相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

近くの隣国

2021年10月16日 | 経験・体験

ちかい隣国

タピオカ,夜一、といえば隣国のようだ。

日本でいう江戸時代の初頭のころまでは複数の原住民が住んでいたらしいが大航海時代のころオランダの東インド会社がやってきて40年間も隣国を勢力下において支配した。

 それから、日本生まれで母親が日本人のある人物がオランダを追い払った。

 まもなく隣国は隣国の大国に支配された。固有名詞がいえないので辛いところだがあるがテレビでもはやっているクイズみたいなものだ。

 日本は隣国の大国に勝利し隣国は日本の統治となった。日本の同化政策、名前も日本名。日本語で学校教育に力をそそいだ。鉄道を作り、広い道路もダムも作りお米も隣国にあった品種改良もし、さまざまなインフラを整備した。結局はこの同化政策は隣国を豊かにした。

 東日本大震災ではいち早く多額の援助の手を差し伸べてくれた。コロナのワクチンを日本はいち早く隣国に届けた。

 なんで日本が不足しているのに届けなければならないんだ。とお叱りもあろうが、私はよく届けていただいたと感謝している。

 人は圧力や脅しで一時は言うことを聞くが長続きしない。何かを見つけるのが人の上に立つ人の優しさかもしれない。

国も大きくなればまとめるのも大変だ。脅しも圧力も必須のようだが所詮人と人のようだ。私のようなものに突然、世の中が見えることもある。何だこんなことかってね。わたしにも!

知っていないと優しさも感動も少ないのかもな。と言っていました。

 

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目黒川でサンマが釣れた?

2021年10月16日 | 経験・体験

目黒川でサンマが釣れた?

私のうまれた西暦を選択すると随分さかのぼらないとでてこない。「もう生きた化石だね」と感じた。

古いと言われても仕方ない。1951年、私の生まれた当時の平均寿命は60、8歳だ。今年でいつの間にか70歳になった。そうすると、もうとっくに死んでいる歳だ。

50年程前に西の国の山奥から出てきて、東京で出世して田舎に錦を、と思って都会に来た。新宿は毎日お祭りで人が多かった。何を勘違いしたのか人の流れについていくとお祭りではなかった。

三味線と太鼓に仏前の鐘を器用にならした動く広告塔、チンドンと時代劇の恰好で町を練り歩くチンドン屋サン。聞きほれて後をついて行き迷子になった子供のころ。

ディズニーランドに行き、洗濯板をかかえて軽快なリズムでトロンボーンやラッパで楽しい演奏をきいた。ディズニーランドでタヌキのように働いてみたかった。

 いい車に乗って、高価な時計をして別荘を持ち、豪邸に住んで俺は出世して金持だど~ト思わない。から出世しなかったのだろう。

田舎には錦を飾れなかったが人が気軽に、なついてきた。

 美味しくナーいラーメン屋さんも知っている。

5番街のマリーも知っている。銀座のあるクラブで1本60万もするナポレオンのブランデーを若い会社員にご馳走になった時代も知っている。

目黒川のそばで老夫婦がやっていたとんかつ屋さん、キャベツにからしとソースを少々、からませ食べたトンカツとキャベツが懐かしい。キャベツはおかわり自由だった。

「目黒のサンマ」は有名だが目黒に海もないのにおかしい。あの目黒川でサンマが釣れるのか、まじまじと川面(こわも)を見に行った。そしたら、サンマがこっそり話してくれた。

昔むかし、ある殿さまが目黒に狩りに来たらしい、家来(けらい)が殿さまの弁当を忘れた。サンマの焼く煙が殿さまに気づかれ、これはなんじゃと聞かれたが、家来がこれは下々(しもじも)の食べ物で決してお殿様が口にするものではありません。と断ったが、次回に来た時、例の物をしょもうしたいと言われるもので家来は急ぎ江戸の魚河岸からサンマをとりよせた。

殿様はさすが目黒のサンマは美味じゃ。てなことで目黒のサンマが有名になったとさ。

 サンマは一匹100円の庶民の魚。サンマの漁獲量が少なくなり目黒のサンマ祭りも一時、危うくなり気仙沼からの援助でつないだ。

最近はスーパーで見ると300円400円は当たり前高級魚になってしまった。しかもダイエットだ。

 中目黒に長年住んでいたので目黒川の氾濫をよく目撃している。中目黒駅近くのマンションの1階まで水があふれてきた。

川底を深く掘って整備し、今は海外の方々もいらしているとか目黒のサンマも有名だが桜祭りも綺麗だ。夜はライトアップされ目黒川のほとりを散策するもおつだね。

よけいな話だが窓を開ければ中目黒駅のホームがほんの近くに見えた。会社に遅れる心配はご無用だったがインベーダーゲームで金を使い果たした。

中目黒も随分変わった。目黒川にでもサンマを釣りに行くかな。

 

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[あっち」と「こっち」

2021年10月14日 | 経験・体験

あっち・こっち

 イヤな話なんだけど、それじゃ止めればいいじゃん。でも早起きしたことだし続けるね。

私は1951年うまれで、兎(うさぎ)、B型、サソリだ。甘えん坊で考えがあっち・こっち定まらないで、どうしようもないらしい。

幼いころから葬式が好きでよく見に行った。当時、村では土葬であった。人が亡くなられると、さっそく村人が何人かで墓穴(はかあな)をスコップをもって堀に行く。掘っていると昔の人骨がでてくる。人骨の一部を仲間のボケットに忍(しの)ばせると相手は長生きするとそんな迷信(めいしん)を聞いていた。

葬式って静寂で、漆(うるし)でできたお坊さんの奇妙なイス、ドラムのシンバルが微かに触れ合う音がお経とまじりあってまるでコンサートでも聞いている気分だ。長い参列者の役割もありお葬式らしい。

江戸川の土手を愛犬と散歩していると遠くに長い列をつくって歩いていた。昔を思い出して葬式だと思った。手を合わせて頭(こおべ)を下げた。列が真近になって、お葬式ですかと尋ねたら、

歩く会のメンバーです。あなたもご一緒に歩きませんかと誘われた。ああ勘違い!

 最近は、家族葬でこじんまりして故人を偲ばれていい感じだ。

死んだぞ!って宣言してお葬式の後は火葬となる。

焼き具合は如何いたしましょう? 「ウエルダム」でよく焼いてください。とたずねられたことはないが土葬よりも気持ちが吹っ切れる。

昔の葬式は、故人の一生を振り返る時間を与えられ死を知った。どっちがいいんだろう。

ステージアナウンサーが言われていた。観客はお金を払って見に来ていらしている。つまり、「あっち」だね。

ステージ側はギャラをもらって演じている「こっち」だね。

当然、アナウンサーもこっち側だ。

なんでギャラをもらっている「こっち」側のビッグスターに敬語で紹介しなければならないのか、「あっち」「こっち」の境目は念頭におかなければならない。

聞いてくれる!皆さん、どう思います?

私は、敬語もギャラのうちだ。尊敬を込めてご紹介したい。

若いうちは死という字は知っていたが人間って本当に死ぬんだね。

「あっち」に行った人が「こっち」に帰って来たとは今だ聞いたことがない。

ある人が「あっち」にいったら糸をゆらすから何日の何時何分何秒に糸がゆれたら「あっち」と「こっち」がつながったことになる。その理屈はわかるが人の寿命は予定道理にはいかない。地震予知と同じだ。火葬場も混雑して4,5日待たされるようだ。

誰か試みたらしいが糸が台風の影響で切れたようだと聞いた。

私もおばあちゃんが唱えていた般若心経のお経を覚えているから仏教のようで仏様神様の区別はなく、事あるごとに手を合わしていた。

 14年前に川を渡っていたら中洲まで歩いて行けたが中州から川底を覗(のぞ)いたら深かったので戻ってきた。あれが三途の河らしかった。病院の隣のベットのおじさんから教わった。

「あっち」と「こっち」あなたはどっち?

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捨てる神あれば拾う神あり

2021年10月07日 | 経験・体験

 村の高校に辛うじて拾ってもらった。校長と簿記、珠算の先生と国語の先生との、なみなみならぬ先生方の教えでニワカ天才少年は学問のすすめに突き進んだ。

   捨てる神あれば拾う神ありで花の東京に行くことになった。山奥の村から1時間はかかった道成寺駅、村の関所のお代官様にご挨拶を終え、案珍清姫の道成寺とも暫しのわかれ、親父とおふくろに見送られ、とりあえず大阪の梅田駅を目指した。

   ボーと汽笛が都会の夜空に響き渡った。なぜだが悲しそうだ。

汽車の床に新聞紙を敷いて長旅の準備をした。コールタールの臭いと足の臭いがまじった、都会のいい匂いだ。

 蒸気機関車はトンネルに入ると窓を閉め石炭の煙を遮断した。夜露が窓を汗ばんだ。古賀政男さんの歌でも聞こえそうだ。

 弁当、お茶―。首紐をしたおじさんがホームであわただしく売っていた。汽車の窓を両手で開き、おじさん一つ。ここは静岡という。

海岸と海が宇宙のように見えた。横浜、新橋、ポ・ポ・ポ・ポーンと車掌の声を聞いたらまもなく憧れの東京だ。横浜新橋も憧れの街、随分遠くまで来たもんだ。

  とうーきょう、においがほんのり甘かった。まず第一に兄の下宿先に向かった。木目の綺麗な二階につながる階段を兄と登った。

 お腹も空いたことだろうから兄は町の食堂につれていってくれた。焼きそばを注文した。西の国の人はライスが主食で焼きそばがおかずのセットだ。当然、ライスも注文した。美味しかった。あのソース味は東京の品のある焼きそばだった。

 兄は美少年で秀才だった。御茶ノ水駅に降り駿河台の坂道の雑踏に飲み込まれ明治大学がまぶしかった。中学の修学旅行の宿舎が近くに見えた。いつかアルバイトで宿舎に来ようとは思はなかった。

 ニワカ天才少年は、得意な簿記を引っ提げて東京に殴り込みだ。

日比谷公園内の日比谷図書館に行ってみた。二階の自習室にいったら、シーンと静まり足音も邪魔なようだ。絶対にみんな頭が良さそうだ。たまらなく地下の食堂に避難してかけうどんを注文してスープを飲んだら醤油味で辛かった。これが東の国のわたしへの仕打だった。

 二度と来ないと誓ったが、分厚い本を二、三冊ふろしきに包みテーブルの相手との境に置いて頭良さそうに見せたら、落ち着きを取り戻した。

 こんな腐った豆(まめ)食べられないよと店長に話したら笑われた。納豆との出会いだった。西の国ではその当時、納豆がなかった。失礼!

 女性が集まる、そんなにいい男でもないのにモテモテだ。ナンデダーと聞けば西の国の方言が面白いという。

 バイトもいろんなことやった。粗相ないようにとは布団に人が入ってくることだ。

 ウルトラマンの悪役でスーパーの駐車場に倒れていたら子供らに棒で殴られた。

ほんの一例だが西の国から来た私の東京だった。

 「捨てる神あれば拾う神あり」都会には、いろんな神をみせてくれる。

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