相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

のこりものに吹く かぜ (連載―第578号)

2024年10月07日 | 言葉
こんな筈じゃなかったのに、なっちまった今日この頃、内閣総理大臣のイスと大臣たちのイス、のこりものに吹くかぜは厳しく、なぜか、シラケ鳥が飛んでラー。
世は、江戸時代に、戻ったような、まさか、ぺりーが来航して大砲を鳴らした。江戸の民衆は花火とまちがい、ドロドロ集まって来た。玉屋っと、
「タマヤー」と威勢のいい声が空に響いた。
火事と喧嘩は江戸の華(はな)と粋な江戸弁に憧れて西の国からやって来た。江戸は大火が多かったから切った木を隅田川にひたして木場のモク材やさんが栄えた。
江戸っ子は気が短い、宵越しの金は持たないとその日の稼ぎは酒になって蒸発した。
今更通用しない死んだふり。一句ができそうな島国日本。
 今日も国内が揺れている。総裁選で誰が次期総理大臣になるのか忙しそうだ。結局、ご年配の石破さんになった。
先日、総裁選を見て居ると「のこりものに吹くかぜ?」を見た。
50年前、史上最低の学力を引っ提げて、大都会東京に西の国から、12時間も汽車にゆられてやってきた。57歳の時、小脳出血で病院に担ぎ込まれた。還暦になって病院から解放され実戦で自からの力で回復を試みた。
 商売の現場に戻った初日は、華々しいデビューで店内で倒れた。だから言ったでしょう、一滴でも酒を飲むなって。
救急車はすぐ来てくれたが病院が決まらず担架に乗せられ銀座のさらし者になった。
数日後、再び世間の洗礼をあびた。「身体障害者の誰さん」と言われた。ハット気づいた、私は身体障害者なんだと気づかされた。私に降りかかる現実をすべて受け付けようとした。
新総理になられた石破さん、67歳だという。67年の歩みは株価にも現れる。ふつう、御祝儀相場で株価は上がるが、株価が下がった。
たいしたものだ。株価まで上下するんだもの。
 おこがましいが、生き方に光と影があるとしたら、新総理、石破さんは無口で、お友達が寄ってこない存在の影を生きるタイプだろう。
 政治家は、光と影を巧(たくみ)に使って、時には歌舞伎役者のように見栄をきる。
 みかねて、不器用な石破さんをカバーするかのように、石破さんの奥様がこまめに、支援者に、ご挨拶されていた。とても奇麗なお人だ。
石破さんのお言葉に、初めて会ったその日から、こんなきれいな人がいると感想を漏らしておられた。あらためて内助の功を知ることになる。
 もしかして、評判はよくないが生きるのに不器用な人かもしれない、言い換えれば世渡りが下手なんだろう。
 私は実姉と40年間ほど銀座で商売をやらしていただいた。水を売り歩いていないが水商売を商いとしていた。
1ケ月もてば3ケ月もてば5ケ月と、1年もてば3年もてば5年はもつと、いつ潰れるかと思いながら年月が過ぎた。35年目で共の姉を亡くした。
途中、私が大病で、妻の内助の功をお借りして切り抜け40年目で銀座から去った。
 石破さんたちが、総裁になられた記念に集合写真を撮ろうとしたとき、その中を照れくさそうに通り過ぎた一人の政治家がいた。石破離れの空虚なシラケ鳥が飛んだ。

  石破さんは過去何回か総裁選で冷や飯を食った。今回は、のこりものに吹く かぜ?が吹き新総理になられた。
総裁選に落ちて、子供っぽくすねる人。好青年だった方が政治の荒波,縁に流され、ただの青年になった人。当落に関係ない人達。さまざまな人間模様を見せて頂いた。
いっぽう、野党は自民党のアラを探して批判だけをする。それで役目を果たした時代は過ぎたような気がする。そんな野党はうんざりだ。理想国家の為に国民も我慢も出来よう。改革は己を改革することだ。
私も74歳の高齢者になったのか、野党の方々は、無理やり肩肘(かたひじ)を張っているかのように見える、健康思考か貫禄がない。
かつての自民のドンもお歳を召され次世代に譲った。私も和歌山県出身。ドンの颯爽(さっそう)と挨拶回りしていた若い彼を知っていた。
老いも避けられなく政界から去った。
新聞によりますと、2024,9.24,に掲載された石破総理含めて20名の新閣僚の顔ぶれが掲載されていた。
4,5名の顔ぶれは知っていたが、残りの方々はまったく白紙である。
寄木細工じゃないが、パズルのように知らないお顔が掲載されていた。
1963年、ジョン・F・ケネディがアメリカのダラスで暗殺された。私も30年ほど前、現場に行ったが複雑なアメリカ世界を感じた。
Ask what you can do for your country.
(国が諸君に何をしてくれるかを問うな。 諸君が国に対して何をできるかを問え) 1961年、彼の就任演説における呼びかけだという。
ケネディアメリカ大統領を知らない青年も、日本は混在している。
日本の食料需給率は30%、石油は中東からタンカーでマラッカ海峡、問題の南シナ海を通過して日本に運ばれている。。
新米が収穫時期の9月、お米を買うにも生産地区のスーパーにもなかった。現代版「米騒動」だ。
 私が二十歳の時、1973年に石油ショックで「紙がなくなる」と噂され、皆がトイレットペーパーの買い占めでトイレットペーパーが町に、なくなった。
そんなことはない喫茶店のトイレに天高く積まれていた。
思い出す、資源のない日本が石油、お米が止まればまたたくの間にパニックがおこる。
 こんな古―い話を聞きたくもないだろうが1分ほどお時間をいただきたい。私はまだ生まれていなかった時代に、日本が石油をアメリカに止められ困り果てて戦争を起したその頃、中東に石油が発見されていない時代に日本はアメリカから石油をストップされた。
アジアのスマトラ島に石油をとれたらしく日本は南方に進出した。アメリカは日本が大陸に進出をした兵隊さんをすべて引き上げろと言われたが日本は拒否をした。
   日本は石油の備蓄がある内にアメリカと真珠湾攻撃をさきがけに宣戦布告した。戦いが始まる前、相手国に最後通告をしなければならないのに、日本大使館は、誰かの送別会のために事務員もすべて出ていた。
事務になれていない人が戻り日本からの暗号の解読とタイピングに遅れて1時間20分も遅れ真珠湾攻撃後の50分遅れでアメリカに最後通告が届いた。
アメリカは側は、「パールハーバーを忘れるな」の掛け声で一致団結して日本を向かってきた。
誰もが大国と戦争しても負けることを知っていたのに短期決戦で突入した。石油も食料も自国で取れなければ長旅はできん。

   現在も石油が止められたら日本はオール電化で、日本人はサバイバルで生き残れるだろうか。
「腹が空いたら戦は出来ん」という言葉もあるように、食料を止められ終戦となったと聞いた。
1945年、第二次世界大戦が終わって百年、年内に第三次世界大戦が起きるかもしれない世界情勢。
こんな日本の若者がいた。早く降伏すれば平和な世界がおとずれる。と発言なさっていた。
それを全面否定はできないが、若者が正しいことを言われているのだろう。しかし、写真で見た残虐な場面、機銃で何百人も殺されてゆく映像を見て、人間様がおこなっていた。
機銃を持った兵隊さんの影響を考慮して、独裁者は別の方法を考え出したのがガス室で大量抹殺することだ。
今は、日本では事件現場でブルーシートを覆っている、昔は、そのようなことが見なかった。
戦後、アメリカの核の傘で日本は守られたことは確かだ。アメリカも日本を盾にしてアジア進出を考えていたのに、日本を守ってやっているのに日本も金を出せと言っている。
地政学リスクも日本をとりまく世界は厳しい。領海侵犯は昔からやられているが、領空侵犯は最近だ。
領空侵犯は国際法でうちおとされても、文句は言えないという。
 石破さんも日米地位協定の改定を言われているが日米地位協定がどんな条約なのか私たちが知っておく必要性があると思う。
夫婦別姓の制度を取ってないのが日本だけのようだ。給食費の無料化とか国内問題も山積してしているが、世界が、あくまで平和でなければならない。今は亡き安部総理が世界各国を訪問して、各国首脳とコミュニケーションをとって政治に活かした。前岸田総理もしかり。石破総理もそうであっていただきたい。

 国民は便利なスマホに夢中だ。私もお世話になっている。人が傍にいても、亀の甲羅状態。
地震、洪水にあわれて、すべて無くした輪島塗の方が言われていた。「人生には意味がある」と。

石破さんの先評判はパットしないが民主主義国日本の舵取りを、石破内閣に期待したい。

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思い通りにいかないね (連載―第570号)

2024年08月21日 | 言葉
私の目標が和歌山に帰り、両 親、兄弟の墓参りする。そして、 亡き兄のお葬式に行けなかった のでお参りすることであった。 私は身体障害者らしいので、反 対されることを予想して密かに 一人で実行しょうと予定を組み バスも予約した。 ところが、次男にそれがバレ6 月の予定がすべてキャンセルさ せられ、8月に次男の5歳の孫と 共にワゴン車で行くことになっ た。つまり、次男が連れて行って くえるという。
  子供は、スマホで宿泊先を簡 単に予約した。和歌山では高野山 のお寺さんに泊まる、奈良では一 般の旅館をである。 私は田舎のお墓に、子供は高野 山と奈良に行きたいと言う希望 だ。2 泊3日の旅。
さて、40年ぶりに帰る郷、 何もかも変わっていることだろ う。 大阪から一本道を南下して紀の 川を渡り、和歌山城を崇め紀三井 寺、海南、湯浅を経て御坊まで、 それから道成寺への旅だと思っ たら、海と山の陸の孤島と42号 国道の一本道だと思った。
 今は大阪から高速道路が出 来て短時間で御坊に着く、御坊 IC で下車すれば15分ほどで道成 寺に着く。
故郷の墓にお参りして私の目 的を済ませ、日高川をさかのぼり 龍神村(龍神温泉)から高野龍神 スカイライン((371)を走り高 野山に着く、 この日は高野山も宿坊に泊まる 予定。 翌日は、高野山を(371)下 り、橋本から24号を北に上り、 天理、奈良(若草山)へと向かう 天理で法隆寺、奈良では奈良公園 の鹿・東大寺・春日大社など観光 して、夜は奈良に宿泊の予定です。
 この企画は別にYouTubeでア ップロードさせて頂きました。機 会があったら、見てやってくださ い。
8月のある日、妻が私のちっぽ けな部屋に来て、これから実家に 帰るという。別に夫婦仲は悪くは ないと思うのだが、それは、私の 見方だけだが、何でと尋ねた。 義父が入院したという。お風呂 で気を失い、幸い孫に助けられ救 急車で運ばれたいう。93歳で、 この暑さだ熱中症になったのだろう。
とにかく、急いで栃木に帰った。 病院の面会は15時から19時 の間の30分、一日2人だと聞く。 私と妻とは次の日になった。
 翌日、面会でき意識はあった。 私は和歌山に行きを中止を決め た。 2年前から夢にまで見た故郷 は、遠くになった。南海トラフ地 震の注意報も出ている、台風も来 ている。日本列島も私の心も揺れ にゆれている。   
私は覚悟は決めているが、子供 と孫は私の責任だ。親子3代の旅 はいつか実現しよう。
73年も人間やっていると思 い通りに行かないことで、アレー、 アレ、アレーと波乱万丈の人生、 良いことも悪いことも、どこかで 清算される。
 
 地球が爆発したかのような 交通事故、人に嫌われて、ハット 気づいた己。まさか・・・ 思い通りに行かないね。
煙草も酒も運転も禁止され、残 すは津軽海峡、シチリンで炙ったイカ・土佐の高知のはりまや橋・ 佐賀の黒縁眼鏡をかけた無口な 友。西郷郷隆 の鹿児島にも行って みたい。
道成寺の「安珍清姫物語」、安珍 清姫と、ただ一人の物語と思って いたが、安珍という僧と清姫の若 い娘の悲恋のお話だった。
私の歴史感を強要するつもりは ないが、旅に一味くわわった。 これも、アップロードさせていた だきました。
 歴史は年号を暗記するもの だと思っていたが、その時々の人の考えの変化を知ったことで面白さが倍増した。
誰かが云っていた、日光東昭宮の「見ざる 聞かざる 言わざる」の3猿が平和ボケと言われようが日本が平和な世を長く保ったような気がする。
澄み切った青空の下で、夜空
の満天の星の下で戦闘機が飛び交っている。この対象的なことが宇宙のシワザなのか。

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トルコ人は中央アジア から来たの? (連載―471)

2023年05月02日 | 言葉
アジアとヨーロッパとあわせて、ユーラシア大陸という。
ウラル山脈、ウラル川を境にアジアとヨーロッパの東西に分かれる。

 昔から、シルクロードと言ってアジアとヨーロッパを結ぶシルクロードを通じて、お互い貿易をしている。

 ちょうどトルコはアジアとヨーロッパの中間点で、アジアはアジアのにおいがする。ヨーロッパはヨーロッパのにおいがするのだろう。東西の珍しいにおいのする中間点、いいところのようだ。

  トルコ人は中央アジア(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス)から来た、遊牧民と聞く。

 それでお顔立ちもアラブ系ではなく、アジア系でロシア人にも日本人にも似ている。

 彼らは中央アジアからやって来てトルコのアナトリア地方に住みつき、小国からのスタートだったがもともと住んでいたビザンツ帝国の領土を奪って勢力を拡大していった。

 キリスト信者の多いバルカン半島へと勢力を拡大し地中海世界を覆いつくすオスマン帝国へと発展した。
 
  西暦330年、ヨーロッパとアジアを結ぶ東西の要衝の街に、あたらしい名前が付けられた。コンスタンティノープルです。
この街を建設した。ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝の都という意味で名前がつけられローマ帝国の首都となった。

 ローマ帝国の東西分裂や、西ローマ帝国の滅亡後もビザンツ帝国の首都として発展した。1000年以上の長期にわたり君臨したが、それも徐々に勢力も縮小していった。
ビザンツ帝国の東方にオスマン帝国があらわれ、オスマン帝国も当初は小さな国だったのが、ビザンツ帝国のアジア側の領土を奪って勢力を拡大した。

  ヨーロッパ側の街、ヤリポリを占領し、それを足掛かりにヨーロッパに侵攻をはじめる。
当時、オスマン帝国を抑え込む力をビザンツ帝国はもっていなかった。

 その後もオスマン帝国はブルガリア、セルビア、ハンガリー、を破り、バルカン半島を北に勢力を拡大していった。

 大航海時代のポルトガル出身のスペインの航海者マゼランの世界一周航路の達成でヨーロッパとアジアの交易の盛んになり地中海の重要度も増している。
 地中海に面しているオスマン帝国とスペインのハプスブルク家との地中海の制海権争いで長く戦った。

  オスマン帝国は、ハンガリーにまで勢力をのばし、オーストリアにも迫っている。これを黙って
見過すわけもなく、ヨーロッパの大帝国ハプスブルク家の登場だ。

 日本は、島国で鎖国もできたがすべて、国内の出来事、一度鎌倉時代にモンゴル軍らしきものに攻められたが神風という風に助けられたようだが他国は大変だ。

 イスラム教からキリスト教の
聖地を取り戻そうと十字軍の派遣との戦い、モンゴル軍も西方進出の戦いと。
オスマン帝国も623年も続いた。

  第一次大戦でオスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアの連合国に敗れた。
途中、ロシアはロシア革命で手を引いた。

 徳川家康の世も260年も続いたが623年とはね。
急な山道を船が山越えをして奇襲で勝ったオスマンの写真も見たが信じられなかった。

 権力は永遠に続かない。
歌にもあるように、飛んでイスタンブールに行ってみたいものだ。

  次回はパレスチナについて
書いてみようと思います。
少しは勉強します。
よろしくお願いします。
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富士の山いいなあ! (連載―458)

2023年03月14日 | 言葉
日本に生まれてよかった。寒い寒いと言っていたら、ポカポカさくら日和、富士の山とは30年ぶりにお目にかかったが、いいなあ!
 子供が連れてきてくれたが冥土のみやげのようだ。
 富士の山を眺めたり、桜を花を眺めたり、楽しみが盛り沢山だ。

菜の花のおひたし摘みも、田舎ものの妻が得意だ。
妻が都会の人と結婚したつもりが、まさか、おとぎの国の田舎者の私と結婚したと嘆く。
昔は良かった、昔はよかった。とご年配の口から耳にする。だったら、昔に戻ればと思うのだが進歩は許してくれない。進歩が常に影のようについてくる。

  今日の夜空を見たら、お月様が満月のように丸く見えた。

ところが、月の裏側の顔を見たことがないと言う。ということは私が生まれて71年間、見た月の顔は表側の顔で裏側を顔を見たことがない。
月は1回転するあいだに、地球に対して常に同じ面を向けて自転していることになる。
つまり、地球が一回転したら、月も一回転することになる。
隕石(いんせき)も地球から見える月の表側には、地球に守られているために隕石があまり衝突していないのに対し、守られていない裏側には、隕石が落ち無数のクレーターが残されている。それで裏側を見ようと月探査を始めたのだろう。

   お月様の顔が日本では「ウサギが餅をついている」、インドでは「ワニ」、中東では「ライオン」、ヨーロッパでは「カニ」、アメリカでは「女性の横顔」など、国によって見方が違う。

マザーテレサが その日も食べることができない親子にために持ち合わせの少しのお米を差し上げた。母親は、外に向かい、そのお米の半分を苦しんでいる別の親子に持って行った。
マザーテレサはその母親に聖母を見たようだ。

私は飼っていた愛犬が亡くなる一周間前にはお世話になった方々にあいさつ回りをし、何時間前には亡くなることを目で私に知らせた。

信じられないがお宅の子(愛犬)が来ていたと近所の方に教わった。人間でもない犬に慈悲を教わった。

古新聞の破って、松の木の枯葉の上に木を添えるとマッチに火をつけ、古新聞から火が木に燃え移り熱い炎にあたっているうちに白い泡を膨らましておいしいごはんができる。

 今は、出来上がる時間をセットしておけばすべて自動でごはんが出来上がり、忙しい昨今、別のことができる。

昔は良かった。と言ってもごはんが出来るまで火から離れられない。

   東京、大阪間、便利になり日帰りで仕事もでき便利になったが早くなった分、忙しくなった。
現在人は時間を有効に使って寸暇(スンカ)を生きている。頑張れ、頑張れと歌にもあるように頑張るしかないようだ。
   
「姥捨て山」(おばすてやま)の長野県の民話を思い出した。

私の田舎(和歌山)にも「ハイゼン婆婆―」という山があった。
昔は食べる物もなく、口減らしのために、こんなことがあったのだろう。こんな話、頭の片隅に置いていただければ幸いです。
こんな話らしい。
 「昔、年よりの大きらいな殿様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てると」というおふれを出しました。
殿様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。


男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。
年寄りは捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。
子を思う親のやさしい心にふれた男は、殿様の命令にそむく覚悟を決め、母親を家につれて帰りました。

アメリカの脱脂粉乳で育った私は牛乳は貴重だ。ビンの紙のふたを4分の一にちぎってちびちび飲んでいた。

酪農業者が牛乳が余って、大量に処分していた。政府はミルクの処分どころか、乳牛を一頭につき、補助金を出して殺処分するという。
食品ロスも多く日本もほとんど輸入に頼っている。賞味期限も衛生の問題もあるだろうが、生産者には欠かせない。

未来は人間様も殺処分されるんじゃないかと警戒している。
 
 子らと見た。河口湖から初めて見た富士の山はよかった。
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気楽にいこう (連載ー417)

2022年08月12日 | 言葉
都会の人、みんな賢く見えた。
みんなと言うから、私が最低だ。

 忘れもしない、日比谷図書館に行ったとき、腹が空いているから臭いに敏感だ。入ると下からカレーのにおいがプーンと鼻をついた。
何をするために来たのを忘れ、臭いのする方に引き寄せられた。
 ふと気づいたら、持ち合わせもないし、2階の自習室に階段を上った。

シーンと物音一つも聞こえない賢そうな人が厚い漫画の本をひろげて読んでいた。

よーく横目で見ると、象形文字のようなものを読んでいた。

 腹が空いたので、臭いのした地下に降りて行ってかけうどんを七味をいっぱいかけて食べた。

 その日は、帰った。今度は少年漫画にカバーをして難しそうな秀才に見せることを考えていた。
 
私は、西の国から来たもので東京の味はみんな辛い。
駅構内の立ち食いうどんでも醤油味で辛い。

 西の国は昆布味で薄い。
ある店に入って腐った豆をご飯の上にかけて食べると言うから、  

すいませんこれ腐ってるから取り替えてください。と言ったら笑われた。
 今では大好物な納豆との出会い話だ。

 追いつき、追い越せはしないがバイトもして6年も社会勉強をして、5年間サラリーマンを経験した。ヒヤヒヤものの人生だった。

 ビズリーチで姉の商売のお手伝いをさせられた。
それはそれは我儘な人で世間知らずで弱音を吐かなかった。銀座で40年もやらしてもらった。

 姉は、脳梗塞で死んじまった。私も14年前に脳溢血で倒れ、今もリハビリで看護婦さんによくしていただいている。
 40年前だろうか、銀座の泰明小の前の喫茶店で宮城久弥さんと原田実さんと逢った。

 実は、もう一店舗、銀座に出したくて姉と相談していた。

お二人とも、大スターとも知らず、宮城さんがカントリーの仕事というから、てっきりゴルフだと勘違いした。
姉はシャンソン歌手だから、これも化粧品と勘違いした。
お二人の出会いで本場テネシーにも行かしていただいた。
異国の友達も出来たが金も使った。
その時、話せなかったので、今は、英会話を気楽に聞いている。

宮城久弥さん、原田実さんとお会いでき、まったくの素人と演奏をしていただいた。
私の人生の大半を占めていた。
フィドル(バイオリン)プレーヤーだが歌手だった気がする。歌いやすかった。

 先日、思い出したのか宮城さんの奥様にご連絡してCDを送っていただいた。皆様にも聴いていただければ幸いです。
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