「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『農が拓く東アジア共同体』

2007年12月08日 | Ecology
『農が拓く東アジア共同体』(進藤榮一、豊田隆、鈴木宣弘・編、日本経済評論社)
  日本の農業は危機的な状況にあるというが本当だろうか。物価高などの問題はあるにしても、毎日のゴハンやオカズにも事欠くという日本人は少ないだろう。しかし、日本の食料自給率を示されると背筋が寒くなってくる。例えば、本書から引用すると、日本の穀物自給率(2005年)は26%にすぎない。フランスの160%やアメリカの120%と比較すると、その極端な低さに目をうたがってしまう。ごく簡単にいえば、国際関係が悪化し日本が孤立すると、食糧難の状態に陥ることを意味している。
  農業の危機は農産物(食料)の供給の問題だけにかぎらない。バイオマスなどのエネルギー資源の供給や地球温暖化に代表される環境問題とも、農業は深くかかわっている。サトウキビやトウモロコシなどから作られるバイオエネルギーは「地球にやさしい」といわれているが―本当に「地球にやさしい」のかという本質的な問題はおくとしても―その原料が食料と競合するため、その普及は逆に農業に大きな影響を与えはじめている。森林とともに農地は緑の自然環境を構成している。地球温暖化の深刻さが認識されるとともに、緑がもつ二酸化炭素吸収機能や気温低減効果が注目されている。それにもかかわらず、「美しい国」のかけ声とは裏腹に、宅地造成や都市開発の名の下に森林や農地は切り開かれ、緑は日本の国土から確実に減少しているように思われる。このようにして「美しい国」の景観は破壊され、伝統的な景観によって育まれてきた日本人の心性や文化をも衰退の道を歩んでいるように思われる。
  都会に住んでいると、ときおり緑が恋しくなってくる。毎日の生活に追われていると、せいぜい休日に近所の公園を散歩することで気をまぎらしている。時間やお金に余裕がでてくると、いよいよ旅行に出かけることになる。若い頃ならば日程にできるだけ多くの予定を書き込み、テーマパークが旅行のメインだったりするが、歳を経るにつれて自然にふれることが主な目的になってくるような気がする。旅行の楽しみは、森林や田畑のある風景に接することであり、その恵を味わうことである。先日見た『いのちの食べかた』という映画(近々その感想も書くつもりだが)には、海外の大平原に広がる大規模農地のシーンがでてくる。その人工的な“自然”景観にも統制された美しさを感じるが、日本人が求める緑の風景は、畦道のある田畑や寺社を囲む鎮守の森だろう。いわゆる里山といわれる地域である。里山の風景に癒されたとき、自分が日本人に生まれてよかったとこころの底から思うひとときでもある。本来「美しい国」とは、そういった自発的な想いから作られていくべきものではないだろうか。
  それはさておき、里山などの緑の地域(農村)を訪れる体験的な旅行はグリーンツーリズムと呼ばれている。グリーンツーリズムに興味をもつ知人がいることもあって、本書のなかではとくに駄田井正さんの書かれた「グリーンツーリズムと農業」を興味深く読んだ。グリーンツーリズムに明確な定義はないようだが、農業がもつ多様な機能―食料供給・環境保全・景観保護など―を前提にしている。食糧増産のために農業は機械化・大規模化されたが、その一方で生態系や景観は破壊され、農村人口は減少し、伝統的な文化の継承も機能しなくなった。グリーンツーリズムは農村を対象にすることで、雇用の創出や定住者を増加させる可能性が見込まれる。都会からの旅行者が農村の魅力に開眼して、移住することも考えられる。旅行者が新鮮で安全な農産物を求めることで、大規模生産ではない手作りの食材を作る契機にもなり得るだろう。さらに、旅行者を呼び込むためには、美しい景観をPRしなければならず、景観の保護も重要な課題となってくる。以上のことを考え合わせると、グリーンツーリズムは「地域の多様性を保持し、地産地消を促し地域の自立性を高めることに寄与する」といえる。このように、グリーンツーリズムは農業の多面的な機能を引き出す実践的な試みの一つといえるだろう。
  いま環境問題の成否は、自然科学や技術の問題をはるかに超えて、多様な価値観を認めつつ、持続可能な社会や共同体の形成にかかっている。農業は自然環境のもつ機能に強く依存している。その意味で、日本・韓国・中国を含んだ東アジアは似かよった風土や歴史をもつため、農業を基盤にした東アジア共同体を形成することは、他の地域に比べて容易であろうという。本書は、日本の農業危機を日本一国の危機として捉えずに、東アジアという地域のなかに位置づけることで、たんなる農業問題にとどまらず、地域統合や食糧安全保障の問題にまで視野を広げている。本書に収められた35名にも及ぶ執筆者の論文のすべてに目を通したわけではないが、その目次を眺めるだけでも、日本の農業危機という問題意識に端を発しながらも、農業の新たな可能性を東アジアの統合のなかに見出そうとする熱意やビジョンはたしかに感じられた。
  ところで、本書は松本侑子さんのホームページで知った。本書に寄稿されたとのお知らせが載っていたのだが、自分の専門が農業と浅からぬ関係にあることでもあり、早速購入したという次第だ。松本さんは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を訪ねてアメリカへ行かれた話から始まって、EU諸国や東アジア(中国・韓国・ベトナム)を旅された経験をもとに、農業や風土のみならず自然観や文化についてまで、多くのエピソードを語られている。本書の主旨にそくして、その視点は欧州とアジアの比較におかれているようだ。欧米などに比べてアジアへの旅は少ないそうだが、しっかりとした取材や勉強と豊かな感性がなければ、自然観や文化の比較などできるものではない。この歳になるまで一度も海外旅行の経験がない自分にとっては、松本さんの豊富な経験はもちろん羨ましく思うが、それ以上に、取材にもとづいた確かな知識と構想力には脱帽する。
  さまざまな取材による該博な知識は『赤毛のアン』の翻訳にも表れているが、構想力については個人的に小説『光と祈りのメビウス』に集約されていたように思う。この小説は松本侑子さんの小説のなかでもっとも好きな小説であり、直接的な影響を受けた小説でもある。松本さんとレイチェル・カーソンとのかかわりは、この小説にあったことも語られている。実をいうと、自分が初めて書いた論文らしい論文は、レイチェル・カーソンと深いかかわりがある。そして、その背景にはこの『光と祈りのメビウス』があった。さらに、これから自分がやろうとしていること―それが「研究」と呼べる代物ならば―その研究にも、松本さんとカーソンは無関係ではない。『光と祈りのメビウス』のところでも書いたことだが、機縁はあるのであり、ありがたいことにその機縁はまだ続いているようだ。本書に寄稿されたコラム「文化としての農業」を読んで、不思議な機縁をあらためて感じた。
  失礼ながら、松本さんがこのような農業の専門書になぜ寄稿されたのか不思議に思った。それも本書の「はじめに」を読んで氷解した。編著者の進藤榮一さんは松本さんの筑波大学時代の先生だったのである。そういえば、かなり前のエッセイで、松本さんが進藤先生について書かれていたのを思い出した。本書も、松本侑子さんと進藤先生との何らかの機縁のあらわれだったのだろうか。

「松本侑子さん」の『農が拓く東アジア共同体』は同じ文章です。
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