「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『啓蒙の弁証法』への/からの道を照らす灯り―『フランクフルト学派』

2015年01月11日 | Arts
☆『フランクフルト学派』(細見和之・著、中公新書)☆

  本書はホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』や「批判理論」で知られるフランクフルト学派について、その思想的系譜を述べたものである。新書とはいえなかなか読み応えがあり、どの程度理解できたかは、はなはだ心許ない。しかし、「おわりに」にもあるように、「です、ます」調で書かれているため読みやすく、著者の「伝えたいこと」は伝わってきたように思う。もちろん、繰り返しになるが、理解の深さは、読み手の力量に応じてのことになるだろう。
  もう何年も前になるが、『啓蒙の弁証法』について、ある機会に少しばかりふれたことがある。哲学や思想に関心はあったものの、哲学などを本格的にアカデミックなコースで学んだことのない者にとって、この『啓蒙の弁証法』は―『啓蒙の弁証法』に限らず、哲学・思想系の本はすべからくというべきかもしれないが―相当な難物であった。人間による自然支配に関する「道具的理性」に興味をもったのが発端だったが、そのモチーフも解説書などからの受け売りのようなものであって、『啓蒙の弁証法』自体は字面を追うだけで精一杯だった。
  フランクフルト学派の前史としてマルクスの思想が影響したことはいうまでもないことだろう。ところが、それに加えてフロイトの思想も大きな影響を与えており、その両者の統合によって「批判理論」が成立したという。その立役者が『自由からの逃走』で知られるエーリッヒ・フロムであった。もっとも、フロムが『自由からの逃走』を書いたころには、フランクフルト学派とは袂を分かっていたという。いずれにしても、人間による自然支配が語られるとき、外的自然のみならず内的自然の問題も提示され、理性による抑圧が重要な役割を果たすという文脈が、おぼろげながら理解できたように思う。思想畑の人にとっては既知のことかもしれないが、初心者にとっては目が開かれた思いである。『啓蒙の弁証法』をまともに読んでいない証拠ともいえそうだが。
  『啓蒙の弁証法』以後で重要な役割を果たすのは、何といってもハーバーマスであろう。ハーバーマスは現在も世界に向けて発言を続けている現役の哲学者である。恥を忍んでいうが、十数年前までホルクハイマーやアドルノはいうまでもなく、ハーバーマスの名前さえまったく知らなかった。理系出身者とは、そういうものなのかもしれない。文系の科学知らずも問題だが、理系の哲学知らずも、それに劣らず問題視されるべきだろう。文系出身者は「科学はむずかしくて」などと、自虐的な弁解をしたりするが、多くの理系出身者は端から哲学など無視しているかのように見える。科学と社会との関係が問われているいま、科学も哲学(メタ科学)の範疇で問い直すべきであることに、自覚的であってほしいと思うのだが、周囲を見ていると、まだまだ道は遠いと感じる。
  著者の細見さんによると、ハーバーマスは、「アカデミックな理論家、社会的な批評家、果敢な論争家」という三つの面をあわせもっているという。ハーバーマスでとくに注目すべきは、「論争家」との関わりが深いと思われる、『公共性の構造転換』で論じられている「市民公共性」であろう。さらに「道具的理性」批判から導き出された「コミュニケーション的理性」と「生活世界の植民地化(システムと生活世界)」の概念も重要である。これらの議論は、科学と社会との関係を考えるうえでも、十分に通用するものであるどころか、これらを踏まえて、もっと議論を深めるべきであると思う。
  ハーバーマス以後も、ホネット、フレイザー、ゼール、ヴェルマーなどの多彩な思想家が概略ながら紹介されている。概略とはいえ、進む道を知らない者にとっては貴重な道標である。哲学・思想の道は、険しく曲がりくねっているだけでなく、自覚的にせよ無自覚的にせよ、よそからその道に入ってしまった者にとっては、さらに闇夜を歩むようなものである。自力で歩む価値は認めないではないが、灯りがあるのなら、やはり灯りの助けを借りたほうがいいに決まっている。

  

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