いたことになる。
 ラピュタはまだ終わらない。

さらにその三 なんでこれ残るの?

2024年08月30日 | もののあはれ
 ついでだからさらに書こう。

 ラピュタおもろいな。

 さて。
 なんで源氏物語は有名なのか。
 ここにおける有名というのは適当な修飾だが。

 残そうとおもった作品を、いろいろ解釈垂れて残していった。
 そしてたまたま残ったのが源氏物語。

 というのが、昔思いッていた自分の思いである。

 源氏物語はおもしろいのか?
 ただのタラシの話であり、それを良しとする、「現代的には男尊女卑の話である」
 男尊女卑を云々するなら、源氏物語を、現代では抹消すべきではないのか?

 しかしだとしても、すごい。
 あの? もとおりのりながさんでさえ、源氏物語でいろいろ云々したわけだ。
 古語を理解しようとしたとしても、だとしても、つまらない作品ならば、あえて解釈もしようとしなかったのではないか
 つまらないものは、たとえ貴重であっても、時間をかけるには、無駄なことである。
 というのは個人的な換装であって、そうでない共同観念なのかもしれないが。

 源氏物語は、おもしろいのか?
 こういう思いについては、別の言い方がなりたつ。
 夏目漱石の、そうだな、」jきお」

「kじょいこ
「jきお
「kじょ
「じs
s@「

 「じじり

 なんで打てない。
「こころ」はおもしろいのあk。

 前にも書いたか、思っただけか、芥川龍之介の作品群は、まぎれもなくおもしろい。
 そのおもしろさに、こころは通じるのか。、
 通じない。

 ここが、判断、根本的な岐路であろう。
 それらをおもしろく思わないのだとしたら、そもそも、それらを正確に判断する能力に欠けるのだから、そもそも話題に乗せるべきではない。

 私は、夏目漱石、ひいては紫式部を語る存在者ではない。

 ああ、
 何が言いたかったのか。
 源氏物語は歴史に歴史を重ねて、代々、いろんな人がいろんなことを思いつつ、残しつつ、現代に残る。
 だから素晴らしい作品である。
 なぜ、平家物語が残っているのか。
 なぜ、太平記が残っているのか。
 それ以外で軍記ものを知っているか? レイテ戦記?

 戦記で戦姫と一番最初の候補にあがるとか、なんだそれ? どんだけ現代的な変換なんだよと思った(自分はすくなくとも、せんきで戦姫と変換したことは一度もなかった。なんだか、こういうところが、さっきからの記事で言いたいことでもあるので、しかしなんだかなぁと悲しくなるところでもある。

 語り継ぐことで、さらに語り継がれていき、さらにそれが、幻想としてでもアイデンティティーとなっていく。その中であやまりがあるならば、是正されていき、どんどん概念化が進み、どうにもこうにも凝り固まってしまったら、運よく生き残るか、滅ぼされてしまうか。

 史記を最近改めてよんだが、ほんと、100年後、この世界はどうなっているのだろうか。
 まったくわからない。
 できうるならば、あと100年は生きて、結果を見たいものだ。
 どこかに統合されてしまっているか、逆に奮起してどこかを統合しているのか。

 どうにも後者のイメージがもてないのは、戦後教育を受けているからだろうか。
 すべては幻想でしかないと思う。
 天空の城よろしく。

その2 どうでもいい話

2024年08月30日 | もののあはれ
 なんかバグってるか?
 わからない。

 さて。続きではないが。

 解説されて初めておもしろいと思うことはある。
 さて、それはいいことなのか、わるいことなのか。
 いいこと、わるいことで判断するのがおかしい話なのかもしれないが。

 むかしフランスにいった。そこそこ行けるところにいった。
 ただそれだけだ。
 気持ちとしては、西欧のファンタジー小説書きたいし、本場の西欧が分かればうんぬんかんぬん。

 わからなかった。

 しばらく前から日本のお城めぐりも、トレンドなのか。
 あるいは神社巡りも。

 旅行にいって、どこそこを見る。
 特段感慨もなく。

 基本、人間は、何かを見ても、そうそう感動しない。
 山の上に登って感動するのは、山を登った経験の結果である。
 ある日昼頃目を覚まして、チャーターしたヘリコプターでエベレストのてっぺんにいって、360度パロラマを見たとして。
 どの程度感動できるのだろうか。
 ここに感動があるとしたら、それは、エベレスとのてっぺんだからという事実を知っているからであろう。

 どこそこの遺跡はこれこれこういう理由ですごいんだ。
 それを知らずに古い崩れた石の残骸があるところにいったとしても、「は?」であろう。

 前提知識がなければ、わらからないし、すごいとも思わない。

 おかだなんちゃらが、ガンダムはすごいとかいっていろいろ検証動画を挙げている。
 ほお、なるほど、そういうことだったのか!
 と感銘を受ける。

 でも、知らなければ、理解できなければ、初代がん無駄、ガンダム、おもしろくないよね。
 である。
 これは誰が悪いのか。

 理解できない視聴者が悪いのか。

 というのは昔から思った。
 わからない相手にたいしても、順序だてた論理によって、最終的に、いろいろわかるようにして、最終的に、おもしろいと思わせるという。
「思わせる」という表現自体がよろしくないことなのかもしれなiga.

 あ

 結局、その作品を見て、「わからなかった」のであれば、それは製作者側の、表現のへたくそ具合を表明していることではないのだろうか。
 考えれば考えるほど、深く思うことがある。
 しかし、そもそも、深く考える必要あるの? とか思われるのであれば、しょせん、その程度だと思う。
 まあ、こういったことは今おもったわけではなく、昔から思っていたことで、だから実際、前にも書いたことのあることかもしれないが、前述(前の記事)ラピュタをさあ、見ようと思って、思うところを書いた。
 勘違いしないでもらいたい。
 ラピュタがおもしろいといいたいわけではない。

 おかだなんちゃらが、ばくまんを見て、それを神聖視して、だから、ばくまんで知った知識で漫画家になろうとした人が、ばくまんのリアルを否定されて、いや、そればくまんにないから、みたいな反論するような。

 ラピュタは、たぶん、自分の人生で、一番感銘を受けた作品である。
 おもしろかろうが、おもしろくなかろうが、これが、実際根源である。
 FE聖戦や、銀英伝やマダラが根幹と思いつつも、しかしやはり、ラピュタが一番の根源だと思う。

 だから記した。

ありえるか、ありえないか

2024年08月30日 | もののあはれ
 前略。
 わざわざだが。代替降格と
 だいたいこう書くと、酔っている酔いすぎている証拠だ。

 さて。
 いろいろ他でも書いていると思うが、昨今、というよりも、昔からおもうところがある。
 「おもしろければすべてよし」というのは、よくないよね、と。

 物語が好きだ。
 話を見て、聞いて、面白いと思う。
 この、面白い!と思う気持ちは、生きているうえで大切だと思う。

 では何が、面白いとおもわなくさせるのか。
 
 リアリティーは個人個人の問題であるという、曖昧な定義である。
 おかだうんぬんの切り抜き見ていて、実際真実かどうかは知らないが、ばくまんを見て、それが漫画家になる方法論だと理解して、本来漫画家の先輩や、いろんな人(適当)に聞いて漫画家のノウハウを知るものなのに、「バクマンがこうだったから」と云々。
 ほんとに、そんな話あんの? とか思ってしまうが、どこかの政治家が掲示板云々とか、まあ、あれは現行の法律がこうだから云々に対するアンチテーゼだとは思うが、政治家も、先輩諸君にどうなのかを聞いて、政治家の在り方を学んでいくもの「だろう」から、そういった先輩をもたずに、独学で勝手に学んで思い込みでうんぬんかんぬんするのは、さて、どうなのだろうとか思ったり。

 まあ、上述の問題と、おもしろければすべてよしは少しばかり話がかわるのだろうが。

 先達を師として伝統を続けていくのか、まったくの独自路線で新たなことを始めるのか。
 
 どちらが良い、悪い、とは、実際言えない。
 結果的に良ければ、それでよかったと言えるわけだ。
 しかし、結果論としてそれらを受け入れる立場としては、悪い結果になった場合、しかしをそれを、100年後の常識的判断では悪いと誰でもわかるのだろうが、当事者としては、それが良いか悪いかわからない。そこになんらかの「結果・事象」が伴わいのだから。

 とはいえおそらく、致命的な失敗の結果を生じる判断でも、それが致命的であることは当事者も理解し、それを修正する作用に働く、のではないか? 少なくともそうでなければ、致命的決断が即効でそれらをダメにする。そうでなかったのが今までの歴史であるならば、云々。

 杞憂はしょせん杞憂。
 悪いことが起こってもそれなりにどうにかしていく。

 だから、「今が良ければいいじゃん」という「おもしろければいいじゃん」という風潮があるのだとしても、必ず、そうではない「良い方向」に歴史は進んでいく。
 のではないか?

 もう少し。
「日本海新聞」で、誰かの記事で、ウクライナは侵攻を失敗した。だからウクライナはこの戦争は負けると書いてあった。
 なるほど、死力を尽くした作戦が、大した効果を得ることなく終わった。それはウクライナという小国の、軍事的な能力の限界点であって、これ以上、ウクライナの潜在能力はロシアに対抗しえない。
 だから云々。

 これを読んだとき、「ほお、そうだな」と納得した。
 その日、竹なんとか切り抜きチャンネルで、「ロシアは自国に侵略されることになっても、核を打つことはなかった。これはつまり、ロシアが核を打つことで、その他世界にいかなる影響を及ぼし、結果、自国がうんぬんかんぬん。しょせん、『核を打つ』といのは脅しであって、それ以上でもそれ以下でもなく云々」

 なるほど、ウクライナの侵攻は、「核を打つ」といったロシアに対して、それでも「核を打たせることがなかった」事実を突きつける結果であり云々。
 
 なるほど

 今は、今のことしかわからない。明日のことはわからない。
 何が正しく、正しくないのか。

 しかしそれでも、核を打つのはよくないとわかるように、おもしろければいいじゃんという作品は、しょせんおもしろくないよね、という。

 程度の低い作品ばかり。

 ああ、しまった。ラピュタ録画しようと思っていたのに。
 酔いすぎていた・・・

 心から感動するような作品を見たい。
 今のアニメには、それがないと断言できる。
 今の日本人は、感動よりも、お金に対して精いっぱいなのだと思う。(確定的な証拠はないが)
 
 


さにーぼーいず

2024年08月24日 | もののあはれ
 前にも書いた気がする。
 ヒロインかわいい。
 江口とか、古すぎる。

 ああ、どうでもいい話を思った。
 艦これで、なんかレジェンドとか皮肉いわれている人が絵をかいて炎上した。
 冷静な結論としては、運営が悪い。
 避難されるのは運営である。
 それなのにレジェンド個人に悪意が向かったのは、お門違いだと思う。

 そういう世の中になってきたのかぁと、もちろん昔からそういう気質はあったのだろうがうんぬんかんぬんは今回関係ないので。

 で、
 1話でストップひばり君がでて、それを見て、前に何か書いたなという記憶があるから、前にも書いたと思ったわけだが、今回改めて書く。もしかしたら同じことを書くのかもしれないが。

 1話、だけかな、見て思った。
 ああ、こういう話好きだなぁと。
 かつ、こういう話を好きだということを、忘れかけていたなぁ。
 いや、忘れかけてたわけではない。
 どうでもいいことだと思うようになったなぁと。

 なんで、これのヒロインが、ああ、いままだ3話ぐらいで、これからの話覚えてないからあれだけど、たしか、このヒロイン消えたと思うが、まあ、このヒロインなんでこんなにかわいいんだろうね。
 少なくとも、かわいいと思う自分の気持ちの構造は何なのか。

 ちなみに、スマホもあるし、結構昔の作品じゃないんだよね。ゲーム実況とか言ってるし。
 2021年。
 思った以上に最近だったんだなぁと思った2024年現在。3年前はかなり、かなり、少し前だ。
 2017、8年ぐらいかと思った。 

 ただ、変な話だから好きなわけではないというのは思った。
 ジュブナイルだなぁと思ったから、好きだと思ったわけだ。
 ものすごく、青春だと思う。モラトリアムだと思う。
 その感じが、それこそ、1話だけで感じられたから、
 ああ、好きだなぁと思った。
 のだと思う。

 このまま最後まで一気見しようかなぁと思う。
 さらに思うところがあれば、追記すると思うが、今の状況ではどうするかわからないから、その点については、今この自分にとって、わからない未来が面白いと思う。

 ああ、忘れていた。
 なんでタイトルはボーイズだけなの? 女もいるじゃん。
 なんでだろうね

ふと気づけば変わっていたこと

2024年08月23日 | もののあはれ
 このブログ、最初は2009年。
 RPGツクールのプログラミングの話題をしていた。
 今となっては(この今は、ブログ再開した時点で)、初心者レベルの恥ずかしい内容だしと(放置していた数年で、そこそこ、どこからかいろいろ読まれていたようだが、そのことが恥ずかしかったので)全部非表示にしたが、その後、左上に書いてあるプロフィールは2代目だが、文章の練習もかねて、2012年に再開した。

 さて、とある竹田さんのYotubeを見たが(5日前のもの)、2011年の大震災以降、「日本素晴らしい国だよねと言っても非難されなくなったね」みたいなことを言っていて、得心した。

 このブログ内で、日本の古代についていくつか発言しているが、具体的にいつが最初か調べるのめんどくさいのでやらないが、ブログの再開が2012年以降だから、上記2011年以降に合致する。

 海外の治安とかを思うと、日本安全で住みやすいよね、みたいな話は、たぶん昔からあった。
 2002年にフランスに一か月ほどホームステイしたことあるが、とにかくスリとか合わないために財布を云々とか考えたことがある。そんな状況に一度も出会うことはなかったが、旅行の本を読んで、いろいろと危なげなことは云々。

 日本に住んでいてよかった、というのは、同上、むかしから思うことであったが、歴史的な意味で、伝統的な意味で、日本が素晴らしいのだというのは・・・。
 ただ、もちろん、そういうことも思うところもあったと思う。というか、なんで日本のこういうことが他国に劣っていると考えられるのだろうか、とか。

 和式トイレと様式トイレ。
 あの、あれ、なんだっけ、水が出てくるやつ。温水か。ウォシュレットそうそう。
 和式よりは様式のほうが、楽でいい。
 が、優劣があるのだろうか。いや、あるかもしれない。楽だ。

 ともかく。
 70年代ぐらい? 80年代もそうだろうが、前にも書いたか?
 アメリカっぽい家・家具で、ヨーロッパ的な食事風景とか。
 「テレビ」を見てそういう生活にあこがれるみたいな。

 大学に入るにつけ、(もともと自分の部屋は畳でなく、畳のない床状態だが)フローリングの部屋がイイ! みたいな。

 なんかどんどん話がずれてきている気もするが。
 ネットが日常化した結果、いろいろ情報が流れるようになったから、日本すごいよ!、みたいな、悪く言えば右側発言も見られるようになったから、と思っていたが、そうではなく、いや、それも関係しているかもしれないが、冒頭、2011年が日本の転換期、パラダイムシフトだったのか。みたいな?

 歴史というものが好きで、それによって文化がなんであるかをなんとなく知り、自分が日本人であり、日本の文化の中にいることを、良しと思うようになって、これを残していきたいなぁと思うようになって。
 多様性を受容するなら、当然、上記自分の考えも否定できないよね。と思うが、どうにも、多様性を許容して日本の文化が否定されるような、そんな感じも受ける。
 この感じは、おそらく日本を貶めようという意図のものだと思うから、そういったことを抜きにして思えば、別段、日本の文化は残せばいいじゃん、という話だよね?

 なんというか、こういうおおらかなのが、日本人だと思う。


 

5億年ボタンの理解

2024年08月20日 | もののあはれ
 ぐだぐだぐだぐだ。
 毎日毎日。

 さて。
 悟空が5億年ボタン押したら、というYoutube動画を見て笑っていた。
 それ以前にも5億年ボタンの話は知っていたが、さらに別の動画を見ていてはっと気づいて理解した。

 結論。
 押してはならない。

 少し話は逸れるが、物質を再構成させる系でのワープの場合、
 つまり、自分を構成している物質等を、ここで分解し、ワープ先で再構成するみたいな、そういうSFの場合、さて、元の自分とあとの自分は同じなのか、である。
 よくある喩としては、
 テセウスの船。
 部品全部入れ替えても、なお、目の前のそれはテセウスの船の船なのか。

 そもそも、5億年の年月に、人の精神は耐えられないと思う。
 若い人にはわからないだろうが、年齢を重ねれば、生き続けることの苦しさというのはわかってくる。
 のかな?

 まあ、そもそも5億年ボタンというあり得ない話で、死にもしない云々といった「設定」がどの程度のものなのかわからないが、常識的に、たった一人で、腹が減らない、眠くならない、死なないだけの場合、まあ、精神は持たない「だろう」
 どんな状況でも正常であり続けられるのであれば、5億年は余裕だ。
 だから、その辺の「設定」次第で無理か無理でないかは変わるだろう。

 が、今回はそういったこととは別の話だ。

 テセウスの船である。
 それこそ、今の自分と、明日の自分は、細胞等、物理的に異なるものだから、違う存在である。
 のではないか?
 なのになぜ、昨日の自分と今の自分が同じ自分と思うのであろうか。

 5億年ボタンを押して云々かんぬんと説明されて、5億年過ごすのは、ボタンを押した自分である。
 で、「設定」では、5億年過ごした記憶が消えるという。
 ポイントは記憶が消えるということである。

 今、たまたま安楽椅子探偵の、記憶をなくすやつを見ていたから思ったわけでもあるが、
 また、別に、タイムスリップ系の邦画、サマーなんたらを見ていたことも重なるが、

 Aという時間軸上の点にいた自分が、Bという点で記憶を消す。
 その結果、Aという時間軸上の点にいた自分が、AB線状ではないAC線状に云々。

 うまく説明できないなぁ。

 5億年生きて記憶を消した自分と、ボタンを押してお金が出てきたラッキーと思う(5億年の記憶を持たない自分)が、同一人物であるのか否か。
 知らない誰かのために、5億年の苦痛を受けてなお、お金ももらえない話になるのではないか、これは。

 おそらく、この5億年ボタンの話は、どこかで論理的な矛盾が起きているはずだから、「論理的に矛盾だから5億年ボタンのような空想科学は存在しえない」となるのだろうが、5億年ボタンの本質が、5億年過ごした自分と、その結果5億年の記憶をなくした自分が同一人物であるのかどうか、という話なのだなぁと、やっと理解した。

 そういう話をしたいのなら、
 いいじゃん、テセウスの船の話してりゃあ。
 ややこしい。
 


90年代の音楽で少し

2024年08月06日 | もののあはれ
 前略
 激しく前略。
 なんでこんなことをしようとしているのか、という言う意味で前書き省略。

 SPEEDのベストみたいなのもっていなかったっけ?と思ったが、どうも持ってないっぽいな。ぼでぃあんどそうるが入っているのは、おそらくMDかと思っている。ま、確からしさはないので適当だが。

 今聞いているのは2ンdだと思うが、記憶にある限り、さらに次のアルバムあったのか? である。
 調べた。
 3枚目までが基本で、4枚目は再結成時で、5枚目は・・・
 なので3枚目を知らなくても別にいいか、と思った。3枚目もミリオンだが、知っているSPEEDの曲は、2枚目までで十分。

 当時、この2枚目アルバムを買ったとき、メインの曲以外は、さほど興味を持てなかった。今こうやって聞いていても、同じことを思う。曲がよくない。(WhiteLoveとMygladuationぐらい)

 とはともかく、寛子の高い声での音がすごいのは、当時もすごいと思っていたが、今も、こうやって聞いていてすごいと思う。(ウエイクミーアップとか特にすごい)。最近の曲をほとんど聞いていないから比較はできないが、この点で並び立つものは他にいないのではないか? と思っている。少なくとも、この点で彼女以上のすごさを感じたことはない。
 ただ、そんな声使っていたら、確実にのど壊すんじゃね? と思う。

 で、まあ、ここを突発的に書き始めたのはSPEEDが直接原因だが、前々から思うところがあったのがZIGGYだ
 車にCDのっているので、少し曖昧な話になるかもしれないが、ベストアルバムをかなり昔に買って、2枚組で、だいたい1枚目に主な曲が入っていて、2枚目は2,3曲ぐらいしか聞きたい好きな曲は入っていない。
 で、その2枚目なのだが、最近(といっても半年ぐらい前からか)、月一の病院ドライブでベビーメタルに変えて聞いているのだが、どうにもこうにも、「聞き覚え」がある曲が多い。
 ここでの「聞き覚え」とは、言い換えるなら「パクリじゃね?」である。
 メロディー口ずさんでいたら、別の有名な曲にいつの間にか変わっている、みたいな。
 まあ、詳しいところを知らないから、もしかしたら、今でいうリスペクトなのかもしれないが。

 2枚目を聞いていると、ZIGGyってどんなバンドだったのかなぁというのが、わからなくなる。
 例えばグロリアみたいな、普通のロックバンドを、そもそも思っていたのだが、そうではないジャンルの曲。
 すこぶるバンドとしての一貫性がない。
 それがあるとしたら、ボーカルの「声質」なのだろう。

 以前どこかで見たが、名前覚えていないが、ボーカルは、良質の歌声のために、ライブでも酒を飲んで、なんとかしようとしていたらしい。その結果アル中になって云々らしいが。

 ボーカルの声質は、確かに、これぞZIGGYだと言える確固たるアイデンティティだと思う。
 が、だからこそ、バンドとしての一貫性が見えない曲が多いと。

 GLAYは安定していた。
 当初は、バンド演奏するとしたら、あまりロックンロール的ではなくて・・・ハードロック的ではなくて、いまいちだと思っていたが、こうやって聞くと、たしかにバンド演奏としては対象にできないが、聞いていて安定したロックとして聞ける。

 とまあ、最近グレイもよく聞いているので。

 それこそ昔は、1時間ぐらいCD聞いているという生活。他に何かをするのではなく、本当にただただ音楽を聴いているだけ、ということもあったが、今は、そんなことができない。途中で、こんな時間無駄にしていていいのだろうかと焦ってきてしまう。 

翠星のガルガンティアを見た

2024年05月29日 | もののあはれ
 大変おもしろかった。


 と、これ以上は特段付け足すことはない。
 なんだろう。
 いろんなものがまざりあった見事なスープに満足した、みたいな?

 雰囲気的に90年前後。
 ナディアやオネアミスの翼、ナウシカやラピュタ感がすごくあった。(マクロスの鳥の人の話や、うしおととら、も思った)
 2013年ということだが、一番最初に思ったのは、86年の11年前の75年と、24年と13年の11年の差はすごく異なると感じられた。タイトル作が昨年つくられたといわれても、素人目にはわからない。
 それ以上のことは、いろいろ調べてからになるのだろうが、あまり調べたくない。誰がどのような意図でつくったのか、別段知らなくてもいい気がしている。

 ただ、いろんなものが混ざり合ったスープというのは的確な気がした。
 なにかとびぬけた特異性が感じられない。
 おもしろいのは大変おもしろい。
 だけど、よくいってオマージュ。
 どこかで見たからこそ、おもしろく感じられるという安心感が漂う。(最初の戦闘部が、どうにもかったるいが、省略することもできないだろうし、まあしょうがない)

 最後に、女の子の絵は、だからナウシカやラピュタを思うのかもしれないが、ジブリ的だ。
 あまり調べないの話になるのだが、アニメ絵としてはほんわかで、なんだかもやもやする。
 もやもやするというのは、緊迫感のある世界観なのに、ほんわか絵だ、という意味である。