和田峠を下ると,途中で新道にぶつかる。
新道を下る途中の右側に西餅屋村跡がある。これは新道を少し入ったところで中山道の道である。天狗勢はこの道を下ってきた。
西餅屋の茶屋の跡。
ここには4軒の建物があったらしい。
天狗勢が着いたときには,松本藩や高島藩によりこのあたりは焼き払われていた。
西餅屋をさらに下ると樋橋村に入る。
この村は諏訪への下りの途中にある。
高島藩と松本藩は,樋橋村の端にある山の神の森といわれるあたりに陣を構えた。
当初,松本藩は東餅屋村で天狗勢を迎え撃とうと考えていたが,高島藩からの熱心な説得によりこの地で共同戦線をはったのだ。
彼らにはおよそ1000名の兵がおり,天狗勢とほぼ同数であった。
この地に,天狗勢からの攻撃から身を守るために木を切り倒し,土を盛り,障壁を作ったようである。
峠からの下り道は幅が狭く,少人数でしかおりてこられないので,そこを狙い撃ちにしようと考えたのだ。
峠を下ってきた天狗勢側から見ると,谷間の細い道を下っていき,少し広くなったと思ったところに高島藩,松本藩が陣地を設けて身を隠しながら狙い撃ちしてくると見えたろう。
この案内板は,激戦が行われた場所の入り口付近に立っていた。
戦死者を弔うための石碑。
和田峠での戦いの100年記念の碑。
奥に立てられていた浪人塚の碑と案内板
この戦闘で死亡した天狗勢の3名の塚と石碑。
天狗勢の死者は7名,負傷者は多数であった。
松本藩の戦死者は5名,高島藩は6名。
塚と石碑の全体。
塚と石碑は,松本藩,高島藩が陣を構えた場所の天狗勢(山から下ってくる)に対して左側にある。
この塚の後ろに傾斜地があるが,傾斜地はずっと上まで続いている。後に述べるように天狗勢はこの傾斜地の上を気づかれないように迂回して攻撃をした。
松本藩,高島藩の陣地から見た天狗勢が下ってきた道。
現在は,自動車が通れるように拡幅されているが,当時は細い道であったろう。
その谷間の道を歩いてくる天狗勢を狙い撃ちしようとした。
下ってきた道へ近づいてみた。
下ってきた道へさらに近づいてみた。
戦闘は午後3時頃に始まり,膠着状態となった。
西日が松本藩,高島藩の向こうに落ちて,天狗勢からは狙いが定まらなくなった。
軍師山国兵部は,このままでは勝利できないと考え,作戦を立て直した。
松本藩,高島藩の陣の両側にある山を迂回させて挟み撃ちにする作戦である。
そのため,気づかれないように,正面からの攻撃をはげしくさせ,両側に迂回させた。
迂回した軍勢は,沢を渡り,急傾斜地をのぼり,左右後方付近に回り込むことに成功した。
ほぼ3方向から挟み撃ちにされた松本藩,高島藩の軍勢は総崩れになった。
松本藩,高島藩は,ここに陣を築くときに左右の山が急峻であることから天狗勢が左右から回り込むことは予想せず,正面から攻撃することだけを考えていたのだ。
この写真は,松本藩,高島藩からすると左側の山の斜面の一部を撮影したもの。
この写真は,松本藩,高島藩からすると右の山の斜面の一部を撮影したもの。ここも傾斜がある。この後ろをそっと迂回して天狗勢は攻撃を仕掛けてきた。
樋橋村のはずれから,戦闘のあった地域を遠めに撮影したもの。真ん中に白い建物が建っているが,その左側のあたりが戦闘のあった地域。
両側が急峻な山に囲まれた谷あいの土地であることがわかる。
天狗勢は正面の細い道を強行突破しようとしているように見せかけ,注意を正面に引きつけて,両側から回り込んで奇襲攻撃を加えたのである。
下仁田で戦闘があったのは,11月16日であり,和田峠で戦闘があったのは11月20日のことであった。
わずか4日間の間に,休む間もなく峠を越えて行軍し,2度の戦闘をしたのだ。
下仁田戦争での軍師山国兵部の戦術と和田峠の戦術は共通していることがわかった。
いずれも,両翼を突く奇襲攻撃で勝利を手にしている。
奇襲攻撃が成功したのは,戦闘が行われる土地について地元民の話を聞き,相手が予想もしない山などの地形を利用して奇襲したことにある。
新道を下る途中の右側に西餅屋村跡がある。これは新道を少し入ったところで中山道の道である。天狗勢はこの道を下ってきた。
西餅屋の茶屋の跡。
ここには4軒の建物があったらしい。
天狗勢が着いたときには,松本藩や高島藩によりこのあたりは焼き払われていた。
西餅屋をさらに下ると樋橋村に入る。
この村は諏訪への下りの途中にある。
高島藩と松本藩は,樋橋村の端にある山の神の森といわれるあたりに陣を構えた。
当初,松本藩は東餅屋村で天狗勢を迎え撃とうと考えていたが,高島藩からの熱心な説得によりこの地で共同戦線をはったのだ。
彼らにはおよそ1000名の兵がおり,天狗勢とほぼ同数であった。
この地に,天狗勢からの攻撃から身を守るために木を切り倒し,土を盛り,障壁を作ったようである。
峠からの下り道は幅が狭く,少人数でしかおりてこられないので,そこを狙い撃ちにしようと考えたのだ。
峠を下ってきた天狗勢側から見ると,谷間の細い道を下っていき,少し広くなったと思ったところに高島藩,松本藩が陣地を設けて身を隠しながら狙い撃ちしてくると見えたろう。
この案内板は,激戦が行われた場所の入り口付近に立っていた。
戦死者を弔うための石碑。
和田峠での戦いの100年記念の碑。
奥に立てられていた浪人塚の碑と案内板
この戦闘で死亡した天狗勢の3名の塚と石碑。
天狗勢の死者は7名,負傷者は多数であった。
松本藩の戦死者は5名,高島藩は6名。
塚と石碑の全体。
塚と石碑は,松本藩,高島藩が陣を構えた場所の天狗勢(山から下ってくる)に対して左側にある。
この塚の後ろに傾斜地があるが,傾斜地はずっと上まで続いている。後に述べるように天狗勢はこの傾斜地の上を気づかれないように迂回して攻撃をした。
松本藩,高島藩の陣地から見た天狗勢が下ってきた道。
現在は,自動車が通れるように拡幅されているが,当時は細い道であったろう。
その谷間の道を歩いてくる天狗勢を狙い撃ちしようとした。
下ってきた道へ近づいてみた。
下ってきた道へさらに近づいてみた。
戦闘は午後3時頃に始まり,膠着状態となった。
西日が松本藩,高島藩の向こうに落ちて,天狗勢からは狙いが定まらなくなった。
軍師山国兵部は,このままでは勝利できないと考え,作戦を立て直した。
松本藩,高島藩の陣の両側にある山を迂回させて挟み撃ちにする作戦である。
そのため,気づかれないように,正面からの攻撃をはげしくさせ,両側に迂回させた。
迂回した軍勢は,沢を渡り,急傾斜地をのぼり,左右後方付近に回り込むことに成功した。
ほぼ3方向から挟み撃ちにされた松本藩,高島藩の軍勢は総崩れになった。
松本藩,高島藩は,ここに陣を築くときに左右の山が急峻であることから天狗勢が左右から回り込むことは予想せず,正面から攻撃することだけを考えていたのだ。
この写真は,松本藩,高島藩からすると左側の山の斜面の一部を撮影したもの。
この写真は,松本藩,高島藩からすると右の山の斜面の一部を撮影したもの。ここも傾斜がある。この後ろをそっと迂回して天狗勢は攻撃を仕掛けてきた。
樋橋村のはずれから,戦闘のあった地域を遠めに撮影したもの。真ん中に白い建物が建っているが,その左側のあたりが戦闘のあった地域。
両側が急峻な山に囲まれた谷あいの土地であることがわかる。
天狗勢は正面の細い道を強行突破しようとしているように見せかけ,注意を正面に引きつけて,両側から回り込んで奇襲攻撃を加えたのである。
下仁田で戦闘があったのは,11月16日であり,和田峠で戦闘があったのは11月20日のことであった。
わずか4日間の間に,休む間もなく峠を越えて行軍し,2度の戦闘をしたのだ。
下仁田戦争での軍師山国兵部の戦術と和田峠の戦術は共通していることがわかった。
いずれも,両翼を突く奇襲攻撃で勝利を手にしている。
奇襲攻撃が成功したのは,戦闘が行われる土地について地元民の話を聞き,相手が予想もしない山などの地形を利用して奇襲したことにある。