相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

おばあちゃん (連載―414)

2022年07月29日 | 経験・体験
昔、むかしの話。
おばあちゃんの傍で、薄ぺらい綿の座布団の上に正座して、木魚(もくぎょう)を叩いていた。
はじめは足がしびれて痛かったが何回かするうちに慣れた。

毎朝の日課は家の仏様と神様にお茶、お水と塩を上げて手を合わせた。続いて近くのお堂に米を上げ、山の上のお薬師様にお参りした。  
おばあちゃんから、くれぐれも、人様の土を踏まないように言われていた。

夏はラジオ体操で夏の終わりにはハンコの数が多い人は、鉛筆とノートをいただいた。

 いつも村のお堂で大きいお兄ちゃんたちとふたチームに分かれて野球の試合をしていた。ちょうどピッチャーマウンドの近くに樫の木の大木が聳え立っていた。打った打球はその大木の枝の葉っぱに絡みつき落ちてくることが大半だ。それをキャッチすればアウトだ。

 ボールは柔らかいものだった。
木をすり抜けて、立派な屋敷にボールが飛び込む。すいませんボールが、もう慣れっこだ。

何十年ぶりだろうか訪れた時、こんな狭いところで野球なんかできない。だけど昔は出来たのだろう。

村のお堂は高床になっていて鬼ごっこでよく隠れた。
その高床の上にはお米が保存したという。  
村が災害に見舞われたとき食べるものがなくなった時、村人にお米を配給するために保存されたという。
 月に一度、組内の御詠歌(ごえいか)の集まりがあり、おじいさん、おばあさんに交じって御詠歌を見ながらちりりんと金を鳴らした。おじいさん、おばあさんの温かい目がとても心地よかった。
 
 中学になると、おふくろも、親父も共稼ぎで、村の寄り合いにも代わりに出席するようになり、家の代表の役目を果たしたのだろうか。

 山の下刈に参加するときは、おふくろが弁当を親父が長い下刈鎌(カマ)と軍手、地下足袋(じかたび)を準備してくれた。大人の仲間入りだ。

 何回目か手の平を3センチほど切って骨が見えていた。
 冗談でしょう麻酔をかけないで釣り針のような針でぬっていた。これも大人の痛さを感じた。
 
 お葬式が好きで、和尚さんの座る椅子が漆に塗られて微妙な形で、お坊さんのシンバルの音が小刻み震えてお経にあっていた。

 その頃は、まだ土葬だった。
墓穴も見た。おばあちゃんは桜の木の近くの墓穴だったので土が新しかった。

 とても好きだった可愛い女の子が死んじまった。
 御棺に飾られていた造花を埋葬された場所の上に飾られ木々の隙間から見える造花がピカッと光る様は今も思い出す。

 冬になると、母の仕事も暇になるのか、母と冬山に登って芝刈りに行った。冬山は寒くて震えるだろう。それを見越して、厚手のものを着込んで行った。

 枯れ枝を揃えて紐でしばり山の上から転がす。単純な仕事なんだが汗が噴き出る。
 冬山は暖かい、シバは途中に引っ掛かり、まるで山の遊園地のようにシバと戯れた。

 母の姿が見えなくなったころ、リヤカーに天高く積み込み縄で縛った。
 私がリヤカー引き、母がリヤカーを押す姿は母と子の物語になりそうだ。

 おばあちゃんが、家に帰りたいと言う。ここは家だよと言っても、違うと言う。

 実は、一か月前、転んで足の骨を折って入院して今日病院から連れて帰った。仏前のいつもの場所に布団を敷いて寝かした。

突然、病院から家に帰ると言う。
いくら家族が説明しても帰るの一点張り。

 信じられなくて、ひたすら家であることの説明に終始した。

 私も、まだまだ若かった。
「おばあちゃん、今日はもう遅いから明日帰ろうね」と言えなかったのだろう。

 我が家はお米も作って、親父がサラリーマンの兼業農家だった。

家族8人。育ち盛りの5人の子供
をよく育ててくれた。
よくおばあちゃんと喧嘩した。白いご飯を食べさせろってさ。

 考えてみれば8人家族が3食白いご飯を食べていたら・・・。

 おじいちやんは、母が5歳の時に亡くしたと聞く。女で一人でよく支えて来た。おばあちゃんを気丈にし、支えて来たのは信仰であったのかもしれない。

 私にはおばあちゃんの生き様を見せて頂いた。

 おばあちゃんとの別れが来たようだ。
 おばあちゃんの手を握り、脈をとっていた。
 トントントンと規則正しい弱い感覚でいたが、そのうちトン・トン暫くしてトンそして、トン暫くしてトンと回数が減ってくる最後にトン。

 おばあちゃんの脈が止まったと母に言ったとたんトンと最後に打った。
 一瞬、別世界に引き込まれる感覚だった。

 今も、おばあちゃんの形見の「お経」を覚えている。
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こんにちは! (連載ー413)

2022年07月27日 | 経験・体験
 私は山育ち、娘に言わせれば,とんでもない山奥らしい。お父さんは、おとぎの国の田舎もの、

岩の上からドブーンと飛び込んで川遊び。
夏は学校からもらう肝油(栄養補助食品)をもらう頃には、川開きで家にカバンを放り投げて川に走った。
 山に囲まれた、まるで原始人のようだ。

 低い山には登ったが、海抜1000mの以上の山には登ったことがない。ちょうど高野山が約1000mらしい。
春先で車で行ったことがあるが若い坊さんが鼻を真っ赤にして🤧をしていた。

 義理の兄と姉が登山家で日本のいろいな山に登ったらしい。
 尾瀬に行く誘いしてくれた。

義理の母(昔に亡くした私の実母代わりの母)が夜の暗い内から、おにぎりを握っていた。それは、それはでっかい。
 兄と姉について行くのが精いっぱいで何とか妻と尾瀬に着いた。 

こんにちは!
 山に登って、向こうから歩いてくる人みんなが「こんにちは」とあいさつをしてくれる。

 こんにちは、と言われれば、私だって「こんにちは」、と返す。
 それはそれはとっておきのスマイルでね。

慣れないから、恥ずかしくて、出来れば人に合わない方がいいのに、こんな時に限って対向者とよくすれ違う。
 町で合う人とは同じ人に見えるのにみんなあいさつをする。

こんにちは、こんにちは、こんにちは、いたるところから聞こえる。うるさい!

こ・こ・こ・こ・・こけっこ。
幼いころ、同じ屋根の下で鶏を飼っていたことを思い出す。

 毎朝起きると、妻に「おはよう」と元気な声をかける。もちろん「おはよう」と返ってくる。
 これが我が家のスタートだ。朝飯も美味しくいただくし人生バラ色だ。

「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」夫婦喧嘩で、平手で殴られたり、物を投げられたり、巷では「モラハラ」と言われ、された覚えのある夫のみなさん。

された私の方がグジュぐじゅ引きずるタイプらしいのはわかっているが、翌朝まで引きずらないようにスイッチを切り替えている。

 誰かが、「明日、会えるといいね」
「今日、会えてよかったね」と交わして一日を大切に暮らしたと。
 
挨拶は強制されるものでもないし、相手の湯加減を知る口実にはモッテコイ。背中にそっと手を添えるのもいい。

 おはようは、その日一日のはじまり。こんにちは、出会いのはじまり。

♪「こんにちは、こんにちは西の国から、こんにちは、こんにちは東の国から、・・・」
 こんな歌も歌った。

山の上で、すれ違う人に先の危険があれば知らせることもあるようだ。木が倒れているとか、木が腐って足場が悪くなっている。
 
 山では素直にこんにちは、と言えるのに、町では素直になれないのか、考えたら夜も寝られないから私も素直じゃないようだ。
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風が吹けば桶屋が儲かる (連載―412)

2022年07月22日 | 経験・体験
紀州に住んでいた頃(60年前)は、台風がよく来た。
 瓦屋根で、紐を引っ張れば屋根が開き、光が射す、昔ながらの釜戸も懐かしい。もう古い家だった。

 台風が来るたびに納戸(ナンド・狭くて薄暗い物置き)の戸がはずれ懸命に支えていた記憶がある。

 伊勢湾台風(いせわんたいふう)
の、1959年9月26日。
どでかい台風が和歌山の最南端の潮岬(しおのみさき)に上陸して三重、愛知、東海地方に被害をもたらし、死者行方不明者、約5000名の甚大な被害を出し歴史に残る台風となった。

 子供心に、紀伊水道を抜けられたら更に和歌山の被害は凄かったろう。

台風の渦巻きが左周りで台風の右側が雨風が強い。これも毎年上陸する台風が教えてくれた。

 台風も最近は九州地方に上陸することが多くなった。
いつからだろうか、気象予報士も「想定外」という言葉を連発するようになり、
線状降水帯と耳慣れないものがレーザーに映し出された。
 
降水量も「今まで経験したことのない」現象だ。
 東北大震災の津波には「想定外」だ。
Youtubeで実際の映像を見たが。津波の発生が「想定外」で口を開けているうちに通り過ぎていた。

 誰かの言葉に「お墓に避難」する。と聞いた。

 何を言っているのだろうと思ったが、お墓は先祖を祭っているとこなのに理解できなかった。

そうか、お墓にまで、借金とりが飛んでこないだろう、ということか。

 過去に経験したことがなかった自然は恐ろしい。

予報士のプロが予報もつかない「想定外」が、起こるようだ。  

コロナの影響で、人と人とのまじわりも薄くなり、過去に経験したことのない現象が起きるかもしれないと個人的に心配している。

自然現象の「想定外」は、今後も起こる可能性があるだろう。
人の心の「想定外」が起こらないとも限らない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」と江戸時代の町人文学のことわざらしいが,こじつけで、まわりまわって桶屋が儲かる話だ。

風が吹いたら土ほこりがたち、ほこりが目に入り盲人が増える。 
盲人が増えれば三味線の需要が増え、猫が減る。
猫が減ればネズミが増える。ネズミが増えれば桶をかじる。
だから、風が吹けば桶屋が儲かる。ということわざのようだ。落語でも聴いた。

ネズミじゃなくて、人が増えれば希薄にもなりがちで、人の心にも「想定外」が起こるかもしれない。
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メダカの井戸端会議  (連載ー411)

2022年07月20日 | 経験・体験
音の速さは、一秒間に340.29mの速さのようだ。なぜか音の速さだけ覚えている。

 今から約60年前、アメリカと旧ソ連がキューバ危機で核戦争の寸前までになった。

 田舎の空に轟音が響いた。その時教わった。飛行機の速さが、音速を超えるときに発する音らしい。すっかり核のボタンを押されたものだと空を見上げて覚悟した。
 
飛行機がマッハ2で飛んでいるとしたら、一秒間に680mの速さで飛んでいる。

 光にも速さがあるらしい。宇宙で一番早いものを見つけたのが、あのノーベル科学者のアインシュタインと聞く。

 アインシュタインはドイツからアメリカに逃れて原爆を考案したことは聞いている。
 マンハッタン計画に参加したのだろう。

 光の速さが一秒間に地球7周半進む、光速で太陽から地球まで8分かかるらしい。
 てことは光速はアッと驚くタメゴロウと思ったが実に遅い。

 宇宙を考えると夜も寝られなかった子供のころ。何百億年も光速で走っても壁には着かない。

宇宙は光の速さで広がっている。と聞くが器があってどこに拡大しているのか考えると寝られない。
 
人間が死んだらずーと闇の世と果てしない宇宙の闇を思い出して寝られなかった。

 輪廻と言われるが、実際、死んでないしわからない。
 あの世から戻った来た人の話
を聞いたことがない。

ある人の話に耳を傾けた。こんな話だった。もしこの世とあの世あるとしたら、鈴を鳴らせる筈だ。

 木と木に糸を結びつけ、真ん中に鈴をつける。私が死んだら何時何分に鈴を鳴らすというものだ。
 
糸はかすかに振動したらしいが鈴を鳴らすまでは至らなかった。

 私が57歳の時、脳溢血で意識不明だった時、賽の河原でバーべキューをして、三途の川を愛犬と渡っていた。
川幅が随分あり、中洲で休んでいて、さあ!渡ろうと愛犬のリードを引っ張たが体重43キロもある愛犬はビクとも動かなかった。
 川底を見ると中州から急斜面となり小石に足が取られそうになり深みに持っていかれそうだ。
 
愛犬はビクとも動きそうもなく行くのを拒否した。そんなことで戻る決意をした。

 目を覚ましたところが病院のベットの上だった。意識を取り戻したようだ。管が邪魔なほど纏わしく、口にマウスピースようなもので呼吸をしていた。
ここは、奇麗な看護婦さんのいるナースステーションで見張られていた。

 酷いことだが、妻に私を殺す気かとも言ったようだ。妻は私の治療にあたり、何回もサインをしているのにひどい話だ。

 音速、光速の話をしていたのに、井戸端会議で話が盛り上がっている。

宇宙となると頭の整理がつかない、宇宙はなんなのとアインシュタインでないと語れないようだ。

 メダカを3年前から頂いた9匹
から飼っている。寿命が1年らしいが今は食べ物もよく3年生きるようだ。
中には1年で寿命をくるものもいる。今日も3匹亡くした。
 9匹から、今じゃ200匹あまりの大家族なっている。
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なんだか波乱バンジョー進行中!   (連載―410)

2022年07月17日 | 経験・体験
幼いころ(7歳)、勉強が大好きでみんなが放課後校庭でドッチボールで遊んでいるのに、私は教室で算数の問題を解いていた。

早く解いて校庭に出たいのに出れない事情がある。生まれた頃は天才と、もてはやされていたのに地獄に落ちそうだ。

思えば、簡単そうだが敵はきびしい。同じ天才仲間の回答を写したら、間違っていた。相手も地獄の入り口でさ迷っている。

時間切れでも閻魔様が目の前で監視していた。
もう勘弁してヨお。と泣きをいれたら閻魔様は優しく宿題をたっぷりくれた。
4,5年前に、その時の天才仲間とパッタリ、スーパーで出くわした。

私は、別名:介護老人だ。彼は、奥様とご同伴らしく立派な高齢者だ。

二人は山奥から出てきて、こんな大都会で会うとは奇跡だ。
よくわかったね?田舎のニンニクの臭いでもしてたのだろう。

1+1=  さすが天才バカもん。
お互い田舎には錦を飾れなかったが
私は、孫も含めて11人の家族だ。中途半端に器用で楽器もこなした。
水商売とやらに性格的にあっていた。

銀座で姉と40年お店をやってきた。姉はお店の経営に神経を使っていたが歌手でもあった。

私も40年前、「ビズリーチ」で銀座に来た。
レンガ一つ一つ積み上げることからお会計とローン返済と税務申告と人とのお付き合いと何でも屋だった。

わからんことは、今のようにPCで検索システムもなく、マニュアルでしった。なんでもこなしたが苦手などいってられない。

あるとき、著作権料で裁判所からの呼び出しがあり行ったが何年分さかのぼって著作権料を払わなければならない。
仕方ない音で営業しているのだから。
裁判所も怖い人ばかりと思っていたら、その場で、ご親切に法律を教えていただき目出度く双方の納得いく解決をした。

何事も、よろしくお願いする心で人と接すれば拾う神もある。と教えられた。
それからも、拾う神のお世話になることがあった。

40年後、姉と私は時期は違うが脳疾患で銀座から去った。姉は延命処置もなく死んじまった。好きな歌も唄えたし、いい人生だったろう。

私は、手作りの神棚に延命処置をしないように書面に書いて残してある。
苦手もあったが、おばあちゃんの言われるお天とう様を信じ、人に指さされることはしなかった。

出会い、出会いと出会いを大切に、よく言われたが人に助けられ生きてこられた。

幸運もあったが紙ひとえなこともあったなあ。
15歳の時、バイクの運転免許を取った。山育ちで危険な崖っぷちを木をリヤカーに積んでバイクで牽引していた。
夢でも見たのか、下を見ると道がなく谷底に落ちることもなく、浮いて走っていた。

57歳の時、体調が悪く、どこかの
スーパーの駐車場で15分ほど休んだ。
さあ!妻もちょうど同乗してくれていた。私がハンドルを握って2分ほど走ったところで倒れた。
どこかのおばさんが布団をかけていただいたところまで覚えている。
 
後は、生かすも殺すも妻次第、病院に運ばれ、たまたま手術できるお医者さまがいたから緊急手術をしていただいたようだ。

後日、病院の廊下で気さくに声を掛けていただいた先生が亡くなっていた。

病院も一か所に長く居られなく、言われる前に、退院して復帰だ。
初日から、店で倒れ救急車に載せられ華やかなデビュー。

59歳の時、運転はすべて妻に任した。私は隣で家に着くまで寝ていた。
事もあろうに、深夜高速道路で、
もらい事故で、地球が爆発したのか、いつおさまるのか他人事のように映像がよぎった。
 9
幸い、妻も私もシートベルトをしていたので車外に放り出されなく、警察官もよく生きていましたねと一声だった。
後ろのトレーラーが急ブレーキで止まってくれたので助かった。まさに
紙ひとえだったのだろう。

 生きていれば、苦しいことだってあるし、こんなこともある。もちろん楽しいこともあった。

 私の名前は波乱万次郎と呼ばれた。漁師のマンジロウは海で遭難し
てアメリカに行ったがハワイで帰る気であれば日本に帰って来れたがアメリカに行く選択をした。

彼が遭難したときに、遭難を選択したら、アメリカを知ることはなかった。
海は広いな大きいな行ってみたいなよその国。
今は、誰でも海の向こうの国に、ひと飛で行けるが、私は行けなかったから白い画用紙に舟を浮かべてよその国を想像した。

真っ白い画用紙の上に、ヨットを浮かべた絵が、今も鮮明によみがえる。

夢って、与えられるものでもなく、夢は自分が生み出すことを見つけた。

なんだか、上から目線で嫌な気がすると思いません。

「私の孤独」という歌があった。聴いて、東京に来て40年はこの歌に救われた気がする。 
私の中に、私と私の孤独がいるから、私はいつも一人じゃない。という
  
 母が自殺した時も、孤独にもさい悩まれたが、母は子育てにも生き方にも器用ではなかった。一人の女性として見たら、寂しかったのだろう。
 
 孤独な人と孤独と思っている人、今一度、自分のまわりの人を見てごらん。もしかしたら、器用じゃない人がいるかもしれない。
自分よりももっと孤独かも知れない。

私も老後に備えて夢をつくることを考えているが思うようにいかない。

慌てることはない、人には暗闇は必ずくる。波乱バンジョー進行中!
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