相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

新札5千円の肖像・津田梅子 (連載―第565号)

2024年07月17日 | 経験・体験
新5千円札のお顔は津田梅子さんだと云うが、あの津田塾大学を創ったお人だ。
佐倉藩だった農学者の津田仙さんの二女として江戸で生まれた。
 日本も江戸の幕末から明治維新になり、明治政府も欧米先進国との遅れを取り戻すのに人を海外に留学させた。彼女も6歳で女性初めて渡米した。
渡航費用も留学費用、生活費も国の負担のようだった。幼い6歳で日本語も忘れるほど、アメリカでの暮らしが長く、梅子はアメリカの人たちに好かれた。
 時は明治維新、江戸時代に先進各国と結んだ不平等条約の改定を主目的で欧米先進国を岩倉使節団が、視察の旅に旅立ったが津田梅子もメンバーのお一人となって渡米した。
私を振り返ると、信じられない体験だ。画用紙に舟を浮かべ、海は広いな大きいな行ってみたいなよその国・・・♪
 アメリカで洗礼も受け、帰国しても、新渡戸稲造を知り、立教大学、学習院、青山学院などとのつながりもあったようだ。
 明治時代の日本は、侍の世は終わりを告げたがまだまだ、封建制度で保守的な世で女性の地位は低い。
 
  大正時代に入り、大正デモクラシーがおこり、板垣退助などの自由民権運動がおこり、ようやく、昭和になって徐々に女性も選挙権を獲得するようになっていった。
 津田梅子は、女性の地位向上こそが日本の発展につながると信じ、女性の女子英学塾(現:津田塾大学)の創設するなど女性の高等教育に尽力した。
  女子英学塾は、それまでの良妻賢母主義的な女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。
 津田梅子は帰国して、すっかり、忘れた日本語のおかげで苦労もしたようだ。お茶の水女子大でも働くチャンスもあったが逃した。
  伊藤博文も岩倉使節団の一員だった。伊藤博文の奥さんと娘さんに英会話や米国のマナーなど半年にわたって家庭教師の経験もあった。
 津田梅子は、女性の米国留学に便宜をはかり、また、日本における活動に支援の輪が広がった。
当時、アメリカに5人の留学生の中で、帰国後も津田の働きを手伝う人もいたようだ。
  津田梅子の女性の地位向上のための信念と津田塾大学の創立に
アメリカからの賛同してくれる支援
も受け新校舎の建設にこぎけた。
 大正時代の関東大震災にも遭遇した。昭和4年に脳出血のため64歳でお亡くなりになった。
津田梅子さんは明治、大正、昭和を生き抜いた。
新渡戸稲造の次の肖像で津田梅子さんが、新5千円札の顔となった。現在のキャッシュレスの世で、使う機会があまりないと思うが津田梅子さんを知ることができた。育ちも裕福なご家庭で育ったのだろうが、何をするために生まれて来たのか、幼いころから見つめていたのだろう。
時代のせいにはしなかった。

追伸
新札の顔が変わった、北里柴三郎と津田梅子さんを知ったがお二人とも留学のための、渡航費用、留学費用、生活費用は当時の政府がだしたが、それが国民の血税であったことを忘れていなかった。
 私も、昭和、平成、令和とまだまだ続くようだが、便利さも生きていくの
に必要だし、みんな頑張っている。時には、不便も体験したら何かが見えるかも。不便に飢えている贅沢な者より。

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