相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

姥捨て山とハイゼン婆 (連載―488)

2023年08月26日 | 経験・体験
昔むかしのお話し、あるところに貧しい村があった。食べる物も少ないのに、子供は宝と産むや増やせと家族が増え、「口減らし」のため、年老いて働けなくなった老人を山に遺棄していたという。

食糧難解消で食べる家族を減らそうと考えたのか殿様が非情なお触れをだした。
60歳になった老人は山に遺棄されたと言う民話だ。

 私の幼い頃、ある山の一か所にハイゼン婆と言われる場所があった。
よく、おばあちゃんとその場所を横目で過ぎた先の神様にお参りに行った。

あそこが、年老いた婆がはっているハイゼン婆と呼ばれる場所と聞いて怖かった。
今に、その場所を覚えている、
ハイゼン婆とね。

どの家でも殿様のお触れに逆らえず、息子は泣く泣く老親を背負って山に捨てようとする。


親は息子の帰りの道を迷わずに帰れるように枝をポキ・ポキと折って目印をつけた。

親はこれから遺棄されようとしているのに、帰りの心配までしていると気付いた息子は御殿様のお触れを無視して親を連れて帰った。
 とりあえず、親を家の床下にかくまった。

 しばらくして、殿様が隣の国からいくつかの難題を持ちかけられ、解けなければこの国を攻め滅ぼすと脅された。

  「難題は、灰で繩(なわ)を編んでみろ」
息子は考えられず、床下の老親はきく、簡単じゃよ、縄を塩水に浸して乾燥させ、その縄を燃やせばエエ。

 息子はそれらの難題を老親の知恵によって見事に解いてみせる。
 再び、隣の殿様から難題を持ちかけられた。「難題2、曲がりくねった竹筒に糸を通したいが」
 簡単じゃよ、竹の出口にハチミツを塗って蟻に糸をつけて入り口から入れれば蟻は臭いを嗅ぎつけて出口から出てくる。
 
息子はそれらの難題も老親の知恵によって見事に解いてみせた。
隣の国の殿様は驚いて、このような知恵者がいる国を攻めるのは危険だと考え、攻め込むのをあきらめる。

老人のすばらしい知恵のおかげで国を救われたことを知った殿様は、老人を役に立たないものと見なす間違った考えを改め、息子と老親にたくさんの褒美を与えた。
 殿様のお触れは、撤回され、その後は老人を大切にするようになった。
 
私も老人と呼ばれて、すっかり老人らしいが、子供たち、孫たち、若者たちの意見に耳を一層傾けることもできるようになった。
「あいよ、了解、どうも」暗号のようで、最初は面喰ったが、言葉に愛情がこもっていた。

知ることが、相手を理解する手がかりで、時間がなくても暗号が出ているかも、助けてくれと。


  姥捨て山は、武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島の近くにあった山と聞くが12年回で7回も戦えば村も比叡する。

姥捨て山も実話のような気がする。
「ハイゼン婆」も私の村の「姥捨て山」のようだ。昔、大昔の話でした。
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江戸時代がなかったら載(連載― (連載―487)

2023年08月21日 | 経験・体験
江戸時代の265年がなかったら、明治・大正時代がなかった。
 明治・大正時代がなかったら、昭和の戦争もなかったし、広島・長崎に原子爆弾も落とされることもなかった。
昭和の東京大空襲の時、10万人も犠牲になったことも知らなかった。へー!そうだったの。
 ついでに、昭和時代がなかったら、私の80パーセントは昔だ。残された20パーセントも昔のような気がする。

  昭和時代がなかったら、そんなバカな、私が存在しないことになる。
昭和時代がなかったら、平成も令和もないことになる。 
古(いにしえ)の人間と言われようが時代はつながっている。

徳川家康が湿地帯で荒れ果てた地に江戸の町を築き、徳川の太平の世を265年。鎖国もあり、ペリーの来航もあり、ペリーが沖縄に行っている7ケ月で、
三田の山を削って江戸湾を埋め立て砲台をつくった。砲台はペリーの外国船を追い払うためか。  

結局、ぺりーが再寄航で横浜と函館を開国した。
初代徳川家康から幕末の第15代将軍徳川慶喜は、京都で鳥羽伏見の戦いに新政府軍に敗れ、船で江戸城に逃げて来た。
もう戦いは嫌じゃとお寺に籠り。勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の幕末三舟に新政府軍の西郷隆盛と交渉を支持した。

高橋泥舟は慶喜の警護のため離れることは出来なく義弟の山岡鉄舟に委ねて慶喜が山岡に指名した。  
(山岡鉄舟は高橋泥舟の妹と結婚しているから二人は義兄弟だ)

勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟は剣の達人で西郷隆盛は初対面でもあるが山岡鉄舟にやられる覚悟をした。

 西郷隆盛の無血開城の条件は1、江戸城の即時明け渡 2、徳川の家臣は江戸城から離れた所に移住 3、兵器の引き渡し 4、軍艦の引き渡し 5、慶喜の引渡し の条件が示された。

5番目の慶喜の引き渡しは難題だろう。
この条件が受け入れなければ江戸の総攻撃だ。江戸は恐らく血の海となるだろう。

 西郷隆盛の訓にこんなことがある。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難(かんなん)を共にして国家の大業はなし得られぬなり」   ※艱難(困難に出あって苦しみ悩むこと)

旧幕府軍は大国の力を借りても断固として新政府軍と戦うべしと江戸っ子の気持ちだろう。西国出の私の想像だ。(田舎侍)
「大国の力」も日本が油断をし、ちょっとの隙間を見せると植民地にされる。

あなたならどうする?
 
  江戸の幕末から明治時代の人、渋沢栄一。2024年の1万円の肖像として登場する。

明石町の聖路加に友人のお見舞いに行った。とても奇麗な院内でイエスさまがいた。入院患者は皆クリスチャンと思っていたが友人が仏教徒だったのでその限りではないようだ。

 この病院で渋沢栄一さんのお名前を知った。
日本の資本主義の父と呼ばれている。

 資本主義は社会主義と対比されるが、会社が如何に利潤をあげ、銀行などから金を借入、株式を発行して広く運転資金を募り、設備投資をして、大きくしていくのが一つの形態だ。

株式会社、有限会社、財団法人、合資会社と形態は様々だ。
兜町の証券取引所で全世界の株式の上下を管理している。
それを見て投資家が資金を投資している。

銀行の親分は、日本銀行で市中銀行に貸し出す金利を管理している。

 渋沢栄一さんは、フランス万国博覧会を見聞もし先進国の視察も行い。日本に「論語と算盤」を提唱した。

算盤(そろばん)、私の出身の村で寺子屋じゃないけど公民館におじさんがデッカイそろばんを担いできて子供たちに教えていた。
私は、10級から始め4級はとった覚えがあった。大阪に丁稚奉公に出される見込みはなかったが、たし算引き算を知った。

世の中は広い。珠算7段の女性とスーパーにクラブの買い物に行った。今、いくらと尋ねたら、即返ってきた。

論語は、中国の思想家、孔子の教えを弟子たちがまとめた書物で、人間がどうしていきてゆくかという道徳観など書かれた書物だ。
例えば、損得勘定で商売をして、利潤を生むのは当然のことだが、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。

道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。(渋沢栄一)

「損をして得を取る」とよく商売する前に教えられた。人に信頼されることが先決で、得は後からついてくる。(私)
「ある人に嫌われていたことを知って自分の本音をしる」(私)

東京市水道の鉄管に渋沢が「品質や価格においても外国製に利がある」と海外製品を導入を主張したことで、国内の保守派の反感を買ったためとされ渋沢が暴漢に襲われた。
「罪を許したい」と語り、貧窮し困っていることを聞いて、人を介して資金を援助した。(渋沢栄一)

 2024年の5000円札の肖像として新戸部稲造が登場する。
新戸部稲造は北海道大学の前身の札幌農学校の第二期卒業生だ。
「青年よ大志を抱け」と言われたクラーク博士は新渡戸と入れ違いでアメリカに帰った。内村鑑三(宗教家)と同期だ。敬謙なクリスチャンの奥様とは。初国際結婚だった。奥様とアメリカに帰り、「太平洋の橋」になりたいとアメリカに渡った。

 キリスト教に対する日本の精神文化は武士道であると主張した。新渡戸稲造は「武士道」を書き奥様は流暢な英訳だった。奥様も日本人を知っていたからだろう。

私も、聖書を読んだこともない。日本では宗教はタブーというから話もしない。日本人の道徳の基礎となっている武士道があり、日本人がもつ美しい習慣や、思想の源泉が武士道にあることを発見し1899年にアメリカで発刊。広く世界に知らせた。

 江戸時代265年、明治時代44年、大正時代15年、昭和時代64年、平成時代31年、令和時代5年・・・・・と明治から現在の令和を合わせても江戸時代には満たない。
100歳時代と言われても後100年生きたとして、それでも満たない。
長ければ、いいとは限らないが徳川家康さまも、我が身を鬼門に置いても徳川を守ろうとした。

今も自殺者がいらっしゃるというが頼むから思いとどまってほしい。私も、うつ病の診断されたことすら今は知らない。

自殺者が一番多い年頃は、50歳から59歳と統計にあるという。私のように65歳から歴史を学び始めてやっと人間様を知った。それも歴史は単なる判断の情報の一つにすぎず70歳からもう一山来そうな雰囲気だ。
 スペイン語でラテン音楽をステージで歌うのが山のような気がする。

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鳴かぬなら鳴くまで待とう ホトトギス (連載ー486)

2023年08月10日 | 経験・体験
徳川家康は言う「人生は、重い荷物を背負っている状態で急ぐと転んでしまったり、人より早く歩くと疲れることもあるから慌てなくていい」

1590年、豊臣秀吉は後北条氏の小田原城を陥落させ、天下統一に成功しました。秀吉は、小田原城攻めに功労のあった家康に、それまで後北条氏の所領だった関東8か国を与え、家康に江戸の領地替えを命じた。事実上、左遷であった。

 家康は突然の領地替えを言い渡されしかも西国、京都の都から遠く離れた辺ぴな東国に追い遣られた。この時点で、豊臣秀吉との確執が決定的になっていた。

家康が、江戸に入ったが見渡すかぎりスズキの生えた湿地帯だった。江戸城はあったが100年前、太田道灌が築城した城はあったが新しく江戸城を造ることから始めた。

 関ケ原の戦いに勝ってすぐ徳川幕府を開けたのに、
3年後、武士の最高位の初の征夷大将軍を朝廷から命じられるのを待って徳川幕府を開いた。

 江戸は今のような東京ではなくスズキのはえた湿地帯で銀座は貧しい漁村で海だったようだ。
大体、北海道は日本ではなかった。伊達政宗の仙台までは日本国だったらしいが都の京都からみれば野蛮人の住む所に見えたのだろう。

水は天下を制するといわれるが飲み水、海路・水路にと物資の運搬に適した江戸の町は現代の世界の東京になることを家康は見越していたのだろう。

 「江戸」の江は揚子江の江で、戸は入り江などの入り口の戸で。
つまり「江戸」とは、古利根川や荒川、多摩川などの、河川と海辺が入り組んだ陸地と海岸線の区分も定かではない「大湿地帯の海際の場所」を現しています。

イタリア商人のマルコ・ポーロは、日本に来たことはなかったが東方見聞録の旅行記に「黄金の国ジパング」の記述はすべて事実でなかったにせよ世界に初めて日本を紹介された。

 鎌倉時代、中尊寺金色堂は、「奥州」藤原清衡が建てたものです。金箔をふんだんに使っていた。

徳川家康の国づくりには莫大なお金と多くの人員がひつようだ。豊臣家に話しても一銭もでないし家康奮闘記を書くようだ。
東国には金が大量に採掘されのを見越して、幕府の直管轄とした。
徳川埋蔵金、その額は「当時の貨幣単位で約400万両、現在の価値で20兆円」ともいわれており、徳川埋蔵金の存在が話題になった。

 家康は、関東の領地経営や軍制に専念し、有力な家臣を各地に配置するなどして難なく統治を実現しました。
次第に関東の支配力を拡大した家康は、武田軍の旧家臣や北条氏の家臣を迎え入れ軍事力を蓄えていったのです。
豊臣秀吉の死後、天下分け目の戦(関ケ原の戦い)と歴史では西軍の誰が寝返ったとか忖度したとか言われているが、東軍の徳川家康がわずか半日で勝利した。
260万石の家康と金の埋蔵金の存在があるとしたら結果はわかっていたのだろう。

 徳川家康の三大危機いわれる「三河一向一揆」「三方ケ原の戦い」そして、「伊賀越え」がある。

誰しも危機はあるだろう。
私にも思い浮かべれば、15歳の時、奇跡の空飛ぶスクータ。57歳の時、地球が爆発したような交通事故。58歳の時、奇跡の救急車。などと幸い生かされた。まったく、私を生かしてくれた医師が先に亡くなられた。南無阿弥陀仏。

 現在の皇居外苑や日比谷、新橋あたりまでは日比谷入り江と呼ばれる海で、JR東京駅からJR有楽町駅にかけては前島と呼ばれる半島状の陸地が突き出していた。
家康は、江戸湾の奥深くに位置する入り江にあり大量の物資輸送が見込める港を取り込める

家康は、最初に城の拡充に着手し、建築資材や蔵米などを江戸湾から舟で城に直接運ぶための水路を開き、城の工事で開削した堀の揚土で日比谷の入江を埋め立てた。
城の周囲には家臣団の屋敷を配置した。そして、城の常盤橋門外から東の浅草方面へ向かう街道に沿って本町の町割りを行った。

  道幅を約12mとし、通りの南北両側に幅・奥行きとも約120mずつの町地を造成して、これらの町に商人を居住させている。金座や町年寄などの屋敷もこの本町に沿って配置された。

 現在の銀座は貧しい漁村だった海を神田山(駿河台になっている)を崩して大量の土を埋め立てて銀座を造った。

 現在の銀座の街も1丁目から8丁目と京都のように網の目ように区画し桜の木も樹木されたようだが海だったので塩にやられ枯れたそうだ。それから柳が植えかえられた。柳の木とおぜん、ラーメンの屋台は風情があって酒も進んだ。
 
  銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所(銀座)にある。駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が地名として定着した。現在の銀座1,2丁目に移設された。

 三田の山が削られて東京湾の砲台造りに埋め立てられた。ペリー来航の影響だろう。今も大砲の砲台島が残されている。

 日本で、金が採掘され、25メートルプールに金が満載されたほど採れたと噂を聞いたこともあったがマルコポーロの「黄金の国ジパング」本当かもしれない。

昔むかしの話、お伊勢参りに行かれるお歳寄りの方の襟の部分に金を布の中に縫い付けてあったと聞く、お年寄りに何かあったら金を使って頂くようにとそれだけ金が庶民におなじみだったのだろう。
 
 さて、徳川家康の死後は日光は徳川家の鬼門(自分の一番都合の悪い方角)とされる日光東照宮にあえて我が身を置き徳川の15代将軍に未来を託するが、その安寧を祈った。

 銀座で姉と40年あまり居たが、銀座が下町と聞いて驚いた。
江戸城の見える下の町なので城下町(しろしたまち)、「下町」と呼ばれるようになったようだ。
 
電車内である親子の会話で、親がお茶の水までは来ていいがこれから先は行かないように子に言っていたが意味が解らんかった。
山の手線内が山の手で、浅草、駒形、両国、人形町の低い土地を下町のようだ。
ところで、寅さんで有名な柴又も下町かい。浦安が海だったころ友人の家に行った。ここも下町かい。なんだか、昔、海だった低い土地が下町と理解した。

銀座の路地裏、神楽坂の町も一度行ったがいい町だ。山の手、下町も粋な人っていいよなあ。

利根川は荒川など多くの河川と合流していたため、度々氾濫が起きていました。利根川は元は、江戸湾にそそいでいた。
そこで、利根川の流れを銚子へ変えることを「伊奈忠次(いな ただつぐ)」「伊奈忠治(ただはる)」親子2代にわたって
この大プロジェクトを成功させました。
 江戸川は人工の川で利根運河が出来る前、利根川を上って江戸川を使って東北の物資、お米や銚子の塩など舟に積んで江戸に運んだ。

  積み降ろしに手間がいるが外房を使って江戸湾に運ぶことを考えたら時間の短縮だ。
 エ~ト、東京都三鷹市にある井の頭池を水源として、善福寺川、妙正寺川を合流しながら神田川を流れ東京の中心部飲み水を通した。

 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、幕府も延焼を防ぐため、広小路(ひろこうじ)や火除地(ひよけち)を設け、燃えにくい瓦屋根や土蔵造りを奨励した。

現代は消防車が来て水をかけて消化しているが、江戸時代は道幅を広くして鎮火は燃え移りそうな家を壊して延焼を防止した。もちろんバケツリレーもあったろう。
一番乗りで纏(まとい)をかざすのも醍醐味だ。

 お伊勢参りで若い衆が奉納する白石を曳く時の毛槍の歌声が耳に残っている。
 ホトトギス 無理やり鳴いてもらっても、いい声は聞けない
待ちましょう。
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