ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

天狗党を追う~飯田から妻籠

2013-01-05 15:59:06 | 自転車
天勢勢は、和田峠での闘いの後、下諏訪から伊那路を下り、飯田を過ぎて、峠を越えて木曽路の妻籠、馬籠を通り、中津川に向かった。
天狗勢を追う幕府軍は、天狗勢が下諏訪を出て甲府へ向かうのではないかと予想していたが岡谷へ向かったことでその予想がはずれ、天狗勢が京都方面を目指しているのだとわかった。幕府は、天狗勢の行く先にある諸藩に討伐命令を出した。
しかし、どの藩も下仁田、和田峠で勝利した強力な戦闘力を有する天狗勢とは闘いを避けたいのが本音であった。そこで彼らは幕府に申し開きできるように、形ばかり戦う姿勢を見せ、実際には天狗勢に城下町を避けて間道を進んでもらい戦闘を避けて、天狗勢が去った後から大砲を打ち、いかにも追い払ったかのような対応をとった。また、伊那路には国学の影響もあり、尊皇を掲げる天狗勢には親近感を抱いていたためか、伊那路を抵抗もなく順調に進んだようである。
飯田を過ぎてから、天狗勢は梨子野峠を越えて清内路村、そして木曽路へとルートを変更する。
当時と同じルートを辿ろうと考えていたが地図にはその頃の梨子野峠の道は見当たらなかった。止むを得ず、さらに南下して国道256号を辿ることにした。国道が153号と分岐するところまでは交通量が多かったので、車道ではなく歩道をのんびりと走った。
歩道は段差があることがあり危険もあるから速度は出さない。
阿智川橋を過ぎて谷の右側を走ると、まだ紅葉の名残りがあるモミジが見えてきた。和田峠付近では紅葉は終わりかけて葉の色が褐色がかっていたのにこちらはまだ色が鮮やかだったので自転車を止めて眺めてみた。近くに寄ると紅葉も終わりかけているのがわかった。目が覚めるような鮮やかな紅葉は、私が住んでいる茨城県辺りでは寒暖の差が激しくないためか目にすることができない。東北や中部の山間部ならと期待していたのだが少し時期が過ぎてしまっていたようだ。天狗勢がこの辺りを通った頃は現代の暦ではおそらく12月末頃だったろうから、葉はすべて落ちて寒々しい雰囲気だったろう。
清内路峠、そして妻籠に向かう256号線は、平日だったので自家用車の観光客が少なく、走っているのは仕事の車とたまに観光バスくらいでとても走りやすかった。
途中、お腹が空いたので目についた店に入った。お勧めは何かと尋ねたらキノコ鍋だというのでそれを注文した。出てくるまで間に、店主に話を聞いたらもともとは下の街で料理店に勤務していたが父親の影響でこの清内路村でレストランを開いたという。彼の父親は昔イノシシや鹿の牧場をやっていたとかだが、今はイノシシも鹿もたくさん獲れるようになったという。メニューを見ると確かにイノシシや鹿の料理が出ていた。地元の肉屋ではイノシシや鹿の肉も普通に売っており、別に珍しいものではないらしい。鹿の肉が美味であるかはわからないが、場所によってずいぶんと食材に違いがあるのだと実感した。
しばらく待って出来上がったキノコ鍋は絶品であった。あまりに美味いので、主人に作り方を教えてくれと頼んだら気持ちよく教えてくれた。しかし、実はこの美味は、天然の土の香りがしているようなキノコでなければ絶対に出せないのだという。いくら調味料を使っても栽培ものでは深みがなく淡白な味になってしまう。天然物のキノコが山の腐敗土などから養分を摂って作り出す微妙に深みのある味は出さないとのことだ。
主人に峠までどのくらいか聞いたら自転車なら一時間もかからない、ここからは楽勝とのことだった。しかし、自転車乗りでない人のアドバイスはまったくあてにならない。かえって斜度がきつくなっていった。
清内路峠までは、左側に川を見ながらずっと上りが続く。川が深い谷を作り、その谷沿いに道があり、道沿いに集落が形成されている。集落といっても谷の傾斜地にあるため平地がほとんどなく、道路沿いに細長い家々があるだけだ。道路沿いから眺めただけだが、この地形からすると田圃を作ることはほぼ不可能であり、畑を作るにしても平地がないので農作物を作るのに厳しい場所である。
天狗勢が清内路村に泊まった時には村人はふだん滅多に食べない米を出してくれたらしい。あちらこちらで乱暴狼藉を働いたという噂のあった天狗勢が思いのほか規律正しく振る舞い、また、その考えに共鳴したからであろう。
清内路には飯田藩の関所があったが、何の抵抗をすることもなく天狗勢を通過させてしまったことから後に幕府から御咎めを受け、役人が切腹を命じられた。
清内路峠への道は傾斜が厳しく、戸板から負傷者が落ちそうになるくらい傾斜のため落とされないよう必死に戸板にしがみついたという話があるくらいに天狗勢にとっては難儀な道であった。
当時とはルートが変わっているが現代の清内路峠への道も傾斜が厳しい。
さすがに上清内路村を過ぎてからは何度か自転車を下りて歩いてしまった。
峠の手前の左側に公園がある。ここで天狗勢が隊列を整えたらしく、石碑が残されていた。つまり、上りがきつかったので隊列が伸びて乱れてしまったのだ。
清内路峠越えには、少し前まで古い国道を使うルートがあったようだが、現在は閉鎖され自転車でも通行ができない。現在は、トンネルで峠を越えて木曽路側に抜ける。
清内路トンネルの標高は1090mで峠そのものの標高が1192mだ。
峠を越えるのはどんな峠か期待が膨らむ。
多分、柳田国男の本だったと思うが峠を越えると違い世界が広がっているとあったような記憶がある。峠はあちらとこちらを分ける境界なのだろう。詩などにも山の向こうへの憧憬をうたったものが多い。
今の時代は道路が改良され、車などで峠や山を容易に越えることができるようになり、楽になった分だけ峠や山の境界の意味がなくなったように感じる。自転車で峠を越えるのは、向こうの世界への憧憬らしきものを感じたいのかもしれない。
峠にもいろいろあり、切り通しなどであればまだ峠を越えた感じがするが、トンネルは峠の下を通るから峠を越えた感じはなくあちらとこちらを眺めて思いに耽ることもできず峠を越えた実感はない。
清内路トンネルは新しくトンネルの中では走りやすい部類に入るのだろうけれども、やはりトンネルであることには変わりなく、1614mは長い。ごぉおおおおお。怪獣が近づいてくるようだ。自動車の音がトンネルの壁に反響し増幅されるので、心理的にはものすごく怖い。
トンネルを抜けると、真ん前に山が現れる。南木曽岳だ。標高は1679m。てっぺんに雪をかぶって綺麗だった。
下りの傾斜がきつくなる。どんどんと速度が出てしまうがどんな路面かわからないのでブレーキで減速しながら下りていく。
途中に木地師の里が現れた。
せっかくだから何か土産になるものでもと考えてある店に寄ったのだが留守を預かる犬だけがワンワンと吠えるだけで主が不在だったので買うのを諦めた。
そこからさらに下った。えんえんと下った。下りながら、これだけ下ったら次はどのくらい上りがあるのだろうかと考えて、暗い気持ちになった。下りも傾斜がきついと盆地の底に向かって落ちていく感じがする。
いくつかのカーブを過ぎてさらに下るとやっと妻籠が現れた。
この辺りは相当に山深く、天狗勢が通過した頃にも1000名もが宿泊したり、食事ができる村もはなく、天狗勢は妻籠、馬籠、落合に分宿している。