相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

まち (連載―第557号)

2024年05月27日 | 経験・体験
保護者が同伴でないと、割引が受けられない。と駅員に言われ、私の試しの旅がはじまった。
 それもそうだ。一人で出来る人に特典を与える。「町は甘くない」ど暗黙の助言を受けた。
 57歳の時に、まさか、脳出血で倒れ、半身不自由になり、運転免許も一部取り消しになった。それもそうだ。
 今日は、15年ぶりに町の雑踏にでた。リハビリも今も続けているが、今日は、自己責任で内緒で町にでた。妻も私を川に放り込むように私を手放した。
  「行って来るね」「おだいじに」
込み入った文言もなく一人旅が始まった。杖を持っているから町は、やさしい。電車に乗っても、若者が席を立ち、言葉もなく別車両に移った。
ドアが開き、何秒で閉まるのか、10秒の駅も、15秒の駅もある。
ラッシュ時は、避けたいが乗車、下車はタイミングだ。
本流の街に着いた。壁に寄りかかることができ、腰を下ろすのにちょうどいいブロックに腰を掛けた。緊張と人混みに圧倒されたのか、心地よい安心感だ。
 足・足・足・顔・顔・顔・色・色・色とスライドショーのように画面が流れた。
  ここは、支流が流れ込む本流だ。
ちょぼチョボ、サラサラ、ザアザアといくつかのせせらぎが集まり谷となり、小川となって、小川が大川に合流する。ここは人の海だ。人はいろんな色を発する。
 もう、2時間も座り込んでいる。
目もなれたようで街にも慣れた。というより、自力で歩くのに自信がもてない、もしかして、転ぶかも。転んで、人の目線が怖い。図太い人間だと思ったが意外と小心ものだ。
 段ボールのおじさんと目が合ったが澄んだ目をしていた。まだ日が浅いのだろう。カランと空き缶を集めてどこかに持って行った。へ~たいしたものだ。
  私の目的は、遠く故郷に帰るバス停の場所の確認と。駅からバス停までの距離を自立で歩けるかのどうかの確認だ。
一人で行くと豪語したので、試してみたかった。
 ところで、犬でもないのに、あの角を曲がればあそこなんだが駅にも町にも臭いがしない。
すべて奇麗になり、環境も変わり、目印がなくなった。
 エレベーターも出来、目的のホームに行くのも3Fに行き、2Fに行くエレベーターに乗り2Fでホームを探した。やっと目的のホームにたどり着いて、並んでいた。
変だなあ。帰る線が違うようだ。
  私の勘違いに気づき、近くのカップルに尋ねた。案の定、ご親切にスマホで発車時刻と発車ホームを検索して頂き帰途につけた。
 もし、その若いカップルにあわなければ、まだ、さ迷っていたかもしれない。駅は50年前、妻との出会いの駅だった。
 街は親切に飢えているかもしれない。トイレの場所を尋ねても
お気をつけて・・・。
 まち、町、街、帰りの電車の中で目を閉じて座っていらっしゃる中年の方、カバンを背負われている、手に紙袋を持っていらっしゃって立っている若者、さまざまだ。
  まちは、一コマの駒が操り人形 のように動いているかのようにみえた。このまち、あのまち、そういえば、ゴミひとつちらばっていなかった。この世界を大切にいつまでも。
 まちは、大衆と一束に見えるが、心開けば、束には親切が溢れていた。

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B29爆撃機【アメリカ】 (連載―第556号)

2024年05月26日 | 経験・体験
B29をご存じの方は、ぎりぎり昭和人だ。私の年齢が73歳だとすると昭和26年生まれをプラスすると73+26=99となり、昭和に換算すると来年で昭和100年となる。
 洗濯物を川に持って行き、足で踏みながら汚れを落とし、河原の石の上で乾燥させた。
 洗濯物をコインランドリーに持って行き、漫画を読んでいる間に乾燥まで終わっている。
 比較はしたくはないが両方のことがわかるから幸せだ。
  灯油とガソリンは色と臭いで違いがわかる。灯油はジワーと火がまわる。ガソリンは一瞬に火がつく。石油ストーブに、まちがえてガソリンをいれて爆発して火事になった。という話は聞かない。
 ところで、B29爆撃機の本題に戻すと当時の最先端の爆撃機として、第二次世界大戦の後半から、日本の各都市を爆撃し広島、長崎に原子爆弾を投下した
アメリカの爆撃機だ。
 高度1万メートル以上の高高度で日本の上空に飛来し、日本の戦闘機も高射砲も役立たずと聞いていた。
  子供の頃、先生の話では、B29が飛来するまで、時間をかけて高高度に機を上昇させ待機して、飛来したら急降下してB29とすれ違いざまに迎撃したらしい。今の今まで信じていたが、私がバカだった。別名:太平洋戦争と聞くが日本もマリアナ諸島を死守していたので、アメリカは、英国~インド~中国の方からB29が飛来したらしいが、アメリカは中国にB29の基地をつくったが日本の攻撃を予想して奥地に基地を移転したので、B29の航続距離から、東京を外れた。
  九州の製鉄所を夜間、高高度で爆撃したが暗闇で目的に失敗した。
今度は昼間に変えて日本に飛来したが日本の戦闘機、高射砲の餌食になったようだ。

 B29の値段は、零戦の14機分する高価だ。アメリカもB29が撃墜されようが戦死者が多数だそうが、日本にダメージを与えたかったようだ。いくら重装備のB29でも自国の戦闘機の護衛がなければ、やられ放題だ戦死者も3000人も上ると聞いた。
  1945年3月、マリアナ諸島の硫黄島の陥落でようやく戦闘機の護衛もつき、サイパンからB29が東京を、日本全土を射程にした。
 B29爆撃機に、日本の戦闘機が高射砲が役に立たなかったとは、どうだろうか、命をかけて国民を守っていただいたおかげで今がある。古い話だろうが知ることが大切なのかも知れない。
 1945年8月15日、玉音放送で敗戦となった。同年、9月2日の敗戦調印で終戦となったか、この終戦日をめぐる連合国側の駆け引きもあったようだ。
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ひとりごと     (連載―第555)

2024年05月17日 | 経験・体験
広島、長崎に原子爆弾が落とされ日本は戦争に負けたのが昭和20年だ。戦争を始めたのが昭和14年だから、6年も戦争をしていた。
多くの兵隊さんが帰国して多くの子供が誕生した。村には子供が溢れていた。近所には8人兄弟もいる人がいた。野球をするにも、赤、白にわかれて、子供があつまり、すぐ対戦出来た。
昭和22年~昭和24年の生まれの世代を「団塊(だんかい)の世代」と故、堺屋太一さんが言われていた。
  戦後世代、焼け跡世代などと言われていた。大学受験、就職には苦労した連中だ。他人事のようだが、私は2年後の昭和26年生まれだから難を逃れた。
 文化的な面や思想的な面で共通している。大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。私も、先輩に言われ代々木公園から日比谷公園まで町を練り歩いた。陸橋から明るい光が光っていた。腕をしっかり組んでいないと引き抜かれると注意された。デモの先頭の歩道側には何人か大人が並行して最初から付いてきている。その時、改めて見る町の様子は異様だった。
  洗濯機、テレビ、冷蔵庫は「三種の新器」と言われ、我が家にはすべてなかった。
洗濯は、川に持って足で踏んで、河原で乾かした。
 テレビは、村で一軒持っている家に行き見せていただいた。遊び疲れて見ながら寝た記憶があった。
 我が家には、ラジオをよく聴いた。何年前か定かでないが、早朝の4時ごろ、アメリカのケネディ大統領がダラスで暗殺された。と報じていた。これは大変だと家族みんなをおこした。


  キューバ危機でアメリカとソ連が核戦争の手前で核のボタンを押そうとしていた。その時、上空に爆音が鳴り響いた。山にこだまして、とうとう核戦争が始まったか、子供心に覚悟を決めた。
爆音の原因は、飛行機が音の壁を越す速いスピードの時に爆音が発すると言う。安心し命拾いした。
世界は、核実験で放射能の雨に濡れると、髪の毛が抜けるそうだが、それで、私もハゲになったのか? 今は、くそジジイになったが、まだ、若い方は、この世に、生まれていない方もいる。
ご存じないのが当たり前、私の場合は、身をもって経験しているから覚えている。
 ある国では、4,5日で終わる戦争に若者を戦車に乗せてパレードでもするかのように他国に侵攻した。
てっきり、若者がパレードだから沿道の両側に市民の声援を期待したそうだが、戦争だと私も御免だ。
どこかの国の責任者が、今は戦争している時代ではないような話をしておられたが、「他人の振り見て、我が振り直せ」と自国もこっそり戦っていた。
古い人間、新しい人間であろうが、行いで判断しないと今の世は複雑だ。

 もう亡くなられたようだが、アメリカのチャップリンが帝国ホテルに宿泊で空港から後を尾行してくる気配を感じた。
日本の付き人がホテルに着く前に、チャップリンを車から降して、ある方向に一礼をして難を逃れたそうだが、
別に関係ないことだが世を、物事を知らなければ気配も感じないだろう。
 私には関係ない事でもまわりまわって自分に戻ってくることだってある。 私は、3度ほど三途の川を渡りかけたが幸い泳ぎが出来なかったので生きている。  
冥土のみやげにこの世を知っておこうと60歳過ぎてから、昔を知ろうと歴史を覗いてみた。
 昔は、よかったらしいが、昔に生きていない方に、昔を言わない。「昔は、よかった」とは私の禁句だ。
「昔を知らない方ばかり集まって、新しい世界を築けばいいのにと思うことがある。」
 世界は、昔を体験した人とそうで無い方の共存だ。
 「心の持ち様」との新しい戦いがはじまっている。
 地震も天災も各地に起きている。来年は何人の生け贄を天はもとめているのか、平気な顔をして真っ黒な雲が何人かを抱えて北に流れていた。

  広島、長崎に原子爆弾が落とされ日本は戦争に負けたのが昭和20年だ。戦争を始めたのが昭和14年だから、6年も戦争をしていた。
多くの兵隊さんが帰国して多くの子供が誕生した。村には子供が溢れていた。近所には8人兄弟もいる人がいた。野球をするにも、赤、白にわかれて、子供があつまり、すぐ対戦出来た。
昭和22年~昭和24年の生まれの世代を「団塊(だんかい)の世代」と故、堺屋太一さんが言われていた。
  戦後世代、焼け跡世代などと言われていた。大学受験、就職には苦労した連中だ。他人事のようだが、私は2年後の昭和26年生まれだから難を逃れた。
 文化的な面や思想的な面で共通している。大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。私も、先輩に言われ代々木公園から日比谷公園まで町を練り歩いた。陸橋から明るい光が光っていた。腕をしっかり組んでいないと引き抜かれると注意された。デモの先頭の歩道側には何人か大人が並行して最初から付いてきている。その時、改めて見る町の様子は異様だった。
  洗濯機、テレビ、冷蔵庫は「三種の新器」と言われ、我が家にはすべてなかった。
洗濯は、川に持って足で踏んで、河原で乾かした。
 テレビは、村で一軒持っている家に行き見せていただいた。遊び疲れて見ながら寝た記憶があった。
 我が家には、ラジオをよく聴いた。何年前か定かでないが、早朝の4時ごろ、アメリカのケネディ大統領がダラスで暗殺された。と報じていた。これは大変だと家族みんなをおこした。


  キューバ危機でアメリカとソ連が核戦争の手前で核のボタンを押そうとしていた。その時、上空に爆音が鳴り響いた。山にこだまして、とうとう核戦争が始まったか、子供心に覚悟を決めた。
爆音の原因は、飛行機が音の壁を越す速いスピードの時に爆音が発すると言う。安心し命拾いした。
世界は、核実験で放射能の雨に濡れると、髪の毛が抜けるそうだが、それで、私もハゲになったのか? 今は、くそジジイになったが、まだ、若い方は、この世に、生まれていない方もいる。
ご存じないのが当たり前、私の場合は、身をもって経験しているから覚えている。
 ある国では、4,5日で終わる戦争に若者を戦車に乗せてパレードでもするかのように他国に侵攻した。
てっきり、若者がパレードだから沿道の両側に市民の声援を期待したそうだが、戦争だと私も御免だ。
どこかの国の責任者が、今は戦争している時代ではないような話をしておられたが、「他人の振り見て、我が振り直せ」と自国もこっそり戦っていた。
古い人間、新しい人間であろうが、行いで判断しないと今の世は複雑だ。

 もう亡くなられたようだが、アメリカのチャップリンが帝国ホテルに宿泊で空港から後を尾行してくる気配を感じた。
日本の付き人がホテルに着く前に、チャップリンを車から降して、ある方向に一礼をして難を逃れたそうだが、
別に関係ないことだが世を、物事を知らなければ気配も感じないだろう。
 私には関係ない事でもまわりまわって自分に戻ってくることだってある。 私は、3度ほど三途の川を渡りかけたが幸い泳ぎが出来なかったので生きている。  
冥土のみやげにこの世を知っておこうと60歳過ぎてから、昔を知ろうと歴史を覗いてみた。
 昔は、よかったらしいが、昔に生きていない方に、昔を言わない。「昔は、よかった」とは私の禁句だ。
「昔を知らない方ばかり集まって、新しい世界を築けばいいのにと思うことがある。」
 世界は、昔を体験した人とそうで無い方の共存だ。
 「心の持ち様」との新しい戦いがはじまっている。
 地震も天災も各地に起きている。来年は何人の生け贄を天はもとめているのか、平気な顔をして真っ黒な雲が何人かを抱えて北に流れていた。

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明治100年、昭和100年        (連載―第554号)

2024年05月11日 | 経験・体験
昭和になって明治百年目はいつ頃だろう。江戸時代は長―い鎖国の時代が過ぎ、ペリーの黒船来航は1853年、浦賀に来航して、日本が欧米諸国に遅れをとっていることに気づき、近代国家、明治維新が始まった。
岩倉具視を団長に伊藤博文、大久保利通、木戸孝允(剣豪:桂小五郎)、山口尚芳ら総勢百名を超える使節団でしかも、2年余りも国を開け、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信らが日本を守った。
 江戸時代の幕末に結んだ欧米の国々との不平等条約の改正が目的だった。
一行は欧米との文明の遅れを痛感したのだろう調査の旅となった。
 薩長の重心を中心として2年も日本を開け、海外視察に出かけられたのも他国から侵略されないだろうと確信したのか西郷隆盛に任せたのだろうかそれとも他国は、日本を侵略する価値もないのだろうかと私は思った。
 日本の留守をまもった西郷、板垣、大隈らに感謝したい。
 明治百年は、文明文化の激動の変化もあり、大正3年から大正7年は第一次世界大戦があった。
その間、ロシア革命もおこり、日本は、米国の仲介で、かろうじて日露戦争に勝った。
  明治天皇、大正天皇のご崩御
もあり。
大正12年の関東大震災で、多くの尊い命が奪われ甚大な被害を被った。このとき、内閣総理大臣の加藤友三郎が死去したばかりだったため、外相の「内田康哉」が臨時兼任。日本は「首相不在」という状態で災害を迎えることとなったのです。まさに、天と地がゆらゆらと揺らいだ明治100年の時代だった。

 昭和100年、何のことだと嫌われそうだが、昭和は64年、平成が31年、令和は今年で6年、そうすると昭和100年は過ぎた計算になる。
  昭和14年から昭和20年までの6年間、日本、ドイツ、イタリアの同盟国とイギリス、フランス、中国、ロシア、アメリカの連合国との戦いの第二次世界大戦が起きた。
 昭和20年、8月15日は玉音放送で日本は終戦を迎えたが海外では、9月2日に公然と第二次世界大戦の終結となっている。
9月2日、午前9時すぎ神奈川県横須賀沖、米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に重光葵外相が調印した。
即時発効されたと書かれているが解釈の違いで終戦が8/15なのか9/2なのか、違うよ8月15日だよと主張しても敗戦国の意見など聞き入れられない。解釈の違いだ。
9月7日、サンフランシスコでサンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説でさえ英語に変えて演説する予定だったが、急きょ、日本語で演説したと聞いた。それだけ、日本は連合国側、特にアメリカに気を使ったのだろう。
  閣下(かっか)は、誰のことを指すのだろうと聞かれたが黒いステッキとハットを被った偉いさんのお人だと応えておいた。
天皇は陛下と呼ぶ、天皇陛下以下の偉いさんを閣下と呼ぶんだろう。
閣下のご命令とあれば、黒を白と言わなければならない時代に生きていないが、威圧的だ。
現在の世では、時には、面白がって閣下と呼び、ごちになることもある。
昭和の100年は、高度経済成長(朝鮮特需、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気、日本列島改造、バブル景気)も、1961年から10年間、池田勇人の所得倍増政策あり、浮く者もあり、沈む者もいた。
経済成長で光化学スモッグ公害で、空気が悪いからよく駅などに胆つばをはく入れ物が備え付けられていた。立ち小便をするものも見かけた、小便横丁ってね。いい時代だった。
川や海などに工場排水を流すから魚を食べた人間は、病気になった。


黒四【くろよん】黒部ダム(くろべダム)は、富山県の北アルプス立山連峰の黒部渓谷にダムを作って下流地下200メートルの所に黒部第4発電所を作る予定で関西電力が関西地方の慢性的な電力不足で関西電力の命運をかけて厳しい建設に取り掛かった1956年から7年の歳月をかけて取り組んだ。
何と171人の殉職者を出した。それほど、険しい山に阻まれ寒さと多量の水との戦いだったようだ。
小学校の頃、よく映画で工事を見た。工期に迫られ山を両側から発破をかけて掘り進めた。山の中に多量の雪解け水が出水して犠牲者もでた。戦後の電力不足を解消するには、この選択しかなかった。
 1ドル360円の固定相場制(壱円、一周が360度だから360にしたとは冗談かな?)
その当時にしてみれば、現在は円安どころか、円高だ、株も高い。円安というから輸出には良い。ある企業では最高の利益を計上していると聞く。外国観光客も多い。今や海外の方が物価が高い、お米を持参で海外に行かれると言う。
「もはや戦後ではない」と1956年に宣言した。戦争に敗れて、立ち直った。まさに、日本人の勤勉と使命に東洋の奇跡と呼ばれた。
 幼い頃、洗濯機・テレビ・冷蔵庫と「三種の新器」をそろえるのが夢だった。洗濯は、はじめは川で足で踏んで洗濯をし乾燥は河原に干した。  
洗濯機はローラーの付いた絞り器。テレビはよその家で見せて頂いた。冷蔵庫は買えなかった。
現在のようにオール電化ではなかった。大きけりゃいいと「巨人・大鵬・卵焼き」と流行った。
初代ドイツの首相であった怖い顔をしたビスマルクは島国日本と陸続きの欧州とは根本的に違いを言っていた。「座ればわかっている」「言わなくても相手はわかっている」との考えは世界には通用しないようだ。
新渡戸稲造が太平洋の架け橋にと奥様メアリーとアメリカに渡り「武士道」を書いて世界に日本人を知らせた。
 
新渡戸稲造は札幌農学校(現:北海道大学)の初代校長で「青年よ大志を抱け」と名言のクラーク博士がいた学校だ。新渡戸稲造さんは、5千円札に肖像が載っている。
 阪神淡路大震災、熊本地震、東日本大震災と津波、能登大地震、気象のレーダーが捉えた線状降水帯、来年は何人の人柱がいるのか、今年も真っ黒い雲が重そうにおなかを抱えて北に上っていた。
正月から、能登地震にあい、お一人残された方の悲鳴が耳に残っている。
天災は各地に広がっている。人災もかたちを変え人間様をコントロールしてくる。
AIとは人工知能(Artificial Intelligence)機械であるパソコンが学ぶことを知っているから将棋でも同じ手は通用しない。連敗続きだ。
速い乗り物を利用すれば、便利に田舎に帰れるのに、持ち合わせがないので、遅い乗り物を利用する選択をした。遅い乗り物が何かを教えてくれるだろう私の一人旅。
体調がよくないので、秋に延ばしたいがもう日程は変えない。
AIにバレルから

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