相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

紀州の国(和歌山) (連載―462)

2023年03月26日 | 経験・体験
現代は病院でオギャーと産まれる。71年前に私は産婆(さんば)さんのお世話になってたらいの湯で、産湯(うぶゆ)を使って家で産まれた。
 天井から吊るされたクルクルまわるメリーゴーランドのようなおもちゃを眺めながら育った。

 娘が言う、お父さんの田舎はおとぎの国の田舎で、夏には岩の上から川に飛び込んだ。妻は私を、山奥の田舎者だという。そういう妻は田んぼの田舎者だ。二人は田舎者どうし。

  紀州は陸の孤島というイメージらしいが、新幹線にしても高速道路にしても置いてきぼりという。
陸の孤島は、いつまでもつづいてほしいがだめかなあ。

18歳になって、大阪の梅田駅から東京駅まで夜行機関車で12時間をかけて来た。ホームには弁当~弁当~と売り歩くおじさんもいた。
おじさん、弁当とお茶ください。汽車の窓を開け、わずかな汽車の停車時間にすませた。
 紀州の方に、夏でも冬かいにさせないように心がけています。が不愉快のせつはご勘弁下さい。
 
新宿の街に行った。今日はお祭りだ。金魚すくい、お面、刀、おもちゃの鉄砲、やきそば、太鼓饅頭、親から小遣いをもらってと思ったが、ここは東京だ。
気づいたら人混みの中、田舎ではこんなに人が集まるのがお祭りしかない。
 てっきり、お祭りと思った。いつもこうであれば、町は楽しいのだが、みんな芋洗いのように人でいっぱいだ。

 江戸時代では紀州、尾張、水戸の御三家は徳川御三家と言われた。徳川家康の十男、徳川頼宣が55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
 
将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀伊家から養子を出す」ことになっており、実際に7代将軍家継が8歳で死去して宗家が断絶した際、8代将軍として紀伊家から吉宗が養子に迎えられ、以降14代将軍家茂までは紀伊家の血筋である。

時は、戦国時代下剋上(げこくじょう、身分の下の者が上の者を打倒して権力を奪取する。)の世の中、徳川家康の死後も己を徳川家の鬼門である日光東照宮に身を置いて徳川を看取ったのだろう。
また徳川の血筋を途絶えさせないように、
紀州・尾張・水戸に徳川家康の子供を分散させた。暴れん坊将軍、吉宗も紀州家の4男だったのに、度重なる父兄の死にあった。


和歌山城は豊臣秀吉の弟の豊臣秀長のために、当時は「若山」と呼ばれていたこの地に豊臣秀吉が築城を命じた。

紀州には安珍・清姫伝説が有名で、この伝説が歌舞伎座でも新橋演舞場とか国際劇場でも演じられ超満員だ。
長唄でも演じられていた。娘道成寺とか安珍・清姫、日高川、道成寺などの演目だった記憶だ。

人は幸せなのか、怖さ、恐ろしさを好む。
道成寺の和尚様が絵巻説法をやっていると言うので聞きに行った。
                                                                        
私も記憶してた話だ。
時は平安時代、奥州(岩手)出身の若い僧が毎年、熊野参詣にきていた。今年も旅宿も同じ宿。安珍は美形でいい男のようだ。長旅で疲れたのか床に付いて寝ていると、ふと床の傍に座っている若い娘がいた。おそらく宿の娘のようだ。この女性が清姫と呼ぶ、安珍に一目ぼれしたのだろう。
夜も遅いから、ご自分の部屋にお戻りなさい。嫌でございます。私はあなた様をお慕いしています。
今夜は・・・・。あなた様と結婚しとうございます。

僧は困り果て、熊野参詣の帰りに立ち寄るから結婚もしよう。とこの場しのぎの嘘をついてしまった。純情な娘は('_')部屋を後にした。
当時は、僧は結婚できない身なのに。
 さて安珍は熊野参詣を済ませ女(清姫)との約束も忘れたのか宿に立ち寄らず奥州に帰った。
 清姫は安珍が立ち寄るのを首を長くして待った。
 まさか、清姫は旅人に尋ね歩いたが安珍は別の峠を通ったことが判明した。
 おのれ安珍め! 清姫は安珍を追っかけた。

  日高川を下れば塩屋の浜に出る。小学校の時、塩屋の海水浴場に来た。日高川を下れば道成寺に着く、川から少し離れるが舞台は決まりだ。

 日高川を坂のぼれば龍神温泉、龍神温泉から左に車で1時間で弘法大師・空海が開いた高野山に着く。
奈良県との境の山の上をスカイロードが走っている。途中、落人の村もある。

ちなみに、日高川を上り、右に下れば熊野の那智の滝に行ける。行ったことはないが熊野古道を通れば大社もあるようだ。
 
安珍はどのあたりから日高川を下ったのか、昔は水の量もおおく渡り船もあったようだ。

 すまないが船頭さん、急いで舟をだしてくれ怖い女に追われている。
 女は船頭も舟がなく泳いで川を渡った。それはそれは段々怖い蛇体となって安珍を追った。

 安珍は道成寺にたどり着き和尚様にかくまってくれるようお願いしたら、和尚は釣鐘を下してその中にかくまった。
しかし、蛇体と化した清姫は安珍を探しに探したが、ついに下した釣鐘から安珍のわらじがはみ出ているのを見つけた
 
おのれ安珍と蛇体と化した清姫が鐘を巻きつけると尻尾で鐘を叩き口から火を吐き安珍を焼き殺した。という安珍清姫伝説というお話でした。
 この伝説は、昔からのいい伝えとは気になる。
 清姫は安珍を焼き殺したあと日高川に身を投げ入水自殺したという。
 気になる道成寺の鐘は京都の妙満寺にこの伝説の縁ある鐘があるという。

 永らく失われていた鐘が寄進され鐘供養が営まれた。らしいが鐘の音が悪く、近隣に悪病厄災が続いたため、山に捨てられたという。

それから約200年後、豊臣秀吉による根来(ねごろ、現和歌山県岩出市の地名)攻めで大将を務めた仙石秀久が山中からこの鐘を拾い、合戦の合図に使う陣鐘として使いそのまま京都へ持ち帰り、その後は妙満寺の時の貫首・日殷大僧正によって清姫の怨念が祓われ、鳴音美しい霊鐘として什物となり今に伝えられいるようだ。

 紀州って面白い。日高川にはまだまだ面白い言い伝えがありそうだ。
 この世は男と女、好き合って一緒になったのに分かれる人もいる。
   恋は盲目と恋多き方は話す。あばたもえくぼと本人にも他人にも見えなくなっている。人も好き好きだ。

恋はあきっぽい。恋は究極の憎みに変貌するものなのか清姫の場合どうなんだろう。
 あばたも可愛くなる。しあわせは自分の心がきめるもの根気よく待つようだ。
私も妻と45年、妻の一生をお預かりしている身の上だ。安珍清姫から我が身のごとく振り返る。
 18歳まで紀州に育てられた私の物語でもあった。
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甲斐(山梨県)の国 (連載―459)

2023年03月17日 | 経験・体験
山がいっぱいあるのに山梨県と妻が孫に教えていた。ここは何処ってね。

山梨と言えば甲斐の国、戦国武将、武田信玄で有名だ。

噂では信玄餅を袋に詰め放題で有名らしいが、甲斐の国を治め、世が世であれば天下人だったかもしれない。

 風林火山、と四字熟語で有名な戦国武将と言えば? 武田信玄。

   武田信玄の戦いの旗に書いていた「風林火山」(はや) きこと風の如く、徐 (しず) かなること林の如く、侵 (おか) し掠 (かす) めること火の如く、動かざること山の如し」の略で、中国の孫子の句らしい。

さっそく、武田神社が実在していると言うので向かった。武田神社に通じる武田道りがあった。山梨大学があり、さすが両側は武田家ばかり、不動産、公園とみんな武田さんだ。

本殿までは長い階段だったが手すりがあったので自力で上った。

父親の武田信虎、おじさんの武田信縄の家督を引き継いで武田信玄が登場した。この家督の歴史は歴史学者が詳しいからお任せした方が賢明だ。

 戦って勝てる相手には向かっていき、負けそうだなあと思う相手には戦いを挑まない。

 人間だもの、判断を誤ることだってある。
「実力に関係なく、あのタイプにはよわいんだよなあ。ってことだってある」

 武田信玄も本家と分家で苦労はお互い様、南に今川と北条がいたので北(信州)に向かった。
 
運命の上杉謙信との川中島での4度の戦いも引き分けに終わった。

 子供のころ、武田信玄も強そうだったが、上杉謙信の方が強い気がした。武田信玄も上杉謙信も凛々しい名前だがお寺の和尚様の名前のようだ。

 武田信玄は天下人を狙って織田信長を目出したのだろうが病には勝てなかった。
 聞くところによると上杉謙信も病に勝てなかったようだ。
 織田信長も本能寺の変にあった。

   初めて訪れた甲斐の国は四方山に囲まれ、山にはフルーツの丘もあり、ワインでも有名だ。

武田信玄が武田神社からどのようなルートで北に向かったのか想像するだけでも武田信玄になれた。

武田信玄と上杉謙信と川中島で4回も戦い引き分けに終わった。

武田信玄も上杉謙信もお坊さんの名前を想像する。
武田信玄は天下を取ったのだろうが病には勝てず没した。
上杉謙信も病に倒れたと聞く。
 
ここは、甲府盆地で周りが山で囲まれていた。笛吹川フルーツ公園もあり、世界中の果物を楽しめる温室ハウスがあると言う。山梨と言えば甲州ワインもあるが私は飲めない。

 山の麓から頂上までハウスが点在していたが急な登坂は移動に大変だった。

 甲府の山々を見ながら武田信玄は風林火山のようにどのように山を移動したのか甲府の町を眺めた。 

ことわざにこんなことがあった。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

強い風によって砂ぼこりがたつと、砂ぼこりが目に入ったために盲人がふえ、その人たちが三味線で生計を立てようとするため、三味線が多く必要になり、三味線の胴に張る猫の皮の需要も増え、そのために猫がへり、その結果、増えた鼠が桶(おけ)をかじるので桶屋が注文が増え桶屋が儲かる。ということわざ。

風が吹いたら、なぜ桶屋が儲かる。まったく関係ないことだが、武田信玄の敵であった南の今川義元を桶狭間で織田信長が今川の首を落とした。

こんなことが武田信玄に功したのか、織田信長も天候が味方して今川の首を取れたのか?

 天下人になるには何かがあるのかなあ。
 古いふるーい昔の歴史をかじっていたおかげで、旅の面白さも倍増した。
 ここまで生きてこられたのも運がよかった面もあった。運って何なの? といわれても運だよ。
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富士の山いいなあ! (連載―458)

2023年03月14日 | 言葉
日本に生まれてよかった。寒い寒いと言っていたら、ポカポカさくら日和、富士の山とは30年ぶりにお目にかかったが、いいなあ!
 子供が連れてきてくれたが冥土のみやげのようだ。
 富士の山を眺めたり、桜を花を眺めたり、楽しみが盛り沢山だ。

菜の花のおひたし摘みも、田舎ものの妻が得意だ。
妻が都会の人と結婚したつもりが、まさか、おとぎの国の田舎者の私と結婚したと嘆く。
昔は良かった、昔はよかった。とご年配の口から耳にする。だったら、昔に戻ればと思うのだが進歩は許してくれない。進歩が常に影のようについてくる。

  今日の夜空を見たら、お月様が満月のように丸く見えた。

ところが、月の裏側の顔を見たことがないと言う。ということは私が生まれて71年間、見た月の顔は表側の顔で裏側を顔を見たことがない。
月は1回転するあいだに、地球に対して常に同じ面を向けて自転していることになる。
つまり、地球が一回転したら、月も一回転することになる。
隕石(いんせき)も地球から見える月の表側には、地球に守られているために隕石があまり衝突していないのに対し、守られていない裏側には、隕石が落ち無数のクレーターが残されている。それで裏側を見ようと月探査を始めたのだろう。

   お月様の顔が日本では「ウサギが餅をついている」、インドでは「ワニ」、中東では「ライオン」、ヨーロッパでは「カニ」、アメリカでは「女性の横顔」など、国によって見方が違う。

マザーテレサが その日も食べることができない親子にために持ち合わせの少しのお米を差し上げた。母親は、外に向かい、そのお米の半分を苦しんでいる別の親子に持って行った。
マザーテレサはその母親に聖母を見たようだ。

私は飼っていた愛犬が亡くなる一周間前にはお世話になった方々にあいさつ回りをし、何時間前には亡くなることを目で私に知らせた。

信じられないがお宅の子(愛犬)が来ていたと近所の方に教わった。人間でもない犬に慈悲を教わった。

古新聞の破って、松の木の枯葉の上に木を添えるとマッチに火をつけ、古新聞から火が木に燃え移り熱い炎にあたっているうちに白い泡を膨らましておいしいごはんができる。

 今は、出来上がる時間をセットしておけばすべて自動でごはんが出来上がり、忙しい昨今、別のことができる。

昔は良かった。と言ってもごはんが出来るまで火から離れられない。

   東京、大阪間、便利になり日帰りで仕事もでき便利になったが早くなった分、忙しくなった。
現在人は時間を有効に使って寸暇(スンカ)を生きている。頑張れ、頑張れと歌にもあるように頑張るしかないようだ。
   
「姥捨て山」(おばすてやま)の長野県の民話を思い出した。

私の田舎(和歌山)にも「ハイゼン婆婆―」という山があった。
昔は食べる物もなく、口減らしのために、こんなことがあったのだろう。こんな話、頭の片隅に置いていただければ幸いです。
こんな話らしい。
 「昔、年よりの大きらいな殿様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てると」というおふれを出しました。
殿様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。


男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。
年寄りは捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。
子を思う親のやさしい心にふれた男は、殿様の命令にそむく覚悟を決め、母親を家につれて帰りました。

アメリカの脱脂粉乳で育った私は牛乳は貴重だ。ビンの紙のふたを4分の一にちぎってちびちび飲んでいた。

酪農業者が牛乳が余って、大量に処分していた。政府はミルクの処分どころか、乳牛を一頭につき、補助金を出して殺処分するという。
食品ロスも多く日本もほとんど輸入に頼っている。賞味期限も衛生の問題もあるだろうが、生産者には欠かせない。

未来は人間様も殺処分されるんじゃないかと警戒している。
 
 子らと見た。河口湖から初めて見た富士の山はよかった。
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