「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

心の糧を得る旅へ―『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』

2013年03月10日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』(松本侑子・著、JTBパブリッシング)☆

  ページをめくるごとに、ただただ懐かしさがよみがえってくる。これまでにも書いたことだが、松本侑子さんのほぼデビュー当時からのファンではあったが、『赤毛のアン』についてはそのタイトルくらいしか知らなかった。ところが、松本侑子さんの「赤毛のアンの英語講座」にファン心理のミーハー気分で参加したことをきっかけに、『赤毛のアン』の魅力にもはまってしまった。そしてとうとうプリンス・エドワード島への旅にも参加させていただいた。初めての、そしていまのところ唯一の海外旅行である。初めての海外旅行だからといって美化するつもりはないが、本当に夢のような数日間だった。逆にいえば、美化できるくらい思い入れのある海外旅行が、初体験だったことは幸せである。
  本書に掲載されている写真のほとんどは、松本侑子さんご自身や「赤毛のアン」ツアーに参加した方々が撮られたものである。『私の青春文学紀行』などでもふれたことだが、松本侑子さんの写真の腕前は玄人はだしである。ツアーに参加された方々の写真もまた、それに劣らず見事な出来栄えだ。実際にツアーに参加した者からすれば、写真の一枚一枚にも自分の思い入れが映しこまれているかのように思えてくる。物語を写し取ったアンの部屋の全景、グリーン・ゲイブルズを囲む垣根で野生のリスを見た一瞬、赤土の道が本当に赤かったこと、まるで絵葉書のようなフレンチ・リバーの光景、時間を巻き戻したかのようなシャーロットタウンの街並み、などなど挙げればきりがない。
  松本侑子さんの「赤毛のアン」ツアー参加者、あるいはこれから参加しようと考えている人にとっては必携の一冊である。だからといって、一般読者には意味がないということではない。「赤毛のアン」については松本侑子さんの訳書や解説書以外はほとんど知らない。だからあえて断定はしないが、「赤毛のアン」のプリンス・エドワード島に関して、これほどまでにわかりやすく興味深い情報を、いわば手作りの美しい写真の数々とともに綴られた本はいままでなかったのではないかと思う。実際にプリンス・エドワード島へ行くことはできなかったとしても、この一冊で“紙上”最大、最高、最良、最新のプリンス・エドワード島紀行が味わえるにちがいない。これに『赤毛のアンへの旅―あこがれのプリンスエドワード島へ―DVD+BOOK』を加えれば万全だろう。
  紀行だけならばここで終わってしまってもいいのだが、本書にはもう一つ大きな特徴がある。アン・シリーズ全9巻のあらすじの紹介と、巻の冒頭に置かれる題辞についての訳文・解説が載っているのである。あらすじは「赤毛のアン」初心者にとっては実に嬉しい配慮であるし、題辞の紹介は「赤毛のアン」と英米文学や聖書との関係を探ってきた松本侑子さんならではのものだろう。
  題辞のように「赤毛のアン」には文学的な鉱脈が隠されているのだが、けっして難解な小説ではない。素になって読めば、明るいユーモアと人生の哀歓が語られている読後感のよい小説である。松本侑子さんが全文訳された『アンの愛情』までの3冊を読んだ限りでは、そんな印象を持っている。刺激的な小説が耳目を集める昨今、松本侑子さんは「あたりまえの日常をきちんと、こころ豊かに生きている人たちこそが、この世の主流」であり、それを文学として描いたのがモンゴメリであるという。当初、松本侑子さんがなぜ「赤毛のアン」にひかれたのか、正直よくわからなかった。しかし「アンの物語が、心の糧として、多くの人々に愛されつづける理由」がそこにあることが、いまならばよくわかる。再び旅の話にもどれば、松本侑子さんが初めてプリンス・エドワード島を訪れたとき感じた「小説で読んだ風景がそのまま広がっていた驚きと感激」は、いまは自分のものでもあることを、この本を眺めながらあらためて感じている。

  

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