相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

へ~?so-! (連載―第553号)

2024年04月30日 | 経験・体験
人がお亡くなりになったらお葬式をあげられて、火葬される。
私の幼い時代のころは、土葬だった。必ず火葬しなければならない法律もないようだ。今も、土葬をなされるところも、あるようだ。
宗派によつて、違うかも知れないが失礼があったら教えてください。
火葬場で1時間程、待機していると、放送で知らせて頂ける。
親族みんなで、お骨を骨壺に納めるのだが、お二人が遂になって、お一人がお骨を箸で持ち、もうお一人に渡し、お二人で骨壺に納める。最後に骨壺には喉仏をお納めする。
この儀式は、お亡くなりになられた故人を無事、三途の川を渡れるように手助けするという。
 この儀式は、宗教、宗派によって違うのだろう。
最初は、宗派もわからず、言われるままに従った。人が亡くなれば賽の河原を通り三途も川を渡り、
冥土に行くと聞いた。
その川を渡るのに、三途の方法があると言う。橋を渡る者、浅瀬のゆるやかな流れの処を渡る者、急流で深い処を渡る者。これが三途の川と言われる。
閻魔様によって三途に振り分けられる。と、おばあちゃんから聞いた。亡くなられた故人に白装束を着せ、6文銭を持たせるのは、川の渡し舟の乗船料のようだ。
  時代と共に、川を渡る方法も変わった。私も三途の川を渡りかけて戻った。夢で見たようで、目を覚ましたのが病院のベットの上だった。なんだか、判らない。
 もとえ、火葬の箸は三途の川の橋のようだ。二人は共同して一人が、もうお一人に遺骨を箸で渡すのも川を渡す行為だ。
 人は、必ず死を迎える。私は人の遺骨を箸で拾いたくないし、拾って頂きたくない。親しければ、親しい人ほど。
兄、姉の遺骨も拾わなかった。
 
せめて、お墓参りでも出来れば、田舎に帰るのに挑戦だ。
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アッ?so-! (連載―第552号)

2024年04月30日 | 経験・体験
電車に腰かけていたら、若いカップルが乗って来た。お二人は手帳を見ていた。
お一人が、日付の上に書かれた「仏滅」という文字を見て、どういう意味と尋ねた?
しばらく、沈黙の後、これは、フランスが滅亡した日と答えた。
 周りの乗客は聞き耳を立ててお二人の会話を聞いていた。 私は、次の駅で降りなければならない。残念! 
 私も、仏と書いてあるから仏教に関係したことなんだと思っていたが仏をフランスと理解したのも新しい見方だし、正しい。
「結婚式は大安がよい、お葬式には友引は避けよう、仏滅には祝い事は避けよう」とその日の占いに使っている。
別に仏滅に結婚式をしてもかまわないが人は大安を選ぶ。仏教では、占いは嫌う。がお二人の最悪の日からの門出で門出としては、上昇の日として、最高の日かもしれない。
 とにかく、仏滅はインドから伝来した仏教用語でもない。古くは中国の占いに使われた用語らしい。



アッ?so-!
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熊野古道 (連載―第551号)

2024年04月28日 | 経験・体験
三重県の友人に教えられた。
和歌山が紀州藩だったころ、伊勢の一部が紀州藩だったと、そんな話、聞いてないが事実のようだ。
 今だから、紀伊路も舗装され伊勢路に延びて居る。お伊勢さんにお参りするにも、伊勢路をテクテク歩いてお参りした。
 紀伊路は海に囲まれ、山にへばりついて道が通っていた。大阪に行くのも、紀ノ川を渡り山脈を越して岸和田、堺、大坂へと上った。
 吉野に行くのも、紀の川を上り橋本を過ぎ、高野山を拝みながら、山道を歩いたのだろう。
私も車で高野山にお参りして、山道を走り、奈良の東大寺、春日大社にお参りして、奈良公園の鹿にあい、猿沢の池に行った。修学旅行のコースだ。
 紀の川の麓には、和歌山城が聳えている。和歌山城は豊臣秀吉が築城し、再三の火災にもあい、空襲にもあった。
 江戸時代、徳川家康の10男、徳川頼宣が家祖となり。暴れん坊将軍でテレビでもお馴染みの、紀州藩主が第8代将軍、徳川吉宗がなった。
紀州徳川家が徳川家を継いだ。この地を「若山」であったことから、「和歌山」と名づけられた。
  紀州和歌浦には、東の東照宮として、徳川家康も家康の10男の徳川頼宣もお祀りしている。紀州徳川家として徳川を継いだ。
隣接の紀三井寺もあり、真言宗のお寺で、境内から和歌浦湾を
一望でき、山内には涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は紀州藩主徳川頼宣の命によりもうけられた。ソメイヨシノの桜も近畿地方では一番に咲くことから「春を呼ぶ寺」として呼ばれている。
更に南下すると石油のタンクの海南もある。醤油の湯浅、海岸一面が白く石灰岩に蔽われた白崎海岸を過ぎれば日御碕灯台ある。晴れた日は四国がうっすら見える時もある。
 なぜだか、アメリカ村というバス停がある。昔、漁業権の争いで、その村ごと、魚が海で取ることができなくなり、村ごとカナダに移住した。先発隊は、調査でカナダで鮭が大量に取れることがわかり、しかも、カナダでは、鮭を取らないというから、村ごとカナダに移住した。一時、テレビでもやっていた、カナダで野球の試合をやっていた日本人を覚えていないだろうか。
アメリカ村を過ぎれば日本一長が―い松原海岸がある。
御坊の町を過ぎ、安珍清姫の物語の道成寺がある。和尚の辻説法は面白くて、安珍清姫の恋の物語を語っていた。アー怖!
歌舞伎や浄瑠璃でも娘道成寺で有名だ。
日高川を車で1時間半ほど上れば龍神温泉がある。山伏が通る山道を歩けば、大社に遭遇する。歩いたことはないが熊野古道があるようだ。奈良との県境の山を歩き、山の頂上から見る光景は、まさに、紀ノ國紀州だ。紀伊国屋文左衛門はみかんと塩鮭で大儲けした。
 ここは紀ノ國だ。ある人のお宅を訪ねたら山をくり抜いた門構えだった。風呂は五右衛門風呂で朝から入っていた。そんな時代もあった。
 熊野古道を山道だ。霊山、高野山も3回行った。宿坊に泊まった。
 紀伊路は海と山の国、大都市大阪に隣接しているのに、昔は陸の孤島だとか言われ、白浜温泉も新婚旅行の名所だった。
国道42号線だけの道だったが、高速自動車道も串本の方までつながり便利になった。最近はロケットで南国の話題になっている。
 霊山と言えば、和歌山全体が霊山だ。奈良と紀州の境の秘境には平家落人の村も見かけた。
  熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社と大社を結ぶ山道を熊野古道という。お伊勢さん参りも、伊勢路を通った。
余談だが、昔、三重県の一部が紀州藩であった時、お伊勢さんの漁村の人たちが紀州茶粥を考案したと聞いている。
紀州は山ばかりで平地が少なくお米は余り取れなく、江戸時代、紀州徳川家の重税で大変だったのだろう。
茶粥の量を増やすのに水を増やした。時には、芋を入れ番茶でお粥を炊いた。親しみを込め「おかいさん」と呼んだ。
 茶粥と金山寺味噌、奈良県の名物奈良漬け、しょっぱい沢庵と食べると最高な組み合わせだ。
  私は、道成寺近くで育った。「♪ここは串本、向かいは大島、中をとりもつ巡行船・・・」幼い頃は、クジラの肉もよく食べた。
 北は方面は知っているが、新宮、串本方面はあまり行ったことがなかったが熊野那智大社は落差133メートルの那智の滝は爽快だ。熊野古道の山道を北に熊野本宮大社、高野山まで来てよ。
途中疲れたら、龍神温泉で休めば。


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高野山 (連載―第549号)

2024年04月26日 | 経験・体験
私は54年前に、山奥から大都会東京に出て来た。史上最低の学力を引っ提げて出てきたが、日比谷公園内にあった。日比谷図書館に入館したが、静まりかえった図書室には厚い本を開いて若者が物音もたてずにいた。
翌日、漫画の厚い本に表紙をし、隣席の学生との間に置いて、賢く見せ勉学をした。
 あれから、まだシブトク生きている。高野山は弘法大師空海の霊山だ。霊山は青森県の恐山、滋賀県の比叡山、和歌山県の高野山と聞く。
私の和歌山の生まれ故郷から、龍神温泉を通り、平家の落人の村を眼下に見て、奈良県との境のスカイラインを過ぎれば高野山だ。
大好きな高野豆腐も売っていた。
空海は四国香川県のご出身で、なんで高野山なのかと尋ねたら、
余談だが、香川県から偏西風に乗って白い布が舞い上がり、その布が高野山の木に舞い降りた。というおとぎ話のような、本当のような話を私は信じていた。
弘法大師空海の高野山は真言宗でお寺だ。日本仏教は、インドからネパールの高い極寒の山脈を超え、極地の砂漠を歩いて、当時のシルクロードを玄奘三蔵によって、中国に渡り、中国全土に広がり朝鮮半島から日本に伝来した。
飛鳥時代の初期、聖徳太子が冠位十二階、十七条憲法をつくり国づくりに人力した。
 中国の隋にして見れば、日本はまだ、赤子のような国なのに、聖徳太子は、2回目、3回目の遣隋使に国書に持たせた。「日出づる処の天子日没する処の天子」これは2回目。「東の天皇西の皇帝」これは3回目。 当時、中国の煬帝は韓国の百済と戦っていたので事無をすんだ。日本は対等に貿易をしたかったのだろう。
 聖武天皇は国家の安泰を願うため鎮護国家として全国に国分寺を建立し、奈良の東大寺を総国分寺として大仏を創りました。
道鏡のように、政治に介入してくる僧侶の影響力が強くなりすぎて、桓武天皇は癒着を断ち切るために平安京へ都を移した。

 平安時代は、貴族の時代、カナも考え出され、女性の優美な姿を想像されよう。
 それにしても、中国の唐は世界の中心といわれる先進国で、日本は遅れている。唐に留学して学ぶことが多いのだろう。
 平安時代に、最澄と空海が遣唐使に任命され唐に渡り、お経の書物 や仏像を持ち帰り、日本に新たな、いぶきもたらした。
 空海は唐に20年間の留学予定が2年で帰国した。空海の才能がうかがえる。
空海は、高野山に金剛峯寺を瞑想の修行場所にし唐から持ち帰った密教を確立していった。
空海は宗教家は勿論、土木技師、書家としても才能を発揮し、また、温泉の湧き出る場所もあてた。
 密教は中国の国教で、中国の恵果が密教の基礎を築き上げ、日本から空海が訪れるのを予言していたのか空海に教えをすべて伝えた。その後、恵果は亡くなられたらしい。
 密教に関して、最澄は未完であり、一時は、8歳年上の最澄が、空海の弟子になり、密教の書物を借りようとしたが、空海に断られた。
 真言密教は経典を読むだけではなく実践が伴うと説いている。
修行によって、悟りに至るもので、師匠と一対一の伝授でなければ理解できないと、空海は悟っていた。
 空海は、山伏の山岳修行を会得し
さらに、深く密教を知った。
 大乗仏教、小乗仏教と聞くがいろんな経典があるようだが、私は簡単に解釈している。大乗仏教は、多くの人の為に、自分を犠牲にしても人のための仏教で、中国、韓国、日本などに伝来した。
 小乗仏教は出家者の、個人の為の仏教で、タイ、カンボジアなど東南アジアに伝来した。涅槃(ねはん)の仏像を思い出す。
若い人たちは、バンジージャンプに興じていたが、その時に、人の死と空(くう)を感じたかも知れない。
  空海の高野山には、3回お参りさせていただいた。寺のほとんどが宿坊にで、早朝に起き、お経を唱えた。
山道の両側には石碑が立ち並び、木々が高く聳え立ち、山道を2キロほど歩いて奥の院に着いた。奥の院では、1200年前から、弘法大師空海が今も瞑想しておられ、毎朝には、僧侶が、お食事をお運びしていた。
奥之院には、比叡山を焼き討ちにした織田信長の墓から、浄土宗開祖・法然の供養塔や、浄土真宗開祖・親鸞の霊屋まで。敵も味方も異宗派も、何者をも大らかに受け入れる真言密教の思想と空海への信仰が、いまも静かに息づいている。
護摩礼は密教の代表的な儀式で、御本尊の前で僧侶がさまざまな供物を炊き上げ厄や災を払い、ご本尊のご加護を願っていた。
それにしても、空海は史上最高の学力と能力を遺憾なく発揮している。今も高野山の奥の院で瞑想しておられると聞く、世界の彼方此方で人が迷走している。何とか収められないものか。
杉花粉症で目を赤くして、くしゃみをしていた若い僧侶が印象に残っている。
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比叡山 【連載ー第548号】

2024年04月15日 | 経験・体験
 現在は、「信仰の自由」と憲法で保障されているので、信じようが信じまいが各自の勝手だ。
 世の中が、ここまでに なるには、長―い年月と多くの人の知恵がはたらいている。
 人は病気にもなり、しわも出来、歳もとり、誰もが避けることができない死を迎える。
 友人から同窓会の集合写真を送っていただいたが、誰一人として面影がなく戸惑った。
 日本の3霊山は、青森の恐山・滋賀県の比叡山・和歌山県の高野山と知った。
   70年前から祖母の傍で木魚(もくぎょう)を叩いていたので仏様もお経も覚えている。遠い昔からみんなそうだと思っていたから、平安時代と言えば、みやこ京都だ。街あるく人は今も、お公家様に見える。
平安時代の庶民は読み書きどころかお米づくりにせいをだし、信仰は許されなかった。そんな余裕もなかったかもしれない。
そんな世に、最澄和尚は、中国の唐に派遣され、インドから伝わった仏教を学び、幸い経典とか佛像を持ち帰ることができた。日本に仏教を広めるには、難しい仏の教えを
とくよりも手を合わせてナムーと拝めば極楽浄土に行けます。と説いた。忙しい庶民には理解しやすい。
   最澄和尚は、比叡山にのぼり、多くの寺社仏閣を建て、それらの象徴たる比叡山延暦寺を建立した。
 海は荒れ、命の危険もあった遣唐使船に乗船して、当時、先進国の唐に渡ること自体朝廷の信任とお金を掛かったろう。

唐から「法華経」にもとずく中国天台宗の教えを比叡山に「天台宗」を開いた。
 インドの仏教は、シルクロードを通じ中国に渡り、朝鮮半島を経て飛鳥時代の日本に伝わった。
飛鳥時代の聖徳太子の遣隋使派遣のご苦労を思う。

 織田信長による、比叡山の焼き討ち事件もさまざまな理由があろうが信長にしてみれば、お坊さんの権力が強くなり過ぎたのか、信長の権力を世に示すのによかったのか。

 遣唐使とし、最澄と空海が唐にわたったが帰国して最澄は比叡山に天台宗を開き、空海は高野山に真言宗を開いた。最澄は8歳年下の空海の弟子だとは知らなかった。
 もう一つの霊山、高野山は、どんな山なんだろう。





  野球の大谷翔平さんのWBCでの発言で「今日だけは憧れは止めましょう、そうでなければ、憧れの上にいけないから、よし頑張ろう!」
と日本の選手を𠮟咤激励(しったげきれい)した。
 憧れで、厳しい練習にも耐えてきて、憧れを目標にしてきた選手にとっては、すごい衝撃だったろう。
昭和、平成、令和と時代は過ぎてきた。日本の少年たちにグローブを贈っていただいたのも大谷翔平という青年の時代、新しい人間、古い人間、と混在した時代期待しよう。
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