「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『もやしもん』

2008年07月31日 | Science
『もやしもん』(石川雅之・著、講談社)
  昨年の春休みのころ、科博SCの仲間といっしょに細矢剛先生とお話しする機会があった。そのとき話題の一つになったのが、このコミック『もやしもん』だった。細矢先生は菌類の専門家だが、菌類に対する熱い思いをよく語られていたので、『もやしもん』によって菌類の世界が知られることへの期待が人一倍おありになったのだろう。それもそのはず、われわれは菌類が身近な存在にもかかわらず、その世界をあまりにも知らないからだ。
  そもそも菌類は動物だろうか、植物だろうか。義務教育レベルでは、生物を動物と植物とに分類する「二界説」に応じて植物に分類されるようだが、生物の世界(生物界)はそれほど単純ではない。現在では生物界を五つに分類する「五界説」が有力である。すなわち「動物界」、「植物界」、「菌界」、「原生生物界」、「モネラ界」の五つである。菌類は「菌界」を構成していて、動物や植物とは独立した別個の生物であり、言い換えれば動物や植物とは対等な立場にあるといえる。ただし、最近の分子遺伝学的な研究によれば、菌類は系統的に植物よりも動物に近いとされているらしい。また、よく「バイ菌」などと呼ばれる細菌類は「モネラ界」に属する原核生物であり、「菌界」に属する菌類は真核生物であることも認識を新たにすべきところだろう。いまこうやって「五界説」のことを書いているが、細矢先生からお話を伺うまでその言葉自体も知らなかったし、菌類と細菌類とのちがいもあやふやだった。「菌」の文字は使ってあっても大腸菌は菌類ではないし(細菌類である)、「菌」の文字は使ってなくても酵母は菌類であることも知らなかった。ちなみに「もやしもん」の「もやし」とは日本酒を醸造するときの種麹のことだそうである。
  菌類とはごく簡単にいえばカビやキノコの仲間であり、人類にとってひじょうに身近な存在である。たとえば日本人にとっては、シイタケなどのキノコ類は日常的に欠かせない食材であるし、日本酒の醸造や味噌などの発酵食品もまた菌類の働きのおかげである。一方で悩ましい水虫は真菌の一種によるものであり、ある種の両生類を絶滅に追いやるカエルツボカビは生態学的に大きな問題ともなっている。そんな(良くも悪くも)豊かな菌類の世界を、この『もやしもん』は本当に身近な存在へと引き寄せてくれているように思う。主人公の沢木直保は実家が種麹屋で農業大学の学生であり、菌が見えるとういう特殊な能力をもっている。菌が見えるとなると、沢木が見る世界はさぞやグロテスクなものになりそうに思うが、菌の一つひとつが個性豊かにキャラクター化されていて、むしろ菌に親近感(親“菌”感?)をいだいてしまう。たしかに菌たちの名前はややこしいが(それでも、「A・オリゼー」の名前くらいはおぼえるにちがいない)、そのキャラを見ているだけでも楽しくなってくる。ネットで検索しても同様の指摘を目にするが、やはり菌類のキャラクター化がこの作品を成功(「手塚治虫文化賞マンガ大賞」および「講談社漫画賞」受賞)へと導いた最大の要因だろうと思う。
  著者の石川さんは農学部の出身ではないし、菌類や農学の専門家でもない。それにもかかわらず、菌類や農学・農業の知識を蓄積するためにどれだけの取材・調査・勉強をしたのだろうか。その努力が実を結んだからこそ、細矢先生のような専門家にも評価される作品に仕上がったのだろうと思う。一つの作品世界を作り上げるために心血を注ぐ作家の人たちに対して、あらためて頭の下がる思いがした。菌類と人間との関わり合いを学ぶためになどと大上段に構えることはないと思うが、まだ第1巻と第2巻の最初しか読んでいないのに、菌類と農業大学に集う人間たちが織り成すストーリーの展開にはまってしまった。現在、単行本は第6巻まで出ているが、遠からず最新巻まで手に入れることになるだろう。ところで、物語の舞台になっている農業大学は、わが母校や東京農業大学などの特定の大学がモデルになっているわけではないそうである。しかし―農学部にいながら、いわゆる農学系の研究室に在籍しているわけではないが―農学部ならではの風景描写に出会うと、個人的にはこれまた親近感をいだいてしまう。農学や農学部・農業大学を理想化するのは好きではないが、どこか牧歌的な風景やキャンパスライフは人の心を和ませるものなのだろう。そこにも『もやしもん』成功の一因があるのかもしれない。

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