甲府に用事があり、出かけたついでに武田信玄を訪ねるポタリングをした。
長距離ではないので、ホテルでゆっくりと朝食を食べ、朝8時頃に出発した。
事前にちゃんと地図を準備していなかったので、方向を勘違いして逆方向へ1kmほど走り、方向が違っていると気がついて戻る。
仕事が忙しかったので、事前にろくな準備ができなかったのだ。
甲府の街へ行けば、ホテルで観光案内地図がもらえると思っていたのだがちょっと甘かった。
しかたがないので、iPhoneで検索をして、甲府の観光案内を表示して甲府の観光案内のHPを開き、武田信玄に関係するところを回ることにしたのだ。
とりあえず、3kmほど離れた甲府駅へ向かい、近くにある武田神社を訪ねることにした。
この神社は、躑躅ヶ崎館の跡地( 武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神としている。
常陸太田が佐竹の街であるのに対して甲府は武田の街なのだ。
江戸時代になる前、佐竹氏が秋田へ移封され佐竹の時代が終わりをつげた。
甲府も同じように武田の街が江戸時代前に終わっている。
織田信長に武田が滅ぼされて、その後、江戸時代には徳川の直轄地になった。
水戸も佐竹から徳川へと変わったので、似ているともいえる。
常陸太田の街を理解するには佐竹の歴史を学ぶのが出発点になるのだが、武田の歴史を学ぶことが甲府の街を理解することにつながるだろう。
甲府駅の北口から武田神社を目指す。
さすがに盆地の街である。
武田神社への道路に緩やかではあるが傾斜があり、上り坂になっている。
甲府は7~800mクラスの標高の山に周りを取り囲まれている。
武田神社に到着すると、平日であったので、ときおりバスのツアー客が現れるが、あまり観光客はいなかった。
おかげで落ち着いた気持ちで参拝することができた。
武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎によって築かれた。その後、信玄・勝頼と武田三代の本拠地として使用された。この館は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であった。曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設されていったという。
その後、天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したという。
赤い橋を渡り、正面の階段を上ると鳥居がある。
神社の全体像がわかる。
鳥居をくぐり、すぐ右に桜がある。太宰治は甲府にも滞在していたという。そういえば、1ヶ月前に訪れた竜飛岬にも太宰治が滞在した旅館があった。太宰治には、縁があるようだ。中学生の頃に、走れメロスに感動して、人間失格を読み、衝撃を受けたことを思い出した。中学生の頃の自分にとっての太宰の衝撃はものすごく、その後、太宰治に触れてはいけないような気持ちになってしまい、ずっと避けていたことを思い出した。
風格を感じさせる建物。しかし、社殿ができたのは大正8年頃で新しい。どうして、大正になるまで武田信玄公が祀られなかったのだろうか。背景には、武田家と徳川家の関係などががあるのだろうか。
さざれ石。おそらく日本で最大のものではないだろうか。4トンもある。別名は亀石といわれるらしい。右側の上のところが亀の頭であり、下のところに前足があるように見える。ちなみに、さざれ石が置かれたのは2012年なのでつい最近のことだ。
井戸。今でも水が飲める。柔らかな味だった。
能の舞台があった。
水琴である。
塁が残されている。武田信玄の頃の時代のままだ。
当時の井戸が残されていた。覗いてみたが、濁っていた。この井戸は使われていない。
単なる神社ではなく、城跡であることがわかる。
水堀。
征清紀念碑
武田信玄公とは関係はないのだが、日清戦争に関する塔だ。なぜ建てられたのかというと、日清戦争において山梨県から二千余人が従軍し、死者百有余人という壮烈な戦いであったことから、この碑を建立したらしい。
長距離ではないので、ホテルでゆっくりと朝食を食べ、朝8時頃に出発した。
事前にちゃんと地図を準備していなかったので、方向を勘違いして逆方向へ1kmほど走り、方向が違っていると気がついて戻る。
仕事が忙しかったので、事前にろくな準備ができなかったのだ。
甲府の街へ行けば、ホテルで観光案内地図がもらえると思っていたのだがちょっと甘かった。
しかたがないので、iPhoneで検索をして、甲府の観光案内を表示して甲府の観光案内のHPを開き、武田信玄に関係するところを回ることにしたのだ。
とりあえず、3kmほど離れた甲府駅へ向かい、近くにある武田神社を訪ねることにした。
この神社は、躑躅ヶ崎館の跡地( 武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神としている。
常陸太田が佐竹の街であるのに対して甲府は武田の街なのだ。
江戸時代になる前、佐竹氏が秋田へ移封され佐竹の時代が終わりをつげた。
甲府も同じように武田の街が江戸時代前に終わっている。
織田信長に武田が滅ぼされて、その後、江戸時代には徳川の直轄地になった。
水戸も佐竹から徳川へと変わったので、似ているともいえる。
常陸太田の街を理解するには佐竹の歴史を学ぶのが出発点になるのだが、武田の歴史を学ぶことが甲府の街を理解することにつながるだろう。
甲府駅の北口から武田神社を目指す。
さすがに盆地の街である。
武田神社への道路に緩やかではあるが傾斜があり、上り坂になっている。
甲府は7~800mクラスの標高の山に周りを取り囲まれている。
武田神社に到着すると、平日であったので、ときおりバスのツアー客が現れるが、あまり観光客はいなかった。
おかげで落ち着いた気持ちで参拝することができた。
武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎によって築かれた。その後、信玄・勝頼と武田三代の本拠地として使用された。この館は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であった。曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設されていったという。
その後、天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したという。
赤い橋を渡り、正面の階段を上ると鳥居がある。
神社の全体像がわかる。
鳥居をくぐり、すぐ右に桜がある。太宰治は甲府にも滞在していたという。そういえば、1ヶ月前に訪れた竜飛岬にも太宰治が滞在した旅館があった。太宰治には、縁があるようだ。中学生の頃に、走れメロスに感動して、人間失格を読み、衝撃を受けたことを思い出した。中学生の頃の自分にとっての太宰の衝撃はものすごく、その後、太宰治に触れてはいけないような気持ちになってしまい、ずっと避けていたことを思い出した。
風格を感じさせる建物。しかし、社殿ができたのは大正8年頃で新しい。どうして、大正になるまで武田信玄公が祀られなかったのだろうか。背景には、武田家と徳川家の関係などががあるのだろうか。
さざれ石。おそらく日本で最大のものではないだろうか。4トンもある。別名は亀石といわれるらしい。右側の上のところが亀の頭であり、下のところに前足があるように見える。ちなみに、さざれ石が置かれたのは2012年なのでつい最近のことだ。
井戸。今でも水が飲める。柔らかな味だった。
能の舞台があった。
水琴である。
塁が残されている。武田信玄の頃の時代のままだ。
当時の井戸が残されていた。覗いてみたが、濁っていた。この井戸は使われていない。
単なる神社ではなく、城跡であることがわかる。
水堀。
征清紀念碑
武田信玄公とは関係はないのだが、日清戦争に関する塔だ。なぜ建てられたのかというと、日清戦争において山梨県から二千余人が従軍し、死者百有余人という壮烈な戦いであったことから、この碑を建立したらしい。
甲府の武田信玄を訪れる旅、興味深く読ませていただきました。関西に住んでいると知己でもない限り山梨県を訪れる機会ってそうそうないので、自分で旅行している気持ちで躑躅ヶ崎館跡見物を楽しめました。
関西では信玄の息吹きらしきものはほとんど感じられないので、館跡などの遺物はさながらお伽噺を聞くような不思議な感じもします。