相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

3D(スリーディー)  (連載―405)

2022年06月28日 | 経験・体験
 下からみたり、上から見たり、右から見たり、左から見たり、右に傾けたり、左に傾けたり、物でもいろんな角度から見えたら物の形が見えてくる。
 丸いのか、とがったものか。四角いものか。三角のものかも。わかってくる。
 
3D(スリーthree-dimensional」あるいは「three dimensions」の略語であり、「3次元」を意味するらしい。

 テレビでも物の価値を鑑定するにしても、鑑定人が白い手袋をしていろんな角度から見て判断しているが
世の中には見世物も多く出回っているようだ。
 
 私は64歳になって、かつて、手を付けなかった歴史を知ろうと年表を見た。

 石器時代から縄文時代、弥生時代と私の昭和時代に来るまで100年は係りそうだから、
興味のある人とか出来事を飛び石で知ろうとした。
 
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の武将から手をつけた。

 織田の殿様は狩りにでたとき、親鳥が薄暗いうちに、巣から飛び立ち、小鳥たちの食べ物を探しに出かける。
 親鳥にとって、巣を発見されないのが家族の安全を保つ必須だ。
 
鳥は夕方にもなれば家族の夕食をゲットしたら、出来るだけ早く巣に届けて、お腹の空かした小鳥に食べさせようと
朝は遠回りして巣から飛び立ったが帰りは一番近道のコースで巣に帰る。

 それに気づいた信長は狩りの名人だったようだ。 
うつけ(ばかもの)の信長だったらしいが見るところがちがうのかな。

猿の豊臣秀吉は懐(ふところ・胸)に草履を温めて気を惹いた。

鬼門(北東・日光)に己を置いて長期徳川の世を築いた徳川家康。

 京都の都の西の方角には気づかなかった。毛利さんという武将がいたことも。東の方角ばかり気にしていた。
 
不思議だ。人を知り、世の出来事を単品で知ったら時代が繋がった。
のちに時代から時代が繋がった。

 私も少しは頭も良かったらそんなに4年もかからないだろうに未だに繋がらない。
 ガンジー、毛沢東、・・・とかまだまだ知らないことが多すぎる。
へ~そうだったのってね。
 
誰から聞いたのか歴史は勝者の歴史と聞いたが勝ったものが,かっこよく書き残したと聞くと表の歴史と裏の歴史があることも想像する。

表の歴史があって、裏の歴史が、裏の歴史があって、表の歴史が面白い。
あえて、歴史を書き換えることはない。
あなたがわかっていれば。

織田信長にこだわるつもりはないが、圧倒的な戦力の差もあるのに桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、敵の大将の首だけをとることで勢力を拡大した。

今川義元ただ一人の首を取るには多数の軍勢は目立つ、相手のおごり、油断をあのうつけ(ばかもの)だから察知できたのか?
。 
3Dで世界地図を見ればアフリカもアメリカ大陸もヨーロッパも、なんだこんな近くだったの。

日本はひろい太平洋で地球を見ている。3Dで地球を見られれば
アフリカも近くにみえるのに。
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読み書きそろばん  (連載―404)

2022年06月25日 | 経験・体験
村にたった一軒の塾、大きなそろばんがどこからも見えた。

 もう使わなくなった建物にゴザ(畳のようなわらの入ってない薄っぺらな敷物)を敷いて教室らしく見立てていた。

 長いこと、座っていると足が痛くなる。
 
村の寄り合いで大人たちは難しいことを話し合っていた。

 私の明治生まれのおばあちゃんも大正生まれの父も筆で几帳面に書いていた。
ところが、私には達筆すぎて読めない。

 大人は読み書きそろばんと言われるが、農家でも肥料の量とか、反あたりの収穫量を計算していた。
 昔は、雑貨屋さんの商売している方も多く、おばあちゃんが、そろばんを使って商売していた。

 本来の意味は、 「読む」とは、相手の伝えたいことを正確に読み取ること。
「書く」とは、自分の伝えたいことを正確に表現すること。
「そろばん」とは、数字をきちんと把握し、正確な答えを出すことだそうです。
 
さすが、寺子屋の名前は聞いたことがあるが寺子屋はなかった。

聞くところによると、男女共学だったようだが女性にも教育の機会を与えられていた。

もし、私の村に女性がいなっから、農業も商売も成り立たないだろう。

こんな村にも生徒が3人だったとしても何人か先生が来てくださり教えてくれた日本の教育制度には感服する。

江戸時代、日本は世界で最も高い識字率で5割程度もあり、

漢字とひらがなをバランスよく使われていた。

ひらがなは奈良時代、使われていた万葉集 を参考に平安時代の貴族が使っていた。

民衆は江戸時代からのようだ。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と福沢諭吉の学問の進めだが、人は平等でありたいが平等な世界はありえない。だから学ぶことを勧めたのだろう。

「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」の徳川家康も江戸(東京)の町を一から作った。

誰が標準語を、誰が初等教育を作ったかのか知らないが、学問の勧めがはかられた。

誰かが大きな声で言っていた漢字の字を間違えるなと。

明治生まれのおばあちゃん、大正生まれの父の筆字は私には真似できない。
読み書きそろばん、(読み書き算盤)も教わりたいものだ。

はるか昔ようだが父も母もいない。
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Hey, You Know What? I started studying English conversation (連載ー403)

2022年06月23日 | 経験・体験
 バカだなあ、今は日本語をフランス語でもドイツ語でも通訳してくれる便利なアプリがあるの知らないの?
ほんとだ!便利どころか私よりはるかに賢い。

外人だけなら、知っている単語をならべて身振り手振りで意思疎通も出来ると思うのだが、
その中に、一人でも日本人がいればテストされているようで萎縮する。

「外人」という言葉も戦後アメリカ兵を屋根裏から覗いていた私だけの、なごりのような気がする。

現在は、英国、ドイツ、フランス、アジア、インド、アフリカ、の方々も身近に見られる。

私の外人はアメリカ兵だ。
かつて、アメリカに、なんども行く機会をいただいたが言葉が話せない聞き取れない。

なんだ,ほとんどが簡単な単語で話されている。

サッカー選手でもイタリア語でインタービューに流暢に話されている。
かつては、通訳を介して話されていたが、さすが、生の醍醐味だ。
言葉の壁を感じない。

聞くところによると、昔、田舎の山にB29(第二次世界大戦当時のアメリカの爆撃機)が墜落してそこに教会が建ち、よくお参りにきていた。

私の家の前の道をバイクに乗って通り過ぎていた。大人に見つかれば殺されると言われていたので屋根に上って恐る恐る通り過ぎるのを覗いていた。

そんな噓のような体験もあり、
外人は怖かった。
 EnglishアレルギーどころかEnglishしか目に入っていない。

 ドイツ語はプライドが高いし、フランス語は私にセンスがないし難しそう。

 中学の頃からEnglishに馴染んでいるからなんとかなるかも。

Hey, You Know What?
I started studying English conversation
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近江商人の「三方良し」    (連載―402)

2022年06月20日 | 言葉
長男が42歳、私が70歳。
見て見てと新築を建てている現場を見に行った。

 天井が高くて最初に気に入った。
目的は今は使っていないピアノをリビングに運んでやりたくて床の補強をする工事の打ち合わせに来た。
今は重いピアノは要らないだろうと判断した。鍵盤は同じだが電気で音がなる。便利でもっと軽いピアノがある。

長男の携帯に担当者が書類を渡したいので40分ほどお待ち願いたいと連絡だ。
 私は孫と遊んでいるので待つことは問題なかった。

 あっという間に時間が過ぎ、途中、担当者から車の渋滞の報告もありお会いできた。
お歳は50半ばに感じた。
 地味な様相で、黒いカバンの中から書類をとりだした。
 名刺も妻と2枚頂いた。目線も商売気もなく一連の仕草は地味に感じた。
 後で、長男から聞けば、この会社のレジェンドだそうだ。
 
昔、浅草の寅さんの映画で観た近江商人の「三方良し」を思い出した。
 70年生きているが「三方良し」はどういう意味なのかわからなかった。

 大岡越前守忠相の「三方一両損」の古典落語で聞いたことがあったが、「三方良し」は知らない。

 「三方良し」とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍していた近江商人が持っていた経営理念のことらしい。

近江商人は大坂商人や伊勢商人と並んで日本三大商人と呼ばれ、非常に繁栄していました。

三方良しとは、「売り手、買い手、世間の3つすべてにとって良い商売を心掛けるべし」という意味を持つ言葉のことらしい。
 信頼を得るためには、売り手と買い手がともに満足し、さらに社会貢献もできるのが近江商人であると考えていた。
 
彼らは、自分たちの利益ばかり考えるのではなく、ただ人のためにあるといってきました。
 そうして、蓄積していった信頼は、やがて、彼らに大きな利益をもたらした。
そこで得た利益は、今度は、学校の建設や橋の建設に無償で社会貢献しました。

 「WIN-WIN」の関係と聞いたが
要は、売り手と買い手がどちらも得をできる関係性のことですね
 
 信頼を得るには、売りっぱなしでなく使い心地などのフォローが大切で買い手の気持ちになって時間を策ことが出来ればいいのかも。
フォローの押し売りではないように。

 私の子供の家にしても、出来上がり、引っ越しの後でも訪問し買い物や学校の通学にしても道路の横断に気を付けて頂けるような些細なことにも気を使えれば人のつながりができる。

 一日でも二日でもそのための時間を作ることが大事だろう。忙しいかろうが時間はつくるもの。
笑顔は目に見えないようだ。

 あるとき、台風で近所で屋根の被害とか雨漏りの被害を訴えていた。

信頼できる業者を紹介してあげたら、一軒から二軒・・・と輪が広がった。「三方良し」の理念で、妻は感謝された。
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赤穂浪士、忠臣蔵(連載―401)

2022年06月17日 | 経験・体験
 古い、ふるい、実に古い。
私が和歌山の山奥から東京に来た頃は東京にもよく雪が降った。1969年ころだ。みんな生まれていないようだが、私の田舎にも雪が降った。

東京の暮れともなれば、忠臣蔵を思い出す。大石内蔵助47義士の仇討ちで、三波春夫さんの歌を聴いて満足して、除夜の鐘で暮れた。
 
赤穂浪士の討ち入り事件は、ず~と昔の話と思っていたが、320年前の江戸時代の話のようだ。

 昔の話は誰も聞きたくないだろうから、江戸時代にこんなことがあったんだって。

 兵庫の赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城の松之廊下で愛知の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事件だそうだが。
 
徳川第五代将軍の徳川綱吉が
浅野内匠頭の所領を没収し即日切腹を命じたが、吉良上野介はおかまいなかった。

 1年後、大石内蔵助率いる47義士たちが吉良上野介の仇討ちを果たし、首を取った。
 47義士の働きは、大衆は手放しで喜んだ。

徳川綱吉もあっぱれと賛同していたが、側用人(そばようにん、社長秘書のよう)の柳沢吉安が徳川幕府の権威を示すうえでも毅然としたお裁きを示した。

綱吉は28年余り将軍として在籍したが、柳澤は綱吉のお側用人としてとんとん拍子で出世した。
あまり、良いうわさがきかないようだった。

 綱吉と聞けば「生類憐みの令」でも知れ渡っているが、占い師から子供が授からないのは・・・と言われ令を出したそうだが鳥、貝、肉を食べるのを禁止され、井戸に落ちた猫を助けなかったので切腹、鳥を飼ってはならん。とかいろいろ動物の折衝禁止令が出された。

庶民は生活に四苦八苦していたので、犬、猫などに神経がまわらなかったのだろう。実に悪法だったようだ。

 綱吉は、徳川第三代将軍家光の四男で徳川の将軍には程遠かったが、計らいで将軍になった。
 そのお一人の水戸光圀は「生類憐みの令」に大反対だったが、柳沢吉安が事を治めた。

 益々、綱吉のご機嫌もよく、柳沢一族の繁栄に寄与した。

綱吉の「生類憐みの令」は綱吉の死後100年は廃止を禁じたが、綱吉の死後、悪法「生類憐みの令」が廃止された。

 ところで、赤穂47義士は本来なら首を斬られるのだが、世も幕府内でも助命の意見もあり、50日近く熊本藩など四大名家に預けられた。

 生き延びても中にはいい気になって恥をさらすものも出るやもしれない。

 武士として、切腹が最善の方法と御沙汰が出た。
 
大石内蔵助赤穂義士47名は切腹の後、高輪の泉岳寺に祭られ永久の眠りについたと聞く。

 私も泉岳寺には何回か行きましたが47士の石碑もあった。

 赤穂市と吉良町は仲が悪いと思っていたら、交流もあるという。
新幹線で吉良町を見つけた
かつて愛知県幡豆郡にあった町。 2011年4月1日に西尾市に編入合併された。

 観光でもいいから、泉岳寺に訪ねてください。夏は涼しかった。
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