相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

敵は本能寺にあり     【連載―485】

2023年07月24日 | 経験・体験
57年前、花の東京に出てきた。名前を書ければ入れた学校を卒業して東京に来た。
史上最低の学力と自負しながら来たが、案の定、現状に間違いはなかった。
 日本人も遠い昔に倭寇(わこう)倭人(わじん)と言われていた海賊だった。ヨーロッパでは同じ意味のバンキングと呼ばれていた。
 
健康が一番、性格が一番。
武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉。織田信長が暗殺され、後3人は病魔に倒れた。

  越後の上杉謙信はお名前からしてお坊さんだという話を誰かから昔に聞いた。  

村上義清が、信玄に追われて、本領を失い上杉謙信に救いを求めたこと。また、奥信濃の高梨・井上氏らが不安を感じ、上杉謙信に助けを求めたことにより、
武田信玄と上杉謙信とは5回も川中島で戦った。

武田信玄も川中島地方の豊かな穀倉地帯を押さえることが目的だったらしい。

 そんな敵に塩を送ったというから上杉謙信は人格者だろう。
武田信玄の甲斐国は四方山に囲まれた海なし県だと貴重な塩が取れない。

南の今川と北条は甲斐に塩の輸出するのを禁止した。
それを知った上杉謙信は武田信玄に塩を送った。「敵に塩をおくる」という言葉も生れた。

武田信玄もわしに何かあったら上杉謙信に相談するようにと遺言に書いていたようだ。やはり上杉謙信はお坊さんかな。

 昨年、はじめて子供と孫と山梨県にいった。孫には、ここはどこーだ?山が一杯あるのに山梨県(甲斐の国)と覚えてもらった。

武田神社にもお参り出来た。途中、武田神社に向かう武田道りの両側には武田公園、武田不動産、と武田の看板が目立った。山梨大学もあったが、マラソンの山梨学院とは違うようだ。

 武田信玄はどうして信濃に上ったのか想像するだけでも興味がわいた。

  信玄は、戦いに強い相手とは戦わないと聞いていたので、南の北条や今川があったので信濃の北に上ったと思った。

武田信玄も天下人になるつもりだったのだろう。風林火山といえば武田信玄だ。これは中国古代孫子の兵法だという。
「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山の如し」

 打倒織田信長を掲げた将軍・足利義昭に会う為に京へ向かうのですが、病気が悪化して歩くのも困難な状況になってしまった為にやむなく甲斐へ戻ることに…。

信玄が帰国途中、信濃の地で危篤に陥り、運ばれた先の長岳寺(ちょうがくじ)という寺で息を引き取った。

4男の勝頼が跡目を継いだが、長男は信玄に切腹させられ。次男は身体が不自由で出家だ。3男は若くして死去。いろいろある。領地は織田信長、北条氏直、徳川家康らに攻められ。

跡継ぎの勝頼は信長によつて妻子も自害させられた。
大将の存在は大きい武田家は織田信長にやって滅亡した。

 上杉謙信はトイレで脳溢血で亡くなられたと聞いたが、さすがトイレを自室にかえた。本当のことは知らないが。
伊達政宗も食事の後は決まって厠(かわや・トイレ)に入り一日のスケジュールを整理していたそうだ。私も同感だ。

 織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を打ち取り独自の織田政権を確立して天下人となった。

 年少の頃から尾張の国(愛知県)の大うつけ(大ばか)と呼ばれ破天荒な物の見方をする人だと感じていた。

  その一つに、ただ今川義元の首だけを狙うのに多数だと目立つので少数で攻めて首を取った。

その二つに、朝、鳥が巣から飛び立つときに巣の在りかを他の鳥に悟られないように遠回りして飛び立つ、夕方になって巣に戻る時は一刻も速く小鳥たちに餌を食べさせようと巣に直接戻る。その習性を知ってか信長はいとも簡単に鳥を捕えた。

信長は明智光秀に暗殺された。まさかこんな筈じゃなかった。
人は一人で生きていけないが、一人で生きていかなければならないことが、年少からあったのだろうか。今更遅い!

秀吉は信長に山猿と呼ばれていたころ、冬場にふところに信長の草履を入れて温めていた。大将の気を惹いた。いつの世も目にかけられることからはじまる。
俺には関係ないことと感じていたら、気づけば、いつまでも関係ないことになっている。

猿の木下藤吉郎こと天下人の豊臣秀吉の朝鮮出兵は単に思い付きで秀吉がアルバイトのつもりで朝鮮出兵したと思っていた。
豊臣秀吉朝鮮出兵は壮大計画だったようだ。朝鮮を足掛かりに中国、インドと侵略して、天皇は北京に据え、ひいては世界制覇を企てていた。

 戦いは、ロシア、ウクライナ戦争でもわかるように敵の補給路をいかに寸断するかだ。ロボットでもない何万人の腹を空かせた兵士の水・食糧・弾薬を補給には何千の車両も必要だ。

最近では地政学を耳にするが、日本はシーパワーで船で移動するのに慣れている。

豊臣秀吉はランドパワーになれていなかったのか急進で補給に苦しんだ。

ある大国は、ランドパワーもシーパワーも実現しょうと試みている。

 かつて、モンゴル(ランドパワー)が2回の大軍が日本に侵攻してきたがシーパワーの日本がその立地を活かしてモンゴル軍を追い払った。

秀吉日本軍が島国のランドパワーではなく、大陸のランドパワーに慣れていたらもしかして・・仕方ない、秀吉の病気が原因でやむなく撤退した。

1592年中国の明の制服を企て朝鮮に出兵した。(文禄の役)
1597年、明も日本もお互い勝った思ったのか、和平交渉が決裂して再び朝鮮に出兵した。(慶長の役)

1598年豊臣秀吉の死亡で朝鮮出兵の幕が降りた。
秀吉が死んだことを味方の兵には伏せていたが倭寇は引き上げるのを敵は察知して秀吉の死を知った。

引き上げてきた豊臣軍と日本全国から集まった20万の軍勢が美濃の国(岐阜県)の関ヶ原で天下分け目の戦いを東西にわかれて戦うことになった。
東は徳川家康が大将で、西は石田三成が激突した決戦でわずか半日で決着がつき東軍が勝った。

戦国の世が100年も続き、270年もつづく泰平の世の江戸時代への幕開けの戦いでもあった。
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夏は来ぬ (連載―483)

2023年07月06日 | 経験・体験
1896年の日清戦争後の私はまだ生まれていない時、あるところに、作詞の佐佐木信綱、と作曲の小山作之助の二人がいた。まるで、武将と小作人のコンビがこの唱歌を作ったり。
「夏が来ぬ」というから、夏が来ないと思った。言葉は古いが田舎の風景を思い起こす。71歳になる爺さんが小さな庭先に座って、唯一知っているユリの花が咲いていた。ユリの花の香は65年前と同じだ。

 「夏が来ぬ」現代訳があったので掲載させていただきます。
1、“初夏に白い花を咲かせる
ウツギの花の香りが漂う垣根に 
ホトトギスが早くも来て今年の初鳴き(忍び音)の声が聴こえている。 
あぁ夏が来たんだなぁ”
2、梅雨の雨が降りしきる山の田んぼで、若い女性が衣類の裾を濡らしながら稲の苗代を田に移し植えている。
あぁ夏が来たんだなぁ
3、ミカン科の“橘”の花の香りがする軒下の窓の近くで蛍が飛んでいるのを見ると夜の勉学を怠けそうになる気持ちが引き締まる。あぁ夏が来たんだなぁ
  
4、栴檀(せんだん)とも呼ばれる“楝(おうち)”の庭木の薄紫の花が散る6月川辺に佇む家の遠くで水鶏(クイナ)の戸を叩くような鳴き声が聴こえ夕暮れに浮かぶ月に心地よい涼しさを感じる 
あぁ夏が来たんだなぁ
5、梅雨時のとりわけ暗い夜の闇 
(以降は、1番から4番までに登場した“蛍”“水鶏(クイナ)”
“卯の花”“早苗(玉苗)”など、
この季節の季語が並ぶ、そして…) 
あぁ夏が来たんだなぁ。
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