「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『誰も知らない「赤毛のアン」』―再読―

2008年03月02日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『誰も知らない「赤毛のアン」』(松本侑子・著、集英社)―再読―
  初めて「赤毛のアン」の名前を知ったのはいつごろのことだろう。たぶん10代か20代のころだと思うが、定かな記憶ではない。絵本のタイトルだと思っていたような気もする。初めて目にした『赤毛のアン』が絵本だったのかもしれない。いずれにしても、自分の身近に興味の対象としての「赤毛のアン」は存在しなかった。
  そんな自分の視野に「赤毛のアン」が明確なかたちで入り込んできたのは、松本侑子さんが新訳『赤毛のアン』を出版されたときだった。ほぼデビュー当時から松本さんのファンを自認していたが、それは松本さんを広い意味での(誤解を恐れずにいえば)フェミニズム系の作家と自分の中で位置づけていたからだった。そんな松本さんが、なぜ新訳の『赤毛のアン』を出され、その後も「赤毛のアン」関係の本を立て続けに出版されていくのか、正直なところよく理解できなかった。いや、むしろ自分がわかろうとしていなかったのだ。自分の中で勝手に作り上げた「フェミニズムの松本侑子」のイメージが「赤毛のアンの松本侑子」と一致しなかった。その溝を埋めるには「赤毛のアンの松本侑子」を読むべきだったのに、自分の中のイメージが壊れることを恐れて、巧妙に避けて通っていた。新訳『赤毛のアン』以後も、「松本侑子」の名前が入っているからには「赤毛のアンの松本侑子」もときには買っていたが、ろくにページをめくらずにいた。
  転機が訪れたのは数年前だった。松本さんが講師を務めていらっしゃる「『赤毛のアン』の英語セミナー」に初めて参加したときだ。もちろん「赤毛のアン」についてはほとんど何も知らなかった。ありきたりの貧弱な知識ぐらいはあったにしても、「赤毛のアン」ファンの中に切り込んでいくのは相当な勇気を要した。参加者のほとんどが女性であることは容易に想像できたので、そのことも二の足を踏ませた。それでも、一度はナマの松本侑子さんにお会いしたいという思いが打ち勝った。そして、「赤毛のアンのファン」としてではなく、「松本侑子のファン」として会場へ乗り込んだ!
  会場では多くの“出会い”が待っていた。初めてお会いした松本侑子さんは、およそ権威的なところがなく、短いながらも親しく言葉を交わすことができた。「赤毛のアンと松本侑子のファン」である方々とも知り合うことができ、その出会いはいまも貴重な財産とさせていただいている。そして、あの「赤毛のアン」アレルギーも払拭することができた。3回連続のセミナーを受講して、「赤毛のアン」のすじがきでは知らないことも多かったが、松本さんの話される内容には知的好奇心を刺激された。「赤毛のアン」がこれほどまでに奥深い文学作品であるとは思ってもみなかった。何気ない一つの文章にも多くの背後関係が隠されていることを知った。その会場で復習の意味もかねて買ったのが本書『誰も知らない「赤毛のアン」』だ(心をこめたサインもしていただいた)。
  初めての英語セミナーとこの本をきっかけにして、自分の前に「赤毛のアン」の宇宙が開かれ始めた。これは決して大げさではない。「赤毛のアンのファン」を自認される方々の知識や熱意にはまだまだ及ばないが、「赤毛のアン」の世界を知るために、その後も英語セミナーに参加を続けるとともに「赤毛のアンの松本侑子」も読み進めている。その過程でわかったことは、「赤毛のアン」を読み解くことはけっしてフェミニズムの視点と無関係ではないということだ。伝統的な(と思われる)牧師夫人だったモンゴメリが必ずしも伝統的とは思われないような、あのようにいきいきとした少女のアン・シャーリーを描いた意図は何だったのだろうか。それはモンゴメリが女性として生きた当時のカナダ社会や時代背景と無関係ではありえない。これは、シェイクスピアなどの文学作品からの引用を探究する楽しみとは別に、いわゆるフェミニズム批評の観点から読み解くことだいえる。松本さんご自身も最初の「赤毛のアン」解説本である『赤毛のアンの翻訳物語』の中で「(フェミニズム批評の一つの柱は)これまでに不当に評価されてきた女性作家とその作品の再評価、再検討、発掘だ。私の翻訳は(この)流れにあるものと思う」と書かれている。本書でもモンゴメリの人生にふれて、「『女らしさ』の枷にはめない、ありのままの少女を描く」ことの困難さ(女性作家の内面での抑圧や一般大衆との乖離)について述べられている。ここへきて自分の中の「フェミニズムの松本侑子」と「赤毛のアンの松本侑子」とが一致した思いがした。
  英語セミナーをきっかけとしたさまざまな“出会い”のお陰で、いまではひとまず(まだ自信はないながらも)「赤毛のアンと松本侑子のファン」だといえるようになった。最近ではさらに「赤毛のアン」がエコロジー的な観点からも読み解くことができるのではないかと夢想している。研究室に埋もれていた(といっても、10年もたっていないと思われる)修士論文で、アンとその風土との関連について書かれていたものを読んだ(『赤毛のアン』の本文は松本さんの翻訳が引用されていて、見ず知らずのその先輩に親近感をおぼえた)のだが、たしかにアンの心の発達とプリンスエドワード島の自然環境との間には何らかのつながりがあるにちがいない。人の心が十全に発達するためには社会だけではなく、自然という他者が必要なこともたしかだろう。また、アンやモンゴメリが生きた当時のプリンスエドワード島は、いまの社会とくらべて貧しくとも持続可能な社会だったようにも思う。その視点からもエコロジー的な解読ができるのではないだろうか。
  新春にNHK教育テレビで「赤毛のアン」の特別番組が放映された。出演者は松本侑子さんをはじめ、女優の松坂慶子さん、脳科学者の茂木健一郎さん、タレントの山瀬まみさんなど錚々たるメンバーだった。光栄にも、その特番のスタジオ観客としてご招待をいただいた。その収録の中で「赤毛のアン」に関するクイズが出題され、観客も答えなければならないときいた。それで、泥縄とは思いつつ本書を再読した次第だ。しかし、「赤毛のアンと松本侑子のファン」としては最も正答しなければならない問題でまちがってしまった(そのことについては、いずれまた書こうと思う)。まだまだ修行がたりないようである。

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