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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

遠くで汽笛を聞きながら

2006年04月29日 | ことば・国語
以前、公文の本部で教材を作っていたとき、国語教材のこんな表現が気になって仕方ありませんでした。

「遠く汽笛が聞こえる。」

使われている単語は微妙に違ったかも知れません。
今の教材にまだあるのかどうかもわかりません。
しかし、この文、なんか違和感を感じませんか?

「聞こえ」ている場所は、今話者がいる所ですよね?
で、「遠く」の始点もそこだと思うんです。
すると「遠くで」「聞こえる」はおかしくないですか?


という疑問を当時の国語教材製作者にぶつけたら、「おかしくない」「「遠くで汽笛を聞きながら」という曲もあるじゃないか」という見解が返ってきました。
...かつてのアリスの名曲ですね。
私も大好きな曲です。

でも、これでは先の文が正しいという論拠に欠ける...と思い、私は納得しませんでした。
「汽笛が聞こえる」のと「汽笛を聞く」のとは、分けて考えなければいけないのでは...?

「汽笛を聞く」の場合、「遠くで」の始点を汽笛が鳴った場所と考えれば、辻褄は合います。
「遠くで無事を祈る」「遠くで見守る」などと同じですね。
もっとも、アリスの曲の場合、「遠くで」の始点は話者がいる場所と考えられるので、そうなるとこれもおかしい表現だと言えます。

一方「汽笛が聞こえる」では、「遠くで」の始点をどちらにとってもスッキリしないのです。
これは「遠く汽笛が聞こえる」、あるいは「遠くから汽笛が聞こえる」とすべきではないでしょうか。
「遠くで」を生かすなら、「遠くで汽笛が鳴っている」とするしかないと思います。

これは「聞こえる」のかわりに「見える」で考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
「遠くで富士山が見える」はおかしいですよね?
「遠くに」でしょう。
ただ、この場合は「聞こえる」と違って、「遠くから富士山が見える」も違和感がありますね。

いろいろ考えていたら混乱してきました。
「見える」には「聞こえる」よりも、can の意味が強く含まれている気がします。
同等に扱うのは間違っているのでしょうか?

そもそも、「汽笛が聞こえる」や「富士山が見える」の主語は「汽笛が」や「富士山が」と考えていいのでしょうか?
それとも「肉が好きだ」というときと同じように、主語は「私は」なのでしょうか?

どなたか詳しい方、教えてください。

p.s. アリスの名曲も「遠く汽笛を聞きながら」に改題することを提案します。谷村新司さん、よろしくご検討下さい!


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「すすむ」時計

2006年04月21日 | ことば・国語
前回に続き、教材に取り組んでいる生徒の様子を見て気づいたことをご紹介します。
今回は、算数のこんな問題について...。

「たかしの時計を正午ちょうどの時刻にあわせました。この時計を、正しい時刻で午後2時ちょうどに見ると午後2時8分でした。午後4時ちょうどに見ると、午後4時16分でした。つぎの問いに答えなさい。

 (1)たかしの時計は1時間に何分すすみますか。」

正解はもちろん「4分」ですね。
正午に合わせたのに、2時間で8分「すすんだ」のですから、1時間では4分「すすむ」ことになります。

ところがこの問題、小6でもほとんど正解者がいません。
2時間分を「1時間あたり」に換算するという考え方も難しいのかも知れませんが、それ以前に問題文の意味を取り違えている子が多いのです。

「64分」と書いてくる子が結構います。
この時計が、午後1時には「1時4分」を指していたということはわかっているのです。
つまり「すすむ」の意味を誤解しているんですね。
針が何分ぶん「動いたか」と解釈しているのです。
それなら、1時には12時から「64分」ぶん動いているのですから正解です。

考えてみれば、今の時代、時計が大きく遅れたり進んだり...ということは経験していないのかも知れません。
我々が子どもの頃は、まだゼンマイ式の時計が主流でしたから、1日に数分遅れたり進んだりという代物も珍しくありませんでした。
それが今ではクォーツの力で、電池が切れない限り1日に1分も狂わない時計が普通になっています。
中には電波で自動的に時刻を修正するものまで...。

ということは、そもそも「時刻を合わせる」という行為さえ、極端に少なくなっているわけです。
昔はたとえば朝、居間の時計を合わせるのが子どもの役目、という家もあったのではないでしょうか。

子どもたちの日常で、1時間に4分も「すすむ」時計なんて考えられないのかも知れません。
問いの(2)ではさらに、午後6時には何時何分を指していたかを聞いています。
お昼に合わせたのに夕方で30分近く狂っているなんてねぇ...。

仕方がないので、この問題では「時計が壊れていて8分「ずれた」ということだよ」という助言をしています。

問題文も時代に合わせないといけない部分がありますね。
それにしてもこの問題、「おくれる」方にしてくれれば「動く」と誤解することはないと思うのですが...。
今の時計でも、電池がなくなってきて遅れることならあるだろうし...。


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「てきとうな」文

2006年04月17日 | ことば・国語
小学生の国語で、どう考えても間違うはずのない問題が、すべて×の子がいました。
内容は、文の途中に入る言葉を2つの選択肢から選ぶだけのもの。
たとえばこんな感じです。

「ものがきえただなんて、おかしな〔ア・話 イ・本〕があるものだ。」
「たこあげ大会で、お父さんが作った大きな〔ア・はこ イ・たこ〕をぼくはあげました。」

    
無学年制の問題集で、やっていたのは6年生。
やや国語が弱いとはいえ、レベル的にはスラスラできて当然の問題です。
ところが、みごとに全部逆に答えているのです。
思わず「えーっ!?...なんで?」と固まってしまった私...。

問題文を読んで「アッ」と気づきました。
「てきとうな文になるよう、...」

彼女は「てきとうな」を、「ふさわしい」という意味ではなく、「いい加減な」という意味に解釈していたのです!
だから自信を持って、いい加減な方(間違いの方)を答えていたんですね。

考えてみればこの「適当」という言葉は、ほぼ正反対な2つの意味に解釈できる不思議な言葉です。
たとえば英語なら、全く違う単語ですもんね...。

上司から「適当に処理しといて」と言われたら、あなたならどう対処しますか?
上司との付き合いが長ければ、あうんの呼吸でどの程度の仕事をすればいいかわかるのでしょうが、そうでないと判断が難しい...。
ベストを尽くせとは言われていないけれど、あまりいい加減でも怒られそう...。

一方、使う側にとってはこんな便利な言葉はありません。
いわば相手に判断を丸投げしているわけですから...。
多くの場合、レベルの高い仕事は求めていないと思われますが、それなりに「ふさわしい」対処は期待しているようです。
この言葉の曖昧さをうまく使って、一言で両方の意味を含ませているんですね。

日本語には他にも、正反対の2つの意味に取れる言葉がありますね。
よく言われるのは、セールス電話を断るときの「結構です」「いいです」
相手は勝手に(というか無理やりに)OKの意味に解釈してしまいます。
断るときは、はっきり「いりません!」と言わなければダメです。

ともあれ、教材の問題文では自分の都合のいいように勝手に解釈するわけにはいきません。
判断を任されても困ります。
誤解の生まれないように「ふさわしい文」とか「正しい文」という表現を使ってほしいですね。


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カタカナの書き分け

2006年04月13日 | ことば・国語
先日の朝日新聞「声」欄に、高校の先生からの投書があった。
世界史を教えていて、生徒のカタカナの書き間違いが目につくと言う。
「レーニン」が「レーニソ」になったり、「クリミア」を「クリシア」と書いたりする高校生がかなりいるのだそうだ。
「リ」と「ソ」、「ワ」と「ク」の誤りも目立つと言う。

インプットのときに読み間違えている可能性は低いだろう。
活字はそれぞれの字が極力紛らわしくならないようできているはずだし、教わるときは音声の助けも多くあるはずだ。
つまり、カタカナを発音通りに書くことができないということになる。

言うまでもなく、カタカナは平安時代に漢字から生まれたものだ。
漢字の一部を簡略化したものであるため、漢字全体をくずしたひらがなと比べ、似たような字が多いのは確かであろう。
しかし、れっきとした日本語で小学校1年生で習う文字を、高校生がきちんと書き分けられないというのはどういうことか...。

塾生に注意することが多いのは「図」という字の中の「ツ」の部分だ。
「シ」に「ヽ」が交わっている例が意外と多い。
大人にも時折見かけるが、そう書かれるとバランスが悪い感じがしてどうも落ち着かない。

で、生徒に教えるときには、「ツ」と「シ」の書き方をひらがなとの関連で教えている。
ひらがなの「つ」は上部に横棒を書いてから、上から下にハラう。
「ツ」も同様に、上端が横に一直線になるようにそろえ、3画目は上から下へ
一方「し」は縦棒を書いてから、下から上にハネる。
従って「シ」も、左側が縦一直線になるようにそろえ、3画目は下から上へ
両方とも「一直線」を意識することで形が整いやすくなるのだ。

ひらがなやカタカナの元になった漢字は何か。
教科書などで初めの方(「あ」から「お」くらいまでor「い・ろ・は・に」くらいまで)はよく目にするが、すべてについて見たことはなかった。
今回この記事を書くにあたってネットで調べたが、意外に資料が少ない。
ここでは2つほど紹介しておく。
 →「カタカナの原字表」「ひらがな、カタカナの由来」

元になった漢字は、3分の2が双方共通である。
「つ」と「ツ」にしても、「し」と「シ」にしても、それぞれ原字は「州」(or「川」)と「之」で共通している。
ならば、私の教え方も理にかなっているということか...。

「ツ」と「シ」に関しては、原字に遡るより、ひらがなから考えた方が書き分けがしやすいと思う(実際の誕生はカタカナの方が先だが...)。
もう一組、「ソ」と「ン」も、ひらがなに関連づけた方が書きやすい(「ン」の方はひらがなとカタカナで原字が違うのだが...)。
「ク」と「ワ」の区別は原字(「久」と「和」)を参考にした方がよさそう。
「リ」と「ソ」は、ひらがなでも原字でも、どちらから考えても明確に書き分けられる。

ここまではまだ許せる方だ。
確実に書き分けができるコツを教える気もする。
しかし、「シ」と「ミ」に至っては、何をか言わんやである
この2つの字をどう書き間違うのか?
3画目は傾きが全く違う...1次関数ならプラスとマイナスの違いではないか!

ここではカタカナについて採り上げたが、もちろんひらがなや漢字でも似たような例はいくらでもある。
ケータイやパソコンで文字を「打つ」ばかりでは、自筆で文字をきちんと書き分ける能力は間違いなく退化していくだろう。

自分のメモ程度なら何だって構わない。
しかし文字には、人に正確に情報を伝えるという大切な役割があるのだ。
読む側のことを配慮し、誤解が生まれないよう、紛らわしい字は特に意識して書かなければならない。
冒頭の投稿の結び、「小学校での英語必修化よりもまず、正しい日本語を書けるように小中学校で指導が必要」という筆者の意見に大いに賛成である。


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ニッポン、チャチャチャ...

2006年03月25日 | ことば・国語
少し前の朝日新聞に「日本」の正式な読み方は「ニホン」か「ニッポン」かという記事があった。
会社名などの固有名詞から普通名詞まで、正しい読み方をコツコツと調べてあるHPも紹介されていた。
なかなかの労作で、これを見ているだけでもいろいろな発見がある。→「音訳の部屋」

会社名など、当事者間でも読み方がマチマチなこともあるそうだ。
「ニッポン放送」のようにかなで書いてくれれば混乱がないのだが...。

現在では圧倒的に「ニホン」の方が多いようだが、元来は「ニッポン」だそうだ。
かな表記が生まれた平安時代にはまだ促音の「っ」がなく、「にほん」と書いて「ニッポン」と読ませていた。
それをそのまま「ニホン」と発音する人が出てきたのではないかという...。
(そう言えばトキの学術名ってNipponia Nipponnでしたよね?...関係ないか...)

今、最も「ニッポン」が使われるのはスポーツの世界だろう。
先日のトリノ五輪やWBCでもそうだったように、国を代表した個人やチームが外国を相手に戦うときは、圧倒的に「ニッポン」だ。
「ニッポン、チャチャチャ...」「ニッポン代表」「がんばれニッポン!」etc....。
長野オリンピックのジャンプ団体のときも、「金メダルを獲りました、ニッポン!」というアナウンスだった。

朝日の記事では、「とっても」「すっごい」など「っ」を入れることで強調した感じになる例を挙げ、外国を意識したときに「ニッポン」になるのでは、という分析を紹介している。
確かにそういう面もありそうだが、政治や経済、科学などの世界ではどうだろう?
「ニッポン経済」はわりとしっくり来るが、「ニッポン政府」「ニッポンの医療」よりは「ニホン政府」「ニホンの医療」の方がなじむ気がする。

スポーツの世界で特に「ニッポン」が優勢なのは、外国を意識することの他に、やはり「ニホン」よりリズムが感じられることが大きく影響しているのではないか。
さらに、発音したときに感情を込めやすい、すなわち大声で応援する(or絶叫する)のに適しているということもあると思う。
「ニホン、チャチャチャ...」ではなんかマヌケだし、「がんばれニホン」も語呂が悪い。
「行け、ニホン!」より「行け、ニッポン!」の方が力が入るし、「ニッポン世界一!」の方がより感動的に聞こえる。


プロ野球の「日本シリーズ」も、正式には「ニッポンシリーズ」だそうである。
スポーツの世界では、大いに「ニッポン」を使えばいい。
しかし間違っても、国を強く意識させシュプレヒコールに向いている「ニッポン」という呼称が、戦争などに利用されてはならない。
軍歌では「ニッポン男児」的な表現が多いのではないだろうか...。


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敬語は難しい

2006年03月12日 | ことば・国語
私はこのブログの記事を書くとき、内容によって「デス・マス体」「デアル体」を使い分けています。
いや、「内容によって」と言うより、「気分によって」あるいは「書き出しの自然さによって」の方が近いかな...。

どちらの場合も文末表現に最も気を使いますね。
同じ表現があまり繰り返されないように、微妙に変えたりしています。
「デス・マス体」の中に、あえて「デアル体」を混在させることもしばしば...。
できるだけ読みやすい流れになるよう、苦労しているつもりですが、なかなか難しいときもあります。

毎月一度信濃毎日新聞に、信州大名誉教授の馬瀬良雄氏のコラムが掲載されます。
「言葉・コトバ」というタイトルなので、いつもブログのネタにならないかと楽しみに読んでいるのですが...。
今回は「ぎこちない敬語」という話題でした。
副題に「「マス体」最後以外は省いたら」とあります。

かかりつけの医院に、次のような貼り紙があったそうです。

「診察券を出されましてもお呼びしました時に居られない場合は後まわしになります。」

一読して「ぎこちない」「まわりくどい」と感じますね。
敬語の使い方もさることながら、読点の打ち方(一つもないので読みにくい!)、漢字と仮名の使い分けにも問題があると思います。

で、氏は受診を待つ間に、この貼り紙の文言をどう変えたらよいか考えたそうです。
いろいろ変えるべき所を解説している中で、中心になるのは副題にもあるとおり「マス体」の使いすぎ...。
記事の最後に氏の添削した模範例文が載っています。

「診察券をお出しになっても、お呼びした時においでにならない場合は、後回しになります。」

どうでしょう?
初めの貼り紙よりはずっと良くなったと思いますが、今度は「お」が多すぎるのが気になりませんか?
妻も私と同意見でした。

塾で教室だよりやチラシを作成する際にも、敬語の使い方に悩むことがよくあります。
特に「お」や「ご」が連続するのはくどい感じがして、何とか他の言い方にできないか工夫しています。
「ご家庭のご事情」は「ご」の付け過ぎなので「ご家庭の事情」にとどめる方がいいでしょう。
「ご遠慮なくご相談ください」よりは「お気軽にご相談ください」の方がなめらかです。

ということで、恐れ多くも信大名誉教授に対抗して、私なりの模範例文を...。

「診察券を出されても、お呼びした際にご不在の場合は後回しになります。」

これでどうだ!
...もっといいのがあれば、ジャンジャン送って来てください。


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「春」によせて

2006年03月04日 | ことば・国語
まさに三寒四温の日々ですが、信州でも着実に春が近づいてきています。
今週は久々に雪も降りましたが、昼には屋根からの雪解け水のポタポタという音がにぎやかです。
今年は全国的に、桜の開花も早めのようですね。

田舎、それも雪国に住んでいると、四季の移り変わりを否応なく強烈に実感させられます。
メリハリがあると言うか、極端と言うか...。
これは都会では味わえない特典だと思って楽しんでいます。

信州の四季に関して敢えて不満な点を挙げれば、秋が短すぎることかな?
ここ数年、特にそれを感じます。
やっと暑さが一段落したと思ったら、程なくストーブが恋しくなる...(トシのせい?)。
私の中では、当地の春夏秋冬の比率は2:2:1:3くらいです。

ところで「春」という漢字の成り立ちを知っていますか?
この字には「ぬくもり」「幸せ」「希望」「若さ」などのイメージを感じます。
昔の歌に「春という字は「三人の日」と書きます」というのがありましたが、これは関係ないでしょうね...。

元の意味を調べてみると、「地中に陽気がこもり、草木が生え出る季節を示す。ずっしり重く、中に力がこもる意を含む。」とありました。
う~ん、なかなか奥が深いですね...。
冬至を過ぎてからジワジワと陽差し地中に蓄積され、植物にエネルギーを与えていく...そして臨界に達すると、ここでもそこでも草木が芽吹き出す...。
そんな自然界のドラマが脳裏で展開されます。

動物たちにとっての「啓蟄」のイメージと同じですね。
虫たちは冬籠もり中、自分の発育限界温度とその日の最高気温(最低気温だったかな?)との差を積算していて、それがある値を超えると地上に這い出てくるのだそうです。
思わず、計算機を片手に持った虫の姿を想像してしまいますが...。

漢字の意味がわかったところで、次は語源についてです。
実はこの記事を書こうと思ったきっかけはこちらの方なんです。

春という言葉を耳にすることが多くなり、「はる」の語源に興味が湧いたのです。
ネットで調べればすぐわかるのですが、それでは味気ないので、その前に自分なりに考察してみることにしました。
で、真っ先に思いついたのが「張る」
植物も動物も、もちろん人間も、エネルギーがみなぎってくる季節なので...。
漢字の意味からも、風船がパンパンに張った状態が連想されますもんね...。

で、調べてみたらほぼ正解でビックリ!
「草木の芽が「張る」」から来ているようです。
他にもいくつか説があるようですが...。→語源由来辞典

ついでに「秋」も、木の葉が「赤くなる」→「あく」→「あき」ではどうかと気軽に考えてみたら、これも一説とはそう遠くないようです。
因みに「夏」と「冬」はお手上げでしたが...。

疑問を解決しようとする姿勢は重要ですが、すぐに答を得ようと情報を追い求めるばかりでは、結局は考えない習慣がついてしまうように思います。。
ときには疑問を持ち続けること、そしてそれを自分の頭で考え続けることも大切ですね。


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にしむくさむらい

2006年02月28日 | ことば・国語
はやいもので今日で2月は終わりだ。
ついこの間新しい年になったばかりだと思ったのに...。
昔、母から教わった「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」という言葉を思い出した。
年度末は本当に何かと忙しく、時の経つのが速く感じられる。

ところで2月はなぜ28日までしかないかご存知だろうか?
1年を約365日に収めなければならないのはわかるとして、他に31日まである月がたくさんあるのに、なぜこんな中途半端なことになっているのか...。
普通に考えたら365÷12=30あまり5だから、5ヶ月を31日までにして残りの7ヶ月を30日にすれば、こんな偏りは起きないはずである。

これについては、2年前に塾で暦に関する特別講座を実施したときに勉強した。
事の始まりは古代ローマまでさかのぼるのである。
詳しくはこちらを参照願いたい。→YOMIURI ONLINE 「ものしり百科」

閑話休題、塾で使っているオリジナル教材で、算数の問題を途中の考え方も含めてすべて文章にさせるプリントがある。
もとは私立や国立の中学の入試問題だが、それを解くだけでなく過程も論理的に書かせるよう加工してあるのだ。
対象は主に中学生。
当初の思惑としては、解くこと自体は難しくないので、このプリントで考え方を言葉にする説明力を鍛えるつもりだった。

ところが実際やらせてみると、説明の前段階の「問題を解く」ことで苦労する子も少なくない。
たとえばこんな具合だ。

最小公倍数などを駆使して、誕生日を当てる問題。
最終的に月と日を足して42という結果が出るのだが、ここから迷う子がいる。
正解はもちろん12月30日だが、「11月31日」もあるし...と悩んでしまうのだ!

え?!11月って何日まであるか知ってる?
と確認してみると、何月が何日まであるか、きちんとわかっている子の方が圧倒的に少ない。
4月が31日まであったり、7月が30日までしかなかったり、中3でもメタメタである。
そんなものなのだろうか...。

「これ知ってないと困らない?」と聞いても「別に...」である。
ま、今のところそうかも知れない。
今月が何日まであろうが、中学生の日常生活には関係ないかも知れない。
でも大人になったら、月給にしても日給にしても、1日の違いは大きいんだよ...。

そもそも中学生だって、2月28日に「あさって」の約束をして、「2月30日」だと思っていたら困るんじゃなかろうか...。

聞けば、31日まである月を「大の月」、それ以外を「小の月」と呼ぶことも知らないと言う。
私は子どものときに「小の月」の覚え方を次のように教わった。
「に・し・む・く・さむらい(西向く侍)」。

同年代以上の方はご存知の方も多いと思うが、知らない方のために一応説明しておく。
「に・し・む・く」までは2月、4月、6月、9月でいいですね。
問題は「さむらい」=11月です。
「十」と「一」を漢数字で書いて縦に並べる。
それをくっつけると「武士」の「士」になるので「さむらい」=11月というこじつけである。

こじつけであろうが何だろうが、わたしはこれで完璧に「小の月」を覚えた。
当然、それ以外が「大の月」。
学校で教わったのか、親に教えてもらったのか定かではないが、この年になるまでしっかり記憶しているのだ。
もちろん、こんな重宝なものを私の代で途絶えさせてはならないと、生徒にも伝授している。

今の子どもたちはこういうこと、どこでも教わらないのだろうか。
冒頭に書いた「1月は行く...」やことわざ、慣用句なども含め、生活の知恵や豆知識的なものが受け継がれることが少なくなってきた時代に、淋しさと共に若干の危惧を感じている。


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目からウロコの...

2006年02月24日 | ことば・国語
先日2日続けて、テレビとラジオでことわざについて「目からウロコ」の話を聞きました。

一つは日本語をテーマにしたタモリの番組。
「白羽の矢が立つ(当たる)」は元々は人身御供に選ばれることで、自らが望んでいる役職に抜擢されるときなどに使うのは間違いということ。
「のれんに腕押し」の「腕押し」とは腕相撲のこと....などなど。

中でも意外だったのが「二足の草鞋(わらじ)を履く」です。
私も塾の他にわずかながら自然卵養鶏をやっているので、普段からこの表現を使ったり人から言われる機会は多い方です。
で、そのときのニュアンスは単に「二つの仕事をしている」という程度...。
私だけでなく、こう思っている人が圧倒的に多いのではないでしょうか?

ところが本当の意味は違うんですね。
聞いてビックリ!
「二足の草鞋を一度には履けないように、二つのことを同時にはできない」というのが正しい意味だそうです。
...そうか...今まで「二足の草鞋を履いています」と言っていたのは、「だから両方とも中途半端にしかできません」という言い訳をしていたようなものだったんだ...。

もう一つはNHKラジオの「気になることば」からです。
正に「目からウロコ」そのものについて...。
このことわざ、何かに開眼したときのリアルなイメージが浮かぶので、特に本のタイトルなどによく使われますね。
私もメンバーになっている「考える学習をすすめる会」のテキストや書物にも、このフレーズが入っています。
21世紀でも使用頻度が多いことわざの一つに入るでしょう。

ところがこれ、日本のことわざじゃないんですね。
出典はなんと新約聖書!...驚きです。
正確に言うと「目からウロコのようなもの」だそうです。

キリスト教会を激しく迫害していた男が、ある日キリストと出会って目が見えなくなってしまう。
その後教会の人が来て、イエスの名によって彼に手を置くと、たちまち「目からウロコのようなものが落ち」目が見えるようになった。
そして、男は180度人生の転換をして、キリストの伝道者となったという話です。(引用元はこちら→「有名な聖書のことば」

他にも「豚に真珠」は聖書から来ているようですね。
「猫に小判」とセットのように使っているから、てっきり由緒ある日本のことわざだと思っていました。

ことわざや四字熟語、慣用句などは、やはり元の意味をしっかり理解した上で使いたいものです。
ただ、これらに限らず言葉というものは、いくらこちらが本来の意味で使っても、相手の解釈と違えばうまく伝わりませんね。
誉めたつもりが気分を害されるという誤解も生じかねません。
....どうやら、その言葉について相手がどう認識しているか確かめながら使うしかなさそうです。


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色の名前

2006年02月12日 | ことば・国語
塾で今度出す折込チラシを作っているとき、用紙の色をどれにするかでさんざん悩みました。
いつもは薄い緑とか水色系が多く、アイボリーとかクリーム色も好きです。
ただ、この厳寒の時期、少しでも春を感じられる暖色系の方がいいかなと思ったのです。

かと言ってピンクや黄色は何となく品がない感じがするし...。
ということで、結局「ピーチ」というのにしてみました。
ごく淡いピンクです。
桃の皮の色より果肉の色と言った方がいいでしょう。
これなら、ほんのり暖かい感じと上品さが共存できそうです。

しかし色の名前というのは、それこそ「いろいろ」ありますね。
耳で聞いただけではサッパリ区別がつきません。
だから色見本というのがあるわけですが、いつもお世話になっている印刷屋さんから貰った色見本はすべてカタカナ名のみです。
レモンとダークレモンとダークイエロー、ブルーとライトブルーとオーシャン、グリーンとミントとダークミント、ピンクとライトピンクとローズ....違いわかりますか?

一番凝っていて、その結果違いがよくわからないのは車のボディカラーですね。
今私が乗っている車の色は「ウォームシルバー」だそうです。
当然「クールシルバー」もあり、比べれば違いがわかりますが、他の車種では同じような色でも違う名前になっています。
カタログを見ればわかりますが、今や車の色にストレートな「ブルー」とか「レッド」は皆無ですね。
どう見ても白なのに「ピュアホワイト」とか「パールホワイト」「ホワイトソリッド」など、飾りが付いた名前になっています。
新しい車種が出るたびにメーカー側は頭を絞っているんだろうなと思うと、もはや滑稽ささえ感じてしまうくらいです。

色の名と言えば、日本には古くからの伝統的な呼び名がたくさんありますね。
昔から興味があって「色の手帖」という本を買った記憶があります。
同じような色でも、少しの違いで別の呼び名が存在します。
それも、「ライト○○」「ダーク××」というワンパターンではなく、実に趣のある名前が付いているのです(「薄○○」「濃××」というのもあるにはありますが...)。

歌でおなじみの「鳶(とび)色」「浅葱(あさぎ)色」「亜麻色」、正確にどんな色かわかりますか?
正解を知りたい方はこちらからどうぞ。→「色見本の館」
私は「亜麻色」をもっと濃い色だと思っていました。
「亜麻」という植物の繊維の色だったんですね。

よくよく見てみると、他にもなるほどと思うものがたくさんあります。
こちらのサイトには色名の由来もあるので楽しめます。→「日本の伝統色名」
「萌葱(もえぎ)」はかなり知られているかな?
「鉄色」「鈍(にび)色」はどうですか?
「利休鼠」もだいたいわかってはいましたが、「利休」がお茶の葉の色の代名詞として使われていることは初耳でした。

「水色」は一般に使われている色とずいぶん違う感じ...。
ま、本来「水の色」ですもんね。
謎がいっぱいの「薄色」「半(はした)色」「新橋色」「憲法色」...奥が深いです。

春の甲子園の優勝旗で知っている「紫紺」、力士の「まわし」の色で覚えた「茄子紺」も確認できましたが、誰かが締めていたまわしの「いぶし銀」はなかったな...。

そう言えば昔、24色とか36色とか、色鉛筆の色の多さを自慢しあっていたことがあります。
あの頃は日本語の名前の方が主流だったように思います。
「山吹色」「えび茶色」「群青色」「朱色」「深緑」...。
だからこそ、たまにしかないカタカナ表記の「エメラルド色」などは、とてもハイカラな感じがしたものです。

今の色鉛筆やクレヨンはどんな色の名が付いているのでしょう。
やっぱり「ライト○○」「ダーク××」のオンパレードでしょうか?

たしか「肌色」は人種差別にあたるとかで使わないことになったんですよね?
「えんじ」「ねずみ色」も死語に近いですね。
「小麦色」「きつね色」「玉虫色」(?)などは、色の名というより修飾表現として健在ですが...。

伝統ある日本の色の名前を安易に外来語に置き換えず、少しでも後世に残し伝えたいと思います。

ところで「カーキ色」と聞いてどんな色を思い浮かべますか?
これ、年代で差があるようですよ。
詳しくはこちら。→「カーキ色って...」


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裏と表

2006年02月01日 | ことば・国語
先日のテレビで、永六輔氏が色紙(「「いろがみ」ではなく「しきし」の方)の裏・表のことを話していました。
あれって、普通みんなが字を書く白い方が裏なんですね。
「本当は金粉の方に書くのだが、私のような者が表に書くのはおこがましい」という謙遜の意味で白い方に書くのだそうです。
そう言えば、昔の貴族の和歌などは金粉の方に書かれていますもんね...。

で、そこからいろいろとオモテとウラについて考えてみました。

硬貨の裏・表はわりと知られていますね。
十円玉で言えば平等院鳳凰堂の描かれている方が表。
これを初め知ったときは、それまでなんとなく表だと思っていた「10」と書かれた方が裏だったので驚いたものです。
ただ、なぜそちらが表かという理由の部分の記憶が曖昧で、自分の中では「日本国」と書いてある方が表だと定義してきました。

ところがこれも違っていたのです!
硬貨の表は「年号が書かれていない方」だそうです。
十円玉や百円玉、一円玉ではそれでも私の考えていた「表」と矛盾しませんが、五円玉だけは別です。
五円玉だけは「日本国」と年号が同じ面に書かれているんですね。
従って「五円」と漢数字がある方が表です。
今すべての硬貨を調べてみましたが、「漢数字のある方が表」、あるいは「絵柄がある方が表」と解釈しても間違いはなさそうです。

ところで「表」に対して「裏」は、どうしてもマイナスイメージがありますよね。
「裏目に出る」「裏切る」「裏表がある」「裏ぶれる」「裏金」などなど...。
どうしても日の当たらない暗いイメージが付きまといます。
かつて日本海側を「裏日本」と呼んでいた時期もありましたね。
わざわざ「日本海側」と言い換えたのも、「裏」という語が差別的ニュアンスを含んでいるからでしょう。

でも、「裏」が付く言葉でも必ずしもマイナスイメージだけでなく、それはそれで味があるという例も多くあります。
「裏町」「裏街道」「裏磐梯」「裏庭」「裏方」「裏番組」などです。
「表」の方がメジャーで注目を集めているのだけど、そうじゃない「裏」の渋い魅力にも目を向けている感じがします。
「もののあはれ」や「わび・さび」に通ずるところもありそうな...。

「裏千家」は単なる分類上の言葉ですから評価の要素は入っていません。
ま、これは、表も裏もそれぞれの良さがあるというだけのことですね。

さらに「裏」がプラスの意味を持ったものを探してみましょう。
「裏打ち」「裏書き」「裏付け」「裏をとる」などでしょうか。
いずれも「裏」が「表」を支える重要な役目を果たしています。
「表」だけではやって行けないのです。

「裏ワザ」はもっと積極的。
「表」を越えています。
「裏を返す」「裏をかく」は微妙なところ...。
立場や状況によってはプラスイメージになりそうです。

将棋の駒は裏になるとパワーがアップします。
「歩」が一挙に「金」に昇格するなんて、その最たるもの!
まさに「成金」ですね。
将棋では圧倒的に「裏」の勝ちです。

オセロも、挟んだ方に取ってみれば裏は宝の山。
野球だって延長戦に入れば裏が断然有利...。

こうしてみると「裏」の魅力も捨てがたいですね。

ところで、コピー用紙の裏・表の見分け方がわかりません。
昔聞いたのですが忘れてしまいました。
どなたか、ちゃんと教えてくれませんか?


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指切りげんまん

2006年01月22日 | ことば・国語
私は高校の教科の中で古文が一番好きだった。
授業で「堤中納言物語」を学び、「虫めづる姫君」という毛虫が大好きなお姫様の話を読んで、教訓臭い話ばかりでなくこんな面白い作品もあるんだと古典に目覚めたのである。

百人一首はすべて覚えた。
もちろん一つ一つの歌の意味とか、修飾表現とかをきちんと理解しながら...。
これでだいぶ文法にも強くなったと思う。
古文が苦手な人にはぜひお勧めしたい学習法である。
私の場合はそれがさらに大学時代に競技かるたまで発展し、地方大会での優勝や2段取得というオマケまで付いてきたのだが...。

そんなわけで古典一般に興味があったのだが、高校時代、谷崎潤一郎を片っ端から読んでいた時期に「蓼食う虫」という小説に出会った。
細かい所は忘れてしまったが、主人公の男が文楽の娘人形に恋をするという話だったと思う。
それを読んでから一挙に文楽(人形浄瑠璃)に対する憧れが芽生えた。

市販されている近松門左衛門の作品を読み、「語り」独特のリズム、七五調の心地よさにうっとりした。
いつか本物の文楽を観に行きたいと思っていたのが、大学の時に念願叶い、初めて国立劇場で「曽根崎心中」を観た。
そしてみごとに、私も「お初」の人形に惚れてしまったのだ。
人形そのものも美しいのだが、3人で操る動き、仕草が、まるで生きているように艶っぽくなまめかしい。

それからは、ビジュアル版の文楽の本を傍らに置きながら、特にその「道行きの段」は諳(そら)んじられるまで読み込んだものである。

前置きが長くなった。
実は先日、大好きな「その時歴史が動いた」という番組で「曽根崎心中」がテーマになっていたのである。
仕事の都合でいつも再放送で見ているので、本放送より一週遅れで夜中に見た。

1時間に満たない番組だが、知らなかったことが満載で大いに満足できる内容だった。
近松が武士の身分を捨て、浄瑠璃を書くために町人になったこと。
それまで低かった作者の地位を、「作者・近松門左衛門」と台本の初めに明記することで高めたことなどなど...。

そして今日のテーマの「指切り」である。
その言葉の由来を初めて知った。
驚いた!
「指切り」の語源など考えたこともなかったが、「曽根崎心中」を通して知るとは...。

子どもが「指切りげんまん...」と小指を絡めている光景はほほえましいが、「指切り」という語は「遊女が客に愛情の不変を誓う証として、小指を切断していたことに由来」していたのである。→「語源由来辞典」
なんと、本当に指を切っていたのだ!

「げんまん」の方は「拳万」と書き、握りこぶしで1万回殴る制裁の意味だということで、こちらはまだ可愛い。
その後に続く「針千本飲ます」とともに、約束をきちんと守らせるためにあとから付け加えられたものだろうとされている。(by「語源由来辞典」)

それにしても「指切り」の由来は凄まじい。
それがいつ頃、どのようないきさつで小指を絡ませる仕草に変わったのだろう。
韓国や香港、ベトナムなどにも、約束のとき日本と同様のジェスチャーをする習慣があるようだが、そうすると大陸から伝わってきたものを血なまぐさい「指切り」の代用にしたということだろうか...。
欧米には「指切り」があるのかどうか、ご存知の方があれば教えていただきたい。


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「不許可」と「無許可」

2006年01月15日 | ことば・国語
昨年10月からメンバーに入れてもらった「考える学習をすすめる会」のHPには、「勉強応援掲示板」というのがあって勉強についての質問を受け付けている。
中学生からの質問が多いが、高校生、小学生、さらに親からのものも少なくない。
回答は自分の得意分野を中心に、メンバー(すべて個人塾の塾長)の一人が責任を持って行っている。

私は別に国語が専門でもないのだが、このブログのタイトルにもある通りことばにこだわるのは好きなので、その関係の質問は最近では私が担当するようになった。
そんな中で、昨日答えた質問はかなり奥が深そうなので紹介させていただく。

中3生からの質問で、「非」や「不」「無」という否定の接頭語の使い分けについてである。
例として「不明朗」「不自由」「非常識」「非公開」「無抵抗」の5つが挙げてあり、どういう場合にどの接頭語が付くのか教えてほしいという内容であった。

以下、私が書いたレスをそのまま転載する(一部略)。

漢字の意味は「非」=「~にあらず」、「不」=「~せず」、「無」=「~なし」ですね。このうち「非」については、「不」や「無」に比べて善悪の価値観が伴うことが多いようです。たとえば「非常識」「非科学的」などは批判的なニュアンスが強いですね。「非公開」はそういうイメージはありませんが、「公開しない方が妥当(善である)とする判断」が裏に隠れている気がします。

難しいのは「不」と「無」の違い。いろいろ考えたのですが明確にできません。とりあえず挙げてみますよ。

①まず言えるのは、「不」は動詞や形容詞に付き、「無」は名詞に付くという原則です。「不通」「不在」「不眠不休」や「不純」「不良」、「無意識」「無名」「無条件」などはわかりやすいですね。「不明朗」「不自由」などは一見名詞の前についていると思えますが、もとは「明朗だ」「自由だ」という形容動詞からできているので「不」。「無抵抗」の「抵抗」は「抵抗する」という動詞とも考えられますが、「○○する」型の動詞は名詞が変化したものと考えた方が良さそうです。ただし「勉強(する)」の否定は「不勉強」なので例外もありそうです。

②「無」がゼロなのに対し、「不」には「少しはある」というイメージがあるようです。「無料」「無人」と「不漁」「不作」「不利」などを比べてみてください。「不便」というのも全く便がないわけではありませんね。ただ、「無名」や「無能」もゼロではありませんね。狭い範囲には名が知られているわけだし、能力が全くないわけでもありません。

③ネットで調べたときに見かけたのですが、「不」を使うか「無」を使うかは、ペアになる語で決まるという意見もあります。特に「有」が付く語に対しては「無」が付きます。たとえば「有理数」に対する「無理数」、「有料」に対する「無料」、「有限」に対する「無限」などがそうです。「不」の方は「有明朗」「有自由」とは言いません。しかしこれにも例外がありますね。「無抵抗」に対して「有抵抗」とは言わないし、「有利」に対しては「不利」と言いますから。

結局どの説にしても例外があって断定はできません。①が大原則ということは間違いありませんが、「不」と「無」どちらも使える例も結構あります。「案内」「気味」「器用」「作法」などは、いずれも「ぶ」という読みで「不」「無」両方とも使えるのです。


ここからは3時間後に書いた追加レスです。

やはり①の考え方を基本に使い分けるのがいいようです。「不」「無」どちらも使うけれど微妙に意味が異なるものを考察してみました。

「無使用」と「不使用」
「無使用」は「使用が無い」=「使っていない」という状況を表し、「不使用」は「使わない」という動作に重きを置いている感じがします。

「無許可」と「不許可」
「無許可」は「許可が無い」=「許可されていない」という受け身のイメージで、「不許可」は「許可しない」という能動的・主体的イメージです。

「無敗」と「不敗」
「無敗」は「敗戦が無い」という状況を表しているだけですが、「不敗」からは「これからも負けない」という意志のようなものが感じられます。

名詞に「無」を付けた形は静的、客観的、受動的なニュアンスで、動詞に「不」を付けた形は動的、主観的、能動的なニュアンスがあるように私には感じられました。

「無抵抗」も「無抵抗な子ども相手に」など、客体(相手)が抵抗したくてもできない状況の時に使うことが多いのではないかな?ガンジーのように自ら主体的に「(暴力による)抵抗はしないぞ!」という態度を取るときは「不抵抗」と言ってもいいように思うのですが....。


正直なところ、まだはっきりと使い分けがわかったわけではない。
そんなに厳格なルールはないのかも知れないし、時代と共に変わっていく面もあるだろう。
ただ、すべてを「知っていないとわからない」状態のままにしておくのはスッキリしない。
私が気づいていない規則や慣例があれば、どなたか教えてもらえないだろうか。


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過去形のニュアンス

2006年01月09日 | ことば・国語
正月のテレビはバラエティの特番ばかりで、見たいものがほとんどありませんでした。
そんな中、たまたまチャンネルを合わせたNKH教育テレビで面白い番組に出会いました。→「ハートで感じる英文法」
昨年放送された3回分だか4回分の総集編(再放送)だということで、今調べてみたら巷では昨年からすでに話題に上っていたようです。

内容はタイトルからわかる通り、英文法を小難しい理屈ではなく感覚やイメージで理解しようという最近よくあるパターンですが、これが実にわかりやすかった...。

最も印象に残っているのが過去形の使い方です。
英語では would や could など助動詞の過去形を使うことで婉曲な表現になり、日本語の敬語的なニュアンスを伝えることができるということは知っていました。
また、仮定法では現在のことでも過去形を使うということも、知識としては知っていましたが、ではなぜそうなるのかについては全くわかっていませんでした。

その謎を、この番組では2つのキーワードで明解に説き明かしてくれました。
いわく、過去形のイメージは「距離感」と「現実離れ」
距離を置くべき、あるいは感じる相手には過去形を使う。
ありえない仮定の話にも過去形を使う。
過ぎ去った時間は取り戻せない、どんどんと多くへ行ってしまうという意識から生まれた表現ではないでしょうか。

この説明なら同じ if を使って「もし~なら」と訳しても、単なる「条件」の場合は過去形を伴わないことも理解しやすいですね。
「もし私が鳥なら」は現実離れしていますが、「もしこれをよく読めば」は起こりうる可能性が高いですから...。

「仮定法」というきっちりした形でなくても、たとえば「道で大金を拾うかも知れない」というときは may よりも might の方がふさわしいそうです。
ここにもも「現実離れ」のニュアンス(=そんなことあるわけない)が含まれているわけですね。

すなわち、同じことを表現する場合でも、話者の意識によって現在形や過去形、はたまた未来形が使い分けられているということなのでしょう。
英語もなかなか奥が深そうです。

ところで、間違った日本語のやり玉に挙げられることの多い、マニュアル的接客用語の一つに「○○でよろしかったでしょうか?」というのがありますね。
なんで過去形やねん!...というアレです。
どうやら「過去形にする=敬語、丁寧語になる」と思っている若者が多そうな気がします。

小学生に国語を教えているときも同じような例に出会うことがあります。
「行きます」にすべきところを「行く」と答えた子に、「丁寧な言い方にして」とアドバイスすると「行った」になることが少なくないのです。
中学生でもそういうことが....。

ひょっとして、英語での表現法が日本語にも及び始めているのでしょうか?
そうすると仮定法も....。
アレ?日本語でも「もし○○だったら」と仮定のときに過去形を使うこともありますね。
日本語の過去形にも元々「距離感」や「現実離れ」のイメージが潜んでいるのでしょうか?
...混乱してきました....。


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「は」と「が」

2005年12月30日 | ことば・国語
昔何かで読んだ話をときどき生徒にも教える。
「は」と「が」の一字の違いで、こんなにも意味が変わるという一例である。

①花子は部屋の隅で本を読んでいた。太郎部屋に入ってきたとき、そちらに目を向けた。
②花子は部屋の隅で本を読んでいた。太郎部屋に入ってきたとき、そちらに目を向けた。


どうだろう?たった1文字変えただけで、「目を向けた」人物が変わってしまう。
英語なら2文目の書き出しから変わってしまうところだが、語順の自由性が高い日本語ではこんな芸当ができるわけだ。

生徒の書いた文章を見ても、対話していても、この「は」と「が」の使い方に無頓着なため、おかしな日本語になっていることが少なくない。
英文和訳でもしょっちゅうある。

「筆者○○だと言っているが、わたしは××だと思う。」
「彼女作ったケーキはとてもおいしかった。」
「ぼく帰ってきたとき、母は本を読んでいた。」
などなど....。

自分の書いた文を読み返させればすぐにわかることも多いが、助詞の重大さに初めからもう少し神経を使ってほしい。

日本人でさえこうなのだから、外国人が日本語を学ぶ際、助詞が大きなネックの一つになっているだろうことは容易に想像できる。
日本人でよかった....。

では今年の終わりに宿題を一つ。正月休みに考えてみてください。
今年訪問してくださった多くの方々、いつもコメントを入れてくださる常連さん、すべての皆さんに感謝します。
ありがとうございました!


<問>次のそれぞれについて、「は」を使った場合と「が」の場合とでどんな違いがあるか考えてください。

 (1)「ここ日本です。」と「ここ日本です。」
 (2)「英語苦手です。」と「英語苦手です。」



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