「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『猿橋勝子という生き方』

2009年06月18日 | Science
『猿橋勝子という生き方』(米沢富美子・著、岩波書店)

  女性科学者や女性と科学との関係に関心を持ったきっかけの一つは「猿橋賞」だった。全国紙で毎年「猿橋賞」を受賞した女性科学者が取り上げられ、自分が男であるにもかかわらず、科学の様々な分野で活躍しているのは男性だけではないという思いを強く持った。しかし、「猿橋賞」が「女性科学者に明るい未来をの会」の事業であることも、会の創立者である猿橋勝子さんについても詳しいことは知らなかった。猿橋さんが東邦大学理学部(旧帝国女子理学専門学校)出身の地球化学者であり、ビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜丸の「死の灰」を分析したことはどこかで読んだおぼえはあったが、女性として、科学者としてどのような生き方をしてきた人なのかはまったく知らなかった。
  猿橋勝子は微量分析を専門とする地球化学者として著名な存在となったが、もともとは物理学の出身である。さらに、猿橋が子ども心に考えた「雨はなぜ降るのか」が「科学者の芽」であり、後に気象研究所で研究することになる経歴の出発点となったと著者の米沢富美子さんは書いている。数学や物理学に興味を持ちながらも、社会に貢献する仕事を夢見て、猿橋は当初医師への道を志した。ところが受験した東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)の面接試験で、女医として憧れの的だった吉岡弥生(東京女子医専創立者)の大人気ない態度に大きな失望を味わう。そのことが原因で、猿橋は合格したにもかかわらず東京女子医専へは行かず、本来好きだった数学や物理学の道へと方向転換し、開校したばかりの帝国女子理専に入学する。後世から眺めれば、人生は何が幸いするかわからないものだ。猿橋がもし女子医専に行っていれば女医として名を挙げたかもしれないが、反戦・反核科学者としての猿橋勝子は生まれていなかった。(ちなみに、吉岡弥生は後に青年や女性の戦争協力を指導したという。一方で猿橋は戦後、女性解放の先達である平塚らいてうと出会い影響を受けた) そしてさらに、「猿橋賞」受賞者に代表されるような日本の女性科学者の育成も相当遅れをとったにちがいない。「猿橋賞」設立の動機は女性科学者を励ますだけでなく、女性科学者を世に知らしめることでもあったという。その目的で受賞者の記者会見を設定した結果、主要新聞に受賞者が紹介されることとなった。
  たまたま並行して読んだ松本侑子さんの『恋の蛍』では山崎富栄は「戦争未亡人」となる。猿橋勝子は生涯未婚だったが、未婚の理由としては研究に没頭しているうちに時間が過ぎてしまったという個人的な原因の他に、時代背景による原因もあるのではないかと米沢さんは分析している。太平洋戦争で戦死した日本兵は230万人にのぼるそうだが、その数だけ女性たちは配偶者や配偶者候補を失ったことになる。猿橋は配偶者となるべき男性が欠落した年代に属しており、配偶者を失った女性を「戦争未亡人」と呼ぶなら「戦争未婚人」と呼ばれてもよいと米沢さんはいう。猿橋は女性科学者として大きな社会的貢献を果たした。猿橋は女性として、また科学者として、その生き方には戦争が色濃く影を落としている。女性科学者の地位向上に尽力した猿橋だが、科学の功罪を伝えることが最大の使命と考えていたのではないだろうか。そこに男女としての差を超えた「猿橋が何よりも大切にした、人間としての原点」があったにちがいない。
  「執筆までの経緯」と「執筆を終えて」を読むと、米沢富美子さんの猿橋勝子さんへの思い入れなくしては本書はありえなかったと思えてくる。米沢さん自身も「猿橋賞」第4回の受賞者であり、女性科学者のロールモデルとして猿橋さんの生き方を紹介することが執筆目的の一つであったという。ところが、米沢さん自身の生き方も猿橋さん以上にすばらしいロールモデルとなりそうである。米沢さんは会社員の男性と結婚し、出産、育児、大病、さらには夫君との死別も経験している。いまは実母の在宅介護に奮闘中である。一方で、アモルファス研究で知られた理論物理学者であり、女性として初めて日本物理学会会長も務めた。さらに驚かされるのは、母親の介護に加えて甲状腺がんの手術(入院)と並行して本書が書かれたことだ。米沢さんはすでに古希を迎えているはずだ。並はずれたエネルギーには驚かされるばかりだ。「本書を書き上げたご褒美に、猿橋先生はガーディアン・エンジェルとしてずっと私を守ってくださるに違いない」と米沢さん。今度は米沢さんにガーディアン・エンジェルになってもらうべく、遠からず米沢さん自身の生き方についても読んでみよう思っている。

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