現代は病院でオギャーと産まれる。71年前に私は産婆(さんば)さんのお世話になってたらいの湯で、産湯(うぶゆ)を使って家で産まれた。
天井から吊るされたクルクルまわるメリーゴーランドのようなおもちゃを眺めながら育った。
娘が言う、お父さんの田舎はおとぎの国の田舎で、夏には岩の上から川に飛び込んだ。妻は私を、山奥の田舎者だという。そういう妻は田んぼの田舎者だ。二人は田舎者どうし。
紀州は陸の孤島というイメージらしいが、新幹線にしても高速道路にしても置いてきぼりという。
陸の孤島は、いつまでもつづいてほしいがだめかなあ。
18歳になって、大阪の梅田駅から東京駅まで夜行機関車で12時間をかけて来た。ホームには弁当~弁当~と売り歩くおじさんもいた。
おじさん、弁当とお茶ください。汽車の窓を開け、わずかな汽車の停車時間にすませた。
紀州の方に、夏でも冬かいにさせないように心がけています。が不愉快のせつはご勘弁下さい。
新宿の街に行った。今日はお祭りだ。金魚すくい、お面、刀、おもちゃの鉄砲、やきそば、太鼓饅頭、親から小遣いをもらってと思ったが、ここは東京だ。
気づいたら人混みの中、田舎ではこんなに人が集まるのがお祭りしかない。
てっきり、お祭りと思った。いつもこうであれば、町は楽しいのだが、みんな芋洗いのように人でいっぱいだ。
江戸時代では紀州、尾張、水戸の御三家は徳川御三家と言われた。徳川家康の十男、徳川頼宣が55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀伊家から養子を出す」ことになっており、実際に7代将軍家継が8歳で死去して宗家が断絶した際、8代将軍として紀伊家から吉宗が養子に迎えられ、以降14代将軍家茂までは紀伊家の血筋である。
時は、戦国時代下剋上(げこくじょう、身分の下の者が上の者を打倒して権力を奪取する。)の世の中、徳川家康の死後も己を徳川家の鬼門である日光東照宮に身を置いて徳川を看取ったのだろう。
また徳川の血筋を途絶えさせないように、
紀州・尾張・水戸に徳川家康の子供を分散させた。暴れん坊将軍、吉宗も紀州家の4男だったのに、度重なる父兄の死にあった。
和歌山城は豊臣秀吉の弟の豊臣秀長のために、当時は「若山」と呼ばれていたこの地に豊臣秀吉が築城を命じた。
紀州には安珍・清姫伝説が有名で、この伝説が歌舞伎座でも新橋演舞場とか国際劇場でも演じられ超満員だ。
長唄でも演じられていた。娘道成寺とか安珍・清姫、日高川、道成寺などの演目だった記憶だ。
人は幸せなのか、怖さ、恐ろしさを好む。
道成寺の和尚様が絵巻説法をやっていると言うので聞きに行った。
私も記憶してた話だ。
時は平安時代、奥州(岩手)出身の若い僧が毎年、熊野参詣にきていた。今年も旅宿も同じ宿。安珍は美形でいい男のようだ。長旅で疲れたのか床に付いて寝ていると、ふと床の傍に座っている若い娘がいた。おそらく宿の娘のようだ。この女性が清姫と呼ぶ、安珍に一目ぼれしたのだろう。
夜も遅いから、ご自分の部屋にお戻りなさい。嫌でございます。私はあなた様をお慕いしています。
今夜は・・・・。あなた様と結婚しとうございます。
僧は困り果て、熊野参詣の帰りに立ち寄るから結婚もしよう。とこの場しのぎの嘘をついてしまった。純情な娘は('_')部屋を後にした。
当時は、僧は結婚できない身なのに。
さて安珍は熊野参詣を済ませ女(清姫)との約束も忘れたのか宿に立ち寄らず奥州に帰った。
清姫は安珍が立ち寄るのを首を長くして待った。
まさか、清姫は旅人に尋ね歩いたが安珍は別の峠を通ったことが判明した。
おのれ安珍め! 清姫は安珍を追っかけた。
日高川を下れば塩屋の浜に出る。小学校の時、塩屋の海水浴場に来た。日高川を下れば道成寺に着く、川から少し離れるが舞台は決まりだ。
日高川を坂のぼれば龍神温泉、龍神温泉から左に車で1時間で弘法大師・空海が開いた高野山に着く。
奈良県との境の山の上をスカイロードが走っている。途中、落人の村もある。
ちなみに、日高川を上り、右に下れば熊野の那智の滝に行ける。行ったことはないが熊野古道を通れば大社もあるようだ。
安珍はどのあたりから日高川を下ったのか、昔は水の量もおおく渡り船もあったようだ。
すまないが船頭さん、急いで舟をだしてくれ怖い女に追われている。
女は船頭も舟がなく泳いで川を渡った。それはそれは段々怖い蛇体となって安珍を追った。
安珍は道成寺にたどり着き和尚様にかくまってくれるようお願いしたら、和尚は釣鐘を下してその中にかくまった。
しかし、蛇体と化した清姫は安珍を探しに探したが、ついに下した釣鐘から安珍のわらじがはみ出ているのを見つけた
おのれ安珍と蛇体と化した清姫が鐘を巻きつけると尻尾で鐘を叩き口から火を吐き安珍を焼き殺した。という安珍清姫伝説というお話でした。
この伝説は、昔からのいい伝えとは気になる。
清姫は安珍を焼き殺したあと日高川に身を投げ入水自殺したという。
気になる道成寺の鐘は京都の妙満寺にこの伝説の縁ある鐘があるという。
永らく失われていた鐘が寄進され鐘供養が営まれた。らしいが鐘の音が悪く、近隣に悪病厄災が続いたため、山に捨てられたという。
それから約200年後、豊臣秀吉による根来(ねごろ、現和歌山県岩出市の地名)攻めで大将を務めた仙石秀久が山中からこの鐘を拾い、合戦の合図に使う陣鐘として使いそのまま京都へ持ち帰り、その後は妙満寺の時の貫首・日殷大僧正によって清姫の怨念が祓われ、鳴音美しい霊鐘として什物となり今に伝えられいるようだ。
紀州って面白い。日高川にはまだまだ面白い言い伝えがありそうだ。
この世は男と女、好き合って一緒になったのに分かれる人もいる。
恋は盲目と恋多き方は話す。あばたもえくぼと本人にも他人にも見えなくなっている。人も好き好きだ。
恋はあきっぽい。恋は究極の憎みに変貌するものなのか清姫の場合どうなんだろう。
あばたも可愛くなる。しあわせは自分の心がきめるもの根気よく待つようだ。
私も妻と45年、妻の一生をお預かりしている身の上だ。安珍清姫から我が身のごとく振り返る。
18歳まで紀州に育てられた私の物語でもあった。
天井から吊るされたクルクルまわるメリーゴーランドのようなおもちゃを眺めながら育った。
娘が言う、お父さんの田舎はおとぎの国の田舎で、夏には岩の上から川に飛び込んだ。妻は私を、山奥の田舎者だという。そういう妻は田んぼの田舎者だ。二人は田舎者どうし。
紀州は陸の孤島というイメージらしいが、新幹線にしても高速道路にしても置いてきぼりという。
陸の孤島は、いつまでもつづいてほしいがだめかなあ。
18歳になって、大阪の梅田駅から東京駅まで夜行機関車で12時間をかけて来た。ホームには弁当~弁当~と売り歩くおじさんもいた。
おじさん、弁当とお茶ください。汽車の窓を開け、わずかな汽車の停車時間にすませた。
紀州の方に、夏でも冬かいにさせないように心がけています。が不愉快のせつはご勘弁下さい。
新宿の街に行った。今日はお祭りだ。金魚すくい、お面、刀、おもちゃの鉄砲、やきそば、太鼓饅頭、親から小遣いをもらってと思ったが、ここは東京だ。
気づいたら人混みの中、田舎ではこんなに人が集まるのがお祭りしかない。
てっきり、お祭りと思った。いつもこうであれば、町は楽しいのだが、みんな芋洗いのように人でいっぱいだ。
江戸時代では紀州、尾張、水戸の御三家は徳川御三家と言われた。徳川家康の十男、徳川頼宣が55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀伊家から養子を出す」ことになっており、実際に7代将軍家継が8歳で死去して宗家が断絶した際、8代将軍として紀伊家から吉宗が養子に迎えられ、以降14代将軍家茂までは紀伊家の血筋である。
時は、戦国時代下剋上(げこくじょう、身分の下の者が上の者を打倒して権力を奪取する。)の世の中、徳川家康の死後も己を徳川家の鬼門である日光東照宮に身を置いて徳川を看取ったのだろう。
また徳川の血筋を途絶えさせないように、
紀州・尾張・水戸に徳川家康の子供を分散させた。暴れん坊将軍、吉宗も紀州家の4男だったのに、度重なる父兄の死にあった。
和歌山城は豊臣秀吉の弟の豊臣秀長のために、当時は「若山」と呼ばれていたこの地に豊臣秀吉が築城を命じた。
紀州には安珍・清姫伝説が有名で、この伝説が歌舞伎座でも新橋演舞場とか国際劇場でも演じられ超満員だ。
長唄でも演じられていた。娘道成寺とか安珍・清姫、日高川、道成寺などの演目だった記憶だ。
人は幸せなのか、怖さ、恐ろしさを好む。
道成寺の和尚様が絵巻説法をやっていると言うので聞きに行った。
私も記憶してた話だ。
時は平安時代、奥州(岩手)出身の若い僧が毎年、熊野参詣にきていた。今年も旅宿も同じ宿。安珍は美形でいい男のようだ。長旅で疲れたのか床に付いて寝ていると、ふと床の傍に座っている若い娘がいた。おそらく宿の娘のようだ。この女性が清姫と呼ぶ、安珍に一目ぼれしたのだろう。
夜も遅いから、ご自分の部屋にお戻りなさい。嫌でございます。私はあなた様をお慕いしています。
今夜は・・・・。あなた様と結婚しとうございます。
僧は困り果て、熊野参詣の帰りに立ち寄るから結婚もしよう。とこの場しのぎの嘘をついてしまった。純情な娘は('_')部屋を後にした。
当時は、僧は結婚できない身なのに。
さて安珍は熊野参詣を済ませ女(清姫)との約束も忘れたのか宿に立ち寄らず奥州に帰った。
清姫は安珍が立ち寄るのを首を長くして待った。
まさか、清姫は旅人に尋ね歩いたが安珍は別の峠を通ったことが判明した。
おのれ安珍め! 清姫は安珍を追っかけた。
日高川を下れば塩屋の浜に出る。小学校の時、塩屋の海水浴場に来た。日高川を下れば道成寺に着く、川から少し離れるが舞台は決まりだ。
日高川を坂のぼれば龍神温泉、龍神温泉から左に車で1時間で弘法大師・空海が開いた高野山に着く。
奈良県との境の山の上をスカイロードが走っている。途中、落人の村もある。
ちなみに、日高川を上り、右に下れば熊野の那智の滝に行ける。行ったことはないが熊野古道を通れば大社もあるようだ。
安珍はどのあたりから日高川を下ったのか、昔は水の量もおおく渡り船もあったようだ。
すまないが船頭さん、急いで舟をだしてくれ怖い女に追われている。
女は船頭も舟がなく泳いで川を渡った。それはそれは段々怖い蛇体となって安珍を追った。
安珍は道成寺にたどり着き和尚様にかくまってくれるようお願いしたら、和尚は釣鐘を下してその中にかくまった。
しかし、蛇体と化した清姫は安珍を探しに探したが、ついに下した釣鐘から安珍のわらじがはみ出ているのを見つけた
おのれ安珍と蛇体と化した清姫が鐘を巻きつけると尻尾で鐘を叩き口から火を吐き安珍を焼き殺した。という安珍清姫伝説というお話でした。
この伝説は、昔からのいい伝えとは気になる。
清姫は安珍を焼き殺したあと日高川に身を投げ入水自殺したという。
気になる道成寺の鐘は京都の妙満寺にこの伝説の縁ある鐘があるという。
永らく失われていた鐘が寄進され鐘供養が営まれた。らしいが鐘の音が悪く、近隣に悪病厄災が続いたため、山に捨てられたという。
それから約200年後、豊臣秀吉による根来(ねごろ、現和歌山県岩出市の地名)攻めで大将を務めた仙石秀久が山中からこの鐘を拾い、合戦の合図に使う陣鐘として使いそのまま京都へ持ち帰り、その後は妙満寺の時の貫首・日殷大僧正によって清姫の怨念が祓われ、鳴音美しい霊鐘として什物となり今に伝えられいるようだ。
紀州って面白い。日高川にはまだまだ面白い言い伝えがありそうだ。
この世は男と女、好き合って一緒になったのに分かれる人もいる。
恋は盲目と恋多き方は話す。あばたもえくぼと本人にも他人にも見えなくなっている。人も好き好きだ。
恋はあきっぽい。恋は究極の憎みに変貌するものなのか清姫の場合どうなんだろう。
あばたも可愛くなる。しあわせは自分の心がきめるもの根気よく待つようだ。
私も妻と45年、妻の一生をお預かりしている身の上だ。安珍清姫から我が身のごとく振り返る。
18歳まで紀州に育てられた私の物語でもあった。