相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

犬去りて、豚来たる (連載―第562号)

2024年06月24日 | 経験・体験
犬は、「吠えたり噛んだりしながらも、平和と秩序を保つ犬」と犬が去り。豚は、「食い散らかして、何の役にも立たない」豚が来た。
 中国語: 狗去豬來)第二次世界大戦後初期の台湾社会における流行語、あるいは一種の差別用語である。
蒋介石、率いる中華民国軍が毛沢東、率いる中国共産党軍に台湾に追い詰められ、その時の台湾先住民の印象を表現したものであった。
犬は日本人で、豚は中国人を表している。
 ゴミ箱をあさる人を見たことが無かったが、日本ではゴミ箱さえ町になくなった。
  最近の、台湾問題で中国日本大使が信じられない発言をしている。「日本が台湾に加担すれば、日本を火の海にする」とか、大阪中国領事館が台湾代表就任式に出席した日本の国会議員全員に恫喝文を送りつけた。
 これに対し外務省および外務大臣
は、ただ遺憾と電話で申し入れたそうだが、日本の弱腰外交を批判されていた。
棒読みで「コメントを差し控えさせていただきます」の繰り返す日本政府。別に恨みはないが、歴史が事実であれば、日本も古くは遣隋使、遣唐使を中国に派遣して学ぶことが多かったらしいが、
  何千年の歴史のある国は中国を統一した秦の始皇帝から皇帝と名のり、漢の高祖や武帝、隋の文帝、唐の太宗、元のクビライ、明の洪武帝や永楽帝、清の康熙帝なのがある。
 日本は明治に入るなり、いち早く欧米と結んだ不平等条約の改定と諸国の制度・文物の調査の為に岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、伊藤博文(工部大輔)、そして武雄出身の山口 尚芳(長州)の5名の首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成され、2年の歳月をかけて派遣された。留守政府を守つたのは西郷隆盛、板垣退助、大隈重信ら
  日本の目は欧米先進国に向けられ、アジアの古来の伝統的な方式でいるといずれ先進国の植民地にされるのを恐れて先進国の文明を積極的に吸収した。
先進国に追い越せの旗じるしを掲げ軍事増強、教育にも力を注いだ。
中国は、字のごとく世界の中心であり、従来の皇帝が国を支配していた。日本とは真逆であった。
日本は日清戦争に勝ち、台湾と多額の賠償金を手にした。中国の孫文は辛亥革命で清を滅ぼし中華民国をつくった。
隣国のロシアは第一次世界大戦のころ、ロシア革命によってレーニンにようる社会主義による理想社会をつくろうとした。毛沢東にも多額の支援をし、世界にコミンテルを広めた。
 日露戦争でアジアの小国、日本が欧州の大国ロシアに勝ったことで、アジア各国は日本に学べと多くの留学生が日本に派遣され、もちろん中国の方も来た。アジアの日本が西洋の先進国を、アジアは日本を目出した。古来の伝統的な国は面白くもないだろう。
私は戦争の体験もないし、どこの国にも、どこの国の人にも恨みを持っていない。ただ、世にはびこる嘘か本当かの情報の中で生き延びている。
セクハラ、パワハラ、とイジメた方はすました顔で、すぐわすれるがイジメられた方は後々ヒキズル。
あれがイジメた。あれがイジメられた。と区別はつかないが、工夫して生きている。
  5分後の天候がスマホ見てわかるらしいが、傘を持って行こうかの判断を自らした。しまった雨だ!
外れた時のショックはすごい。スマホの責任も問えない。これが私の生き様だ。
 大使の日本を火の海にする発言に戻るが「コメントを差し控えさせていただきます」でいいのだろうか。
日本の政治家の感受性と瞬発力の欠如に飽き飽きだ。仕方ない、先進国はしたたかだ。
 生きるか死ぬかの中東のある子供に「あなたは今何が必要ですかと尋ねた」子供は、教育と答えた。
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味期限の話 (連載―第561号)

2024年06月18日 | 経験・体験
どうしても、頭の片隅に昔聞いたこと、脳裏に残っている。若ゲのいたりだろうか素直に覚えている。
 ❶誰かが団体旅行で海外に出かけて、立ち小便をした。❷ハイヒールは窓から汚物を投げ出すので、仕方なく路地を歩くのにハイヒールを考案した。❸大航海時代、上陸してきた兵隊が赤子の両足を片手で捕まえて、岩に頭をぶちつけた。❹
兵隊さんが赤子を抱いた母親から赤子を奪い崖の上から放り投げた。母親は、アッ 崖から身をなげた。

  ❺若い兵隊さんが人体実験だろう人の心臓、肺、胃、肝臓、腸、の入ったホルマリン漬けされた容器が幾つも保存されている部屋を目撃した。❻高速道路の路肩にバスを止め、一人が要だしたら、二人、三人と、汚物はそのままだ。・・・・
「旅の恥はかき捨て」ということわざもあった。空気が汚れているのか
駅には、白いタン壺があった。町には、たばこの吸い殻やゴミが散乱していた。駅には包帯を巻き杖をついた戦争帰りと思わせる人が募金箱のような物を首にかけていた。
いつ頃だろうね。
 先日、外からオジサンと口論している声が聞こえた。聞いていると、住宅地でバイクの音がうるさいと云う。
確かに、うるさいと思えばうるさいが、ドコドコドコドコと胃に響くあの音が良いのに人によって、騒音でしかない。奥様の声は聞こえてこないから、代わりに夫人が出て来たのだろう、言葉に重みを感じなかった。
 「忖度」(そんたく)は、相手の気持ちを推し量ることを意味する。と書いてあった。
ある国会答弁で、誰かが書いた言葉を、何度も無表情で読み上げる根性を感じ取った。さすが、大物の政治家になる素養を感じた。「差し控える」の言葉を
ベルリンの壁のようだった。
  力は対等でないと一方通行だ。それを知るのに、相手の歴史を知ったことで、逆走もごもっともと理解できても逆走は逆走で本来の流れに戻さなければならない。
ところで、バイクの音が聞こえなくなった。
 円安で海外の旅行客も多くいらしているようだが、日本は安いらしい。
ホンの最近前までは、高いだろうと
思っていたが、今や海外で、ハンバーグに2000円も出せない。海外旅行にお米持参で行くという。
 政治家も経営者も静かなものだ。
石油を積んだタンカーが台湾海峡
を通過できなければ、かつてアメリカによる石油禁輸と同じだ。
  イタリアでは、移民の人が多く、イタリア人が海外に逃れているようだが、日本もそうならなきゃいいが。
 人口が日本の何十倍も多い国、国土が日本の何十倍も広い国、狭い地に押し込められ、逃げ出すことも出来ず、悪環境で死を待つ人たち。
人が多いと人を監視して、国土が広いと国境を監視して、狭い地に
多民族が押し込まれ、この地はもともと私たちの聖地、振り返れば、大国の戦争が生んだ裏取引が原因でパレスチナの問題が発生した。
  ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地でもあり、高い塀の中でここはガザ地区に、ここは、ヨルダン川西岸地区に、今まで住んでいたアラブ人が隔離され、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人が帰って来て元は私たちが住んでいた地に勢力をのばしている。
第一次世界大戦でイギリスがユダヤ人に戦費のお金を貸してくれるのであれば、戦後はこの地を授けよう。また、アラブ人に約束した。戦争に加担しくれたら、戦後は、パレスチナの地を授けよう。イギリスはユダヤ人にもアラブ人にも約束した。イギリスは、戦後処理で逃げてしまった。
 200年前、ドイツの初代大統領のビスマルクが日本の視察団(岩倉使節団)にアドバイスされた。沈黙は美徳とあるが、世界は主張すべきことは、主張しなければなれない。
18歳の時、至上最低の学力を引っ提げて大都会東京に来た。一番苦手な歴史からはじめた。年号は覚えず時代の流れで、登場人物が何をしたのかを知ると意外と面白い。
私にとって、昭和100年は来年になる。賞味期限の話に、めちゃくちゃ視野が広がった。
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エロ将軍、徳川家斉  (連載―第560号)

2024年06月15日 | 経験・体験
関ケ原天下分け目の戦いに勝った徳川家康が1603年に江戸幕府を開いた。
 江戸時代265年の徳川の世であった。徳川15代の慶喜まで長期にわたり続いた。
 家康が鬼門(キモン)とされる日光に我が身を置いて徳川の、世の安泰を願って今も祈っていらっしゃる。
(鬼門はよくない方角と聞く。アナタ出先はその方角ではありますんが?いいんだよ、方角を変えてるから)
  こんな将軍様もいた徳川家斉である。
特定されるだけで16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子2人・女子27人)を儲けた。
 タブーなことだが、妾(めかけ)はニゴウさんのことで、イチゴウさんは妻をいう。この妾の字は今は死語になっている。
 この時代はよかったのか、何処かの隠居さんが妾と向島の、神楽坂の料亭で、と言った話は、今はご法度だ。故・田中角栄も神楽坂に妾が居て、国会の合間に妾と会っていたという話を聞いた。
  家斉をエロ将軍とかオットセイ将軍とか色々な呼び名で呼ばれてますが、安心して下さい。全部本当です。【家斉】

 家斉(いえなり)は、11代将軍の世は在位50年も続いた。
お城には大奥というところが別格にあり、多くの女中が働いていたようだが、それはそれは、将軍の夢薗だ。
そのころの平均寿命は、30~40歳というから、15歳で将軍様なった家斉は若さ爆発だ。
子供が成人になるまで、ほとんどがなくなるので、お世継ぎ問題もでてくる。当時の医療事情も関係しているのだろう。
  
 世継ぎができないとお家断絶でお取り壊しだ。家斉は悪い言葉だが一種のスペアの観念だったの?
 16人の妻妾に53人の子供を儲けたとあるが、一人でも大変なのに婚姻関係も何処の大名に嫁がせるか、祝い事も多々あるだろう。
 諸大名の不満も出ることもあろう。政治どころでないようだ。幸い、なにもしなかったからよかったようだ。
 景気は束縛を嫌う、自由経済がよろしかろう。

  吉田松陰はこんな言葉を残している。
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」

 つまり、天下は天皇のもので、将軍は天皇から委託され世を治めるもので、将軍は天下を私物にしてはいけない。
儲けた子女の多さは、歴代15代徳川将軍の中でも圧倒的に一番である。私は、和歌山出身で
家康の10男、徳川将軍吉宗が将軍になった。
私は、生まれていなかった。世が世であれば、将軍様になっていたかも? 
 種馬じゃあるまいし妻は多いほうがよい。非難喝采!
ホルモンが多い人は、仕事ものりにのって比例するという。もしかして、徳川家斉は、仕事も人の3倍もこなしていたかも知れない。


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吉田松陰の「二十一回猛子説」 (連載―第559号)

2024年06月10日 | 経験・体験
身内に一人、こんな立派な人がいたら、夜も安心して寝かしてくれないだろう。
 吉田 松陰は、1830年に長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)に生まれ、幼い頃は杉寅之助と名乗っていた。松陰は父、杉百合之助の次男に生まれ。
吉田松陰は子ども時代、兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら夜も仕事をしながら本を読んでいた。
牧を背負って、本を読んでいた二宮金次郎のようだ。

 幼い頃、杉家より格上の吉田家に養子にやられて、杉から吉田に変わった。養子に入った吉田さんが、松陰が5歳の時に亡くなり家督を継いだ。
 叔父の玉木文之進がはじめた松下村塾は、やがて吉田松陰が主宰者となる。高杉晋作(長州藩士:山口県)、伊藤博文(元、首相)、山形有朋 (元、首相)、など、幕末維新期に活躍する門下生が育ったのであった。
伊藤博文が日清戦争でも活躍されたが、私と同じ百姓だったとは驚きだ。
 彼は、「二十一回猛子説」の夢を見て、松陰には一生涯、猛レツな生き様が21回準備されている。
  二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三(さんづくり)が3で計21。吉田は士(十と一)と田は十で21、ロと口で回という意味である。
1回目は、22歳のとき東北視察に出発するが、藩府(長州藩の許可を得ない無届出奔【脱藩】)であった。脱藩の刑は重罪であった。
2回目は1854年25歳のとき浦賀に再度来航したペリーの軍艦に乗り込み、海外渡航を企てた。
3回目は29歳のとき、松陰は同志17名と血盟し、「安政(あんせい)の大獄」を未然に防止しようと老中間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃策を企図する。意見書を幕府に送った。
 以上、3回は済ませたが、いずれも重罪で投獄されるが特別な計らいで済ませてくれたようだ。
後、吉田松陰には18回の猛があると言う。21-3=18 しかし、30歳の若さで吉田松陰は牢獄で刑死する。
 吉田松陰30歳の短い生涯で幕が下りたがは、これは大別すると3期に分けることができる。
第1期は18歳までの少年時代、第2期は24歳までの遊学時代、第3期は獄中時代である。

 江戸時代265年、鎖国もあった。ペリー来航で先進国の文明と遭遇して、刺激を受けた日本人が明治維新になって2年間に渡り欧米視察団を派遣することになった。岩倉使節団だ。日本国の留守を西郷隆盛、板垣退助、大隈重信らが守った。
 当然、視察団と留守団とは西洋の文明を見た視察団との意見も違うだろう。吉田松陰が生きていたらどんな猛を見せるのか
知りたい。
 明治100年目は、昭和39年の東京オリンピックの頃のオリンピック景気のいい頃だ。
  昭和100年目は、令和の現在の頃のようだ。私が73歳のジジイに、昭和26年の生まれた年数をプラスしたら73+26=99正確には昭和に換算したら来年だ。
 兵隊さんの代わりにドローンが人間様と戦っている。人手が足りないからAIがロボットが人間様の役割を果たしている。
 若い人間様も頑張っている。半世紀ぶりに、リニアの姿を
見た。東海道新幹線、リニア新幹線とまた振り出しに戻った。

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戦争はごめん (連載―第558号)

2024年06月03日 | 経験・体験
はじめに
 中学時代は農家で、よく土をいじった。土にも栄養をやらないと、食物も育たないと大きくなって知った。
 水だけやればいいと思っていたが衝撃だった。田には、レンゲやタンポポが田の一面に咲いていた。レンゲに寝そべって遊んでいた。これが、土の栄養だと知った。
 世界の各地で戦争が起こっている。もしかして、栄養不足かも知れない。
 
絶対に嫌だ。 
国から、召集令状が来て戦場に行った経験はないが、命が石コロのように扱われては、命に申し訳ない。
 日本と清、日本とロシア、ヨーロッパでも第一次世界大戦が勃発、日英同盟を結んでいるから日本も参戦した。
ロシアでは、新しい社会主義国家をつくろうとレーニンが躍起となっている。ロシアは史上初めての社会主義国家の樹立に強権なスターリンへと引き継がれた。
ロシア国内でも革命に向かっているのに他国と戦争どころでないだろう。
   私の子供の頃、乃木将軍と二〇三高地という遼東半島の旅順での戦いを聞いた。
標高、二〇三高地の要塞を陥落させて、高地から旅順のロシアの太平洋艦隊を大砲でという作戦だった。要塞が更に強固なものであったら、歴史は変わっていただろうというが、要塞の前任者が? よくある話であったという。
日露戦争が、アメリカの最終斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結して、ロシアは史上初の社会主義国家の樹立につながった。
日本は形の上では日露戦争に勝った。日比谷公園で戦勝記念を祝ったが、領土も賠償金もとるべきだという要求もあったようだ。
 日露戦争終結すれば、第二次世界大戦が資源のない日本とアメリカが戦おうとした。
分析によりますと陸軍も海軍も戦争が長くなれば資源のない日本は負けるとしたのに、日独伊の同盟を結んでいるドイツがロシアに攻め入った。
 日本はアメリカからの石油の輸入が閉ざされ、仕方なく南方に資源をもとめた。
これが、日本の予想外にアメリカを怒らせた。アメリカは中国に派遣している日本陸軍を引き揚げる要求したが受け入れられず、資源が枯渇しないうちに戦争に突き進まされたのだろう。
   ア! 第一次大戦の時も、アメリカの民間船がドイツの潜水艦に沈められた。その機にアメリカが参戦して連合国側が勝った。爺さんは古い事を思い出すもんだ。
 忘れてた。バルト海に展開するロシアのバルチック艦隊が旅順の太平洋艦隊を増援の為にバルト海を出たようだが、到着前に事を済ませる必要があった日本軍。日本艦隊は日本海でバルチック艦隊と対戦して、多くの艦船を沈めた。
現在も無敵艦隊バルチック艦隊がバルト海で展開のようだ。

  日本も兵隊さんも足らなくなり、学徒出陣と学生が招集され、神風特攻隊となり、散っていった。
戦闘機も片道切符で散っていった。恐ろしい人間魚雷は外から閉められれば中から開けられないから、敵の戦艦に体逃げるあたり。命令とパワーで言われれば国の母を思って体あたり。
戦争とは、こんなものと思ったが機械と戦うことになっている。
 ロシアは、遠い昔から、不凍港をもとめて、地中海や中東に出ようとしたが諦め、不凍港を求めて南下政策として、東に進路を変えたが日本という国があった。
  世界はしたたかだ。戦略核は世界の終わりを意味するが、戦術核を使わせようとしている。一国を滅ぼすのに戦術核は不要だ。
 日本は、世界の話題からとりのこされているのだろうか。

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