「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『市民科学者として生きる』

2008年05月27日 | Science
『市民科学者として生きる』(高木仁三郎・著、岩波新書)
  今年は成田空港開港から30年目だそうである。また、先日の中国四川省の大地震で、建物の倒壊などによって多くの核物質が行方不明になっているという。もし高木仁三郎さんが存命ならば、このニュースを聞かれてどのようなことを思われ、どのような行動をとられただろうか。高木さんは成田空港建設にともなう三里塚闘争に衝撃を受け、それが「市民の科学」を構想するきっかけの一つになった。そして、その「市民の科学」を具体化したものが「原子力資料情報室」である。原子力資料情報室は市民の立場から原子力や核の問題に取り組み、日本における反原発の中心的な役割を担ってきた。本書は、反原発の市民運動に大きな影響を与えた高木さんの自伝であり、アカデミズムの内側にいた一専門家が「市民の科学」にめざめ、一市民としての科学者へと舵を切っていく道程の記録でもある。
  一般市民が専門家に対して疑義を唱えるのは勇気がいるものである。とりわけ科学技術に関わる分野は、多くの市民にとってほとんどブラックボックスに等しいため、専門家による情報を鵜呑みにせざるを得ない状況におかれる。そのため、市民の側の反論を、非科学的あるいは情緒的といったレッテル貼りで一掃されることも多いように思う。その点では、高木さんはもともと核化学や放射能の専門家であったため、市民運動側にとっては心強い存在であったであろうし、原発推進派にとっても一目おく敵であったにちがいない。しかし、高木さん自身は専門家と市民のはざまで揺れていた時期もあったようだ。著名な科学者(理論物理学者)として社会運動にも関わっていた武谷三男さんが高木さんに「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果すべき役割がある。君、時計をかな槌代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな槌にもなりはしないよ」と言ったとき、高木さんは「少なくともかな槌の心をも併せもった時計を目指したい」と答えたという。武谷さんの真意は、運動の自己満足だけで専門性の精進を怠るなという助言だったそうだが、高木さんの心意気を表しているエピソードのように思う。
  近年、専門家と市民との間の垣根を低くしようとする取り組みが、とくに科学技術の分野で注目を集めている。一般的にサイエンス・コミュニケーションと呼ばれているが、その名のとおり科学技術者と一般市民とのコミュニケーションを図ることを目的として、さまざまなイベント(一般向けのシンポジウムやサイエンス・カフェなど)が企画されている。しかし、少なくとも公的機関によるサイエンス・コミュニケーション的イベントは、いわゆる公聴会のように「取り敢えずやりました」といった単なる既成事実の積み重ねのような気がしないでもない。サイエンス・コミュニケーションを本当に有効なものとするためには、専門家側の情報開示はもちろんのこと、科学技術者たちの目線を一般市民と同様の高さまで下ろすことが必要不可欠であるように思う。そのためには、アカデミズム自体のあり方(例えば「研究の論理」)も問い直されるべきだろう。高木さんも「何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか」という「研究の論理」にはまりこんだことがあるという。少しでもアカデミズムの内側に身をおいた者ならば、この誘惑にさらされた覚えがあるにちがいない。
  科学技術は、いうまでもなく為政者のためにあるのではなく、自己目的化した科学技術のためにあるのでもない。科学技術は、やはり市民のためにあらねばならないと思う。これは理想主義である。しかし、「水の滴は長い間に岩をもうがつ」たとえのように、持続した理想主義は必ずやある結実をもたらすと高木さんは確信していた。そして、その理想主義を次の世代に受け渡すために、抗がん剤治療を受けながら病床でこの本は書かれたのである。そのことを思うとき、高木さんの理想主義を無にすることなく、いまいちど―その結論はまちまちであったとしても―科学技術のあり方や原発の問題を虚心に考えなおしてみるべきではないかと思う。

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