相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

River(ミシシッピー)       (連載ー523号)

2023年12月28日 | 経験・体験
幼い頃、田舎の川底に潜れば、流れは岩にぶつかり渦を巻く。渦が巻いていると川面に上がろうと、あたふた、もがく。こんな時は、渦に逆らわずいったん川底に潜って、渦から逃れれば、浮くように川面に出られる。「運命の別れ」川は、静かな流れで厄介だ。
 ミシシッピー川とは、山奥育ちの私とは出会う機会がなかったのが、カントリー・ミュージックとの出会いで太平洋を渡った。幼い頃、画用紙に描いたヨットに乗って、よその国に渡った。
 テネシー州ナッシュビルに着いた。まさか、広い遠い海を渡ってアメリカに来ようとは、思わなかった。

  「シェナンドー」とアメリカの民謡がある。約、200年前の1848年、カリフォルニア州で起きたゴールドラッシュの時に、ある男が一攫千金を狙って川で懸命に金を探すのに夢中でシェナンドーという名の娘をミズリー川で亡くした。
 その一節の歌の詩があった。「おお、シェナンドアよ、あなたに会いたい、アウェイ、流れゆく川よ。
おお、シェナンドアよ、あなたに会いたい。」
 ミズリー川は、セントルイスで、ミシシッピー川に交わっている。
 ミシシッピー川はせせらぎが合流して谷となり、時には、かたちを変え滝にも変ぼうし、低地を探しながら、仲間と合流して成長する。

  アメリカ大陸の川と私の田舎の川とは、性格が違うようで、地図上では、毛細血管のようだが、個々の川が大きい。大陸の湖は、海のようにひろい、しかも5湖もある。北部に5大湖がある。日本の農地に見られる溜池のようだ。
飛行機の窓越しから見るミシシッピー川は蛇のようにクネクネ曲がっていた。
 ながーい貨物船が行きかっていた。
ニューオーリンズでは大型豪華客船も通っていた。ニューオーリンズで聞いたことがあったが川の水深は60メートルだそうだ。
 ミシシッピー川は、インディアン語で「偉大な川」という意味だそうだ。
ちなみに、ミズリー川は「泥の川」という。

  泥には土の栄養分が含んでいるのだろう。内陸は肥沃な土壌、また人々は、川の水を利用した灌漑農業を発展させた。
 アメリカの地名も先住民の名称が多いようだ。日本の北海道もアイヌの名称が多く使われ残っている。
 ミシシッピー川は、アメリカを東西に分け、北から南に、アメリカ大陸の中心を流れ、メキシコ湾にそそいでいる。
 
 ラジオを聞いていたら、カントリーミュージックの90歳になられる、ウイリーネルソンが歌われていた。昔、ヒットしたOn The Rord Again(また旅で)をブルーグラス調のアップテンポで再レコーディングをした。この曲自体速いがフラットマンドリンが入っていて旅先でまた、違った喜びを歌っていた。

  カントリーは、本場、テネシー州ナッシュビルが有名だ。バットマンビルも町にはそびえ建っていた。
カントリーミュージックは、白人の南部の歌だ。南北戦争でテネシーは北部と南部の境だ。日本では江利チエミさんが歌われたテネシーワルツがおなじみだ。
ここにも、テネシー川が、ミシシッピーにそそいでいる。
 テネシー州の上には、ケンタッキー州があり、日本でも有名な作曲家であり、多くの名曲を残している、フォスターの生家があり「ケンタッキーの我が家」にも訪ねた。
 ケンタッキーと言えば、競馬のダービー馬で有名だ。あたり一面、緑にかこまれ、ブルーグラスだ。ブルーグラスは馬の肥料の名前と聞くが、ブルーグラスの音楽を生んだ。

  ケンタッキーバーボンの工場もあり、昔の禁酒法の名残だろうか、酒を飲んでいい群と禁止されている群がある。 突然、日本からのお客様が怒りだした。
あるレストランでステーキを召し上がる前にビールで乾杯という時に、禁酒地区で場がシラケた。
 道を挟んで、向かい側の町は、酒が飲めた。しかも、閉店時間は、まだ明るい。日本では考えられない体験をした。
 馬の博物館に入ったが、馬がこんなに、可愛いと、人間に従順だとは思わなかった。
ここにも、オハイオ川が、ミシシッピーに、そそいでいる。

 別の日に、ミズーリ州のブランソンの町に、アンディウイリアムスの「ムーンシアター」に入った。彼が78歳の頃だと思うが、日本ファンで入り口が日本庭園でシアターの内部は着物でデイスプレイされていた。彼の楽屋にも招待され「ムーン・リバー」も一緒に歌ってくれた。
ミズーリ、イリノイもセントルイスでミシシッピーに合流していた。
 ミシシッピーRiverを下り、メンフィスの町がある。
「コットンフィールド」と歌にもあるようにここは、綿の大農場地帯でアフリカの黒人が奴隷としてはたらかせられた。ブルースが生んだ街だ。
 B,Bキングは1950年代から晩年まで活躍したブルース界の巨人。

  エルビス・プレスリーはメンフィスのサンスタジオで最初に録音し、初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人音楽のブルースと白人のカントリーミュージックを融合した音楽と言われ、カントリーの世界からもブルースの世界からも深刻な人種差別の問題を抱えいた。
1977年にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没した。(42歳だ。)自宅、グレイスランドには花が絶えない。
 プレスリー「キング・オブ・ロックンロール」と称される。

メンフィスから下ればルイジアナ州、ニューオーリンズにつく。

 スペイン風の歴史ある街並み路面電車が行きかい。ルイ・アームストロングのトランペットが聞こえるフレンチクウォーターを横切って、バーボンストリートでは、毎夜、ミュージシャンたちのパフォーマンスが聞ける。懐かしいジャズを聞きたい方はプリザベイションホールに入って聞けばいい。裸電球で馬小屋風で私は黒人にキャラメルをいただいて聞いた。
 近所では、ダニガ二、カキも上手かった。
 さて、ミシシッピーを下って来て、メキシコ湾にたどり着いたが、メキシコ湾油田も宇宙のヒューストン基地も、ちょっと足をのばせば「アラモの砦」もある。
 まだまだ、ミシシッピーの北部のミネアポリスは未知の世界だ。

川は、七変化。アメリカ文化に大きな影響を与えているし作家、マーク・トウェインの「トム・ソーヤの冒険」
は、まさに、ミシシッピーやミズーリ―を舞台に描かれている。
私の田舎の川とはスケールは違うが川を潜水艦で旅すれば、また、別の素顔が見せてくれるかも。
 南部のアメリカから、ニューヨークに着いたが、急に逆流性胃炎になり、大都会では、人が飛んでいた。
 やっぱり田舎がいいや!

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リンカーン        (連載―522号)

2023年12月14日 | 経験・体験
アフリカ大陸から大西洋の向こうはアメリカだ。コロンブスがアメリカを発見した。本人はインドだと思って死んだ。

 私も、世界地図を見ているとアメリカは広いインド洋と太平洋を越して
やっとアメリカに着いた。
 なんだ、欧州からすると、アメリカは、すぐ、お近くだ。
世界地図の見方で遠くにも、近くにも見えたりもする。

船底に家畜以下に、足は鎖でつながれ、汚物は垂れ流し、異臭が、死ねば海に捨てられ、着いても南部の広い農場で奴隷として使われ夜も鎖に繋がれやっと雨をしのげる家畜小屋に押し込まれた。

 私も、南部のニューオリンズで黒人が住んでいた小屋を見たが酷いものだ。
 北部は、比較的裕福で鮭を取って暮らしていた。南部は、広い農場で綿畑のコットンを欧州に売って生活していた。そのためにアフリカの黒人奴隷が必須だ。

 リンカーンは北部のケンタッキー州に200年以上前の1809年に生まれた。未来のアメリカ大統領の家は、貧しく、丸太小屋の小さな家でした。

 私も20年ほど前にケンタッキーにいくことができましたが、すごい田舎の記憶だった。

   日本からも競走馬を買い付けに来るらしいが、いちめんブルーグラスだ。ケンタッキーウイスキーが有名で、昔は、密造酒で儲けたようだ。
あのころ、16群の町で酒の飲めるとこもあり、道を挟んで隣町が飲めないところもあった。

 ここだけの話だが。ペリーさんの当時、為替差で日本から多額のお金をアメリカに持ち込んだ噂を聞いた。
南北戦争で余った武器とか軍服は、日本の西南戦争でつかわれたようだ。噂話と聞き流して下さい。

 ニューオリンズのルイ・アームストロング公園では、黒人が、アフリカのリズムを忘れないように定期的に集まるという。

 ニューオリンズは、よく床上浸水でお墓に水が入るのでお墓は高くして水が入らないように小さな家のようになっている。
お葬式は、明るく聖者の行進で送っている。

リンカーンは黒人奴隷解放を宣言して、黒人に自由に生きる光を与えました。南部とは、正反対だ。
 南北戦争で北軍が勝ち、南北分裂の危機を救った偉大な大統領とアメリカ国民の心の中に生き続けている。
しかし、奴隷解放に反対する南部の男にピストルで撃たれ、56歳の生涯をとじました。

 テネシー州メンフィスに出かけた。偶然、キング牧師の暗殺現場に出くわした。髭をはやし怖そうなお写真だったが、非暴力で人種差別を訴えていたキング牧師の暗殺現場らしいモーテルに行った。
私にはわからない。アメリカには根深い差別があるんだろう。
リンカーンしてもキング牧師にしても命がけだ。

リンカーンの言葉だそうだ。

❶「人民の、人民による、人民の ための政治」
❷「人間は、誰でも平等でなけばならない」
❸「人の自由を認めない人は、自分の自由を楽しむ資格はない」

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スチーブンソン (連載―520号)

2023年12月12日 | 経験・体験
木のレールで、その上を木の車輪をつけた箱をのせ、それを人や馬で引いた。そのうち、鉄のレール、鉄の車輪に変わった。

 子供の頃、川が氾濫するので、堤防を補強するため、土や石を運ぶのにトロッコが使われたので河原にトロッコが錆びて置かれていた。
 レールの上をトロッコを押す感触は、重厚で重い荷物でも軽々と運べた。

 蒸気といえば、鍋の重い蓋(ふた)を沸騰したお湯が蒸気になって、軽々もちあげていた。


  50年以上前だろうか、東京に来るときに、大坂の梅田駅の停車場で白い蒸気をはいて夜空に汽笛が鳴り響いた。
汽笛も笛と同じく人間の口で吹くのとおなじように蒸気で汽笛を吹いているんだろうと思いつつ聞いていた。汽笛は都会の音のようで悲しかった。

その頃は、新幹線は開通していたが蒸気機関車で12時間もかかって東京に来た。

シュシュポッポと蒸気機関車が石炭を燃やして、トンネルの中も上り坂でも頑張って走っていた。
機関車の床に新聞紙を敷いて、力強い蒸気の音を聞きながら寝ていた。

 昔は、木のレール、木の車輪と書いてあったが、木づくりだと汽車の重さにたえられないだろう。

 日本では、明治になって新橋・横浜間に鉄道を敷かれた。鉄道唱歌も聞いた。文明開化の音がする。

  ホームでは、駅弁とお茶が楽しみだった。べんと~弁当売りのおじさんの声が・・

 ところで、彼の父は、炭鉱の坑内に湧き出た水を外にくみ出す蒸気機関のかまたきでしたのでジョージ・スチーブンソンはイングランドの土木技術者、機械技術者。蒸気機関車を使った公共鉄道の実用化に成功した。

  「鉄道の父」と呼ばれており、彼が採用した1,435 mmという軌間は「スチーブンソンゲージ」とも呼ばれ、世界中の標準軌となっている。

蒸気機関車は、人のぬくもりを感じる。車窓から、貝塚(大森貝塚)も発見できるかも。
塚はお墓のことだろうと思っていた。貝は生き物で縄文人が海の貝を食べていたにちがいない。大森は海だったのか。そんなことも考えさせられる。
蒸気機関車は、当時にしたら、時速40キロだったらしいが、はやかったようだ。
現在の新幹線とは比べようもないが、リニアにかわると、また速くなる。

 蒸気船も走っていたのだろうな。スチーブンソンとは蒸気のお名前だ、スチームとな。

歌にもあった。リバプールとマンチェスターの間に、ロケット号走らせた。今や、世界に網の目のように鉄道が走っている。

父親の影響でスチーブンソンは、蒸気機関車と、67年の生涯を閉じた。
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百年前のライト兄弟 (連載―519号)

2023年12月09日 | 経験・体験
私は田舎育ちだったので、広い田んぼで凧(タコ)を上げていた。そよ風だと、風に乗って空高く、凧が小さく見えなくなるまで飛んだ。強風だと凧がぐるぐる回転して、頭から強いよく地面に墜落した。

 凧糸を引いたり緩めたりして風のご機嫌をうかがった。鳥は優雅に羽を伸ばしてとんでいる。風の強い時はバタバタ羽でバランスをとっているようだ。

  時には、上昇気流に乗って空高く昇り、上に上がれば下降気流で下に下りてくる。
田んぼで凧を上げていると陽だしがぽかぽかしていると凧も高くあがる。空気が温まると上昇気流がうまれ、凧が高く上がれば、空気が冷やされ下降気流が発生する。凧の上げていると大気は生き物だ。

 町の自転車屋の兄弟は、来る日も来る日も空を飛ぶことを考えていた。
周りから見ると、変わり者の兄弟に見えたのだろう。

  今から、100年以上前の1903年12月17日、アメリカのノースカロライナ州キティーホークという町でライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した。

 当初、アメリカでは、信用されず、ヨーロッパで取り上げられ。すごい飛行機の発明と地元でも有名になった。

 こんな時に、私も、おらも、わしも同じことを考えていたと主張する者もでてくる。実際そうかもしれない。
しかし最初に特許を取得をした人がすべての権利がある。

  誰かが同じことを真似たとしても権利者に特許使用料を払わなければならない。
 ライト兄弟も裁判でこの特許のことで随分時間をとられたようだ。

私も音楽関係で40年も仕事してきたが著作権料を払ってきた。著作権は曲を作った人にその曲の使用料をお支払いするものである。

ライト兄弟が世界初、飛行機を発明したと歴史に残っている。残らないと単なる、変わり者の兄弟と言われたのに違いない。
 
  成功とは「守るもの」ではなく、 次の成功のために「使うもの」なのです。
 と素晴らしい言葉がありますが、寝る間も惜しんで飛行機のことを考えていると成功の意義は他人ごとのようだ。もし、ライト兄弟が失敗していたらどちらかが亡くなっていたかもしれない。
お気持ちは理解できるが私は、なんも発明はしていない。

 アインシュタインがドイツから、アメリカに亡命して、原爆を作り、広島、長崎に落した。そんなつもりはないようだが。
 
飛行機も爆弾を積んで遠くの上空で爆弾を落し、尊い人命を亡くした。

 ライト兄弟の発明した飛行機は、木のわくに布をはりつけただけの2枚の羽根にプロペラとエンジンをつけた飛行機の原理は、現在のジャンボ旅客機とかわっていない。
 ライト兄弟は飛行機の生みの親です。

 それまで、空気を温め気球で、グライダーで、鳥をまねして手に羽根をつけ羽ばたいた。そうした、一つ一つの命をかけた試みが飛行機の出現を促した。

  振り返ればもう3年もすぎるだろうか、ワクチンをいち早く世界中の運んでくれるのも飛行機であったし、人々のライト兄弟のチームワークの努力の賜物だ。

 最後に、誰かが言っていたが、歴史は試験のために「いつ、誰が、何を」を覚えることだけで役目が済んだ。

 歴史の裏に隠されている人のつながりの何かを知ることだし時の流れを読み取ることが歴史の役目だ。
 歴史は年号を覚える役目は終わった。
変化、変化、変化・・・はやい

  100年前のライト兄弟の発明がジャンボ旅客機、マッハの光の速さとアインシュタインとつながっていた。

 私の若い頃はものごとも深く知らなかった。ただ冒険心だけで生きて来た。古い事を知ることは、新しい事を知ることと最近わかった。
 
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ナイチンゲール (連載ー516号)

2023年12月02日 | 経験・体験
イギリスの恵まれたお城に住み、そこのお嬢様がナイチンゲールのようだ。200年ほどの前の1920年に生まれた。
ナイチンゲールはイギリスの看護師であり、世界初の看護学校の設立に貢献した。
ところが、働き続けた寒い冬がすぎるころ、とうとう病気で倒れてしまいました。

ただ、学校の勉強は、責任感の強い看護婦を育てるために、大変きびしいものだったそうでした。

  「看護婦という仕事に、誇りを持てるようにならなければなりません」
この教えを守った生徒たちは、学校を卒業し一人残らず優秀な看護婦になり、看護婦という仕事の大切さと立派さを、世界じゅうの人々に認めさせました。

陸軍病院も徐々に改革され、傷病兵も人間らしい治療や療養が受けられるようになった。

1853年から1856年の間に行われた「クリミア戦争」でナイチンゲールと看護婦団の働きにより死亡者数が大幅に減らされたと言われています。

  クリミア戦争での献身的な英国軍の兵士たちへの看護で、「恵みの天使」として、後の赤十字の創立にも影響を与えた。

 多くの人が自分の為にだけ生きようとするのに必死なのに、人のために手をさしのべる尊さを教えられた。

 お城のお嬢様で居られたのに、あたたかい家庭も、結婚さえもすてて病人の看護に生涯をささげたナイチンゲールは、1910年90歳で亡くなられた。

      
クリミア戦争
 1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である[1]。
フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍と、ロシアとが戦い。
その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
 オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。 

 戦争の原因は、東方への勢力拡大をねらう列強、すなわちロシア、イギリス、フランスの三国の利害が対立したことにある。19世紀前半のウィーン体制的列強バランスが崩壊したことを意味している。

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