「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

詩と漫画―『ドミトリーともきんす』

2015年01月17日 | Science
☆『ドミトリーともきんす』(高野文子・著、中央公論新社)☆

  SNS上でのことだったと思うが、たまたま朝永振一郎の『物理学とは何だろうか』が話題にのぼったとき、友人がこの本を紹介してくれた。漫画なのだが、朝永のことが取り上げられているという。物理学の専門書は当然として、朝永について書かれた一般書やエッセイのたぐいも数えきれない。しかし、漫画と朝永の組み合わせは初めてだったので、早速アマゾンで購入した。
  取り上げられているのは朝永だけではなく、中谷宇吉郎、牧野富太郎、湯川秀樹の4人と、ゲスト的にジョージ・ガモフも。いうまでもないことだろうが、中谷は雪の研究で知られ、師匠筋にあたる寺田寅彦と同様、数多くのエッセイも残している。牧野は小学校も満足に出ていないにもかかわらず、独学で植物を研究し、植物分類学の泰斗となった。湯川はもちろん日本人初のノーベル賞受賞者であり、朝永とは高校・大学での同窓だったこともよく知られている。さらにガモフは、ロシアで生まれアメリカで活躍した著名な物理学者である。彼が書いた一般向けの科学書『不思議の国のトムキンス』を読んだ人は少なくないはずだ。本書のタイトル「ともきんす」は「トムキンス」を一文字変えて使っている。
  この本は、下宿屋「ドミトリーともきんす」に朝永たち4人の「若者」が下宿しているという設定である。この4人とガモフの共通項は、専門的な業績もさることながら、一般向けの科学書やエッセイを数多く残した科学者であることだ。寮母のとも子さんと娘のきん子ちゃんが彼らと接しながら、その著書を紹介するという一話完結スタイルの漫画である。要するに漫画による科学書の読書案内なのだが、著者の高野文子さんが実際に読んで、琴線にふれた部分を取り出し漫画化しているように思う。製図ペンによる漫画はシンプルながら、ほのぼのとした感じも伝わってくる。高野さんは科学書の読後感を「乾いた涼しい風が吹いてくる」と書いているが、心地よい暖かさも感じられる漫画である。彼ら一人ひとりのセリフも、いかにも口にしそうな言葉でおもしろい。
  高野文子さんのことはまったく知らなかったが、アマゾンのレビューを見ると根強いファンも多いらしい。看護師を勤めながら1979年にデビューし、失礼ながらもう五十代半ばであり、漫画家としての業績は十分の方のようである。この本を見て、紹介された科学書を読んでみたくなったというアマゾンレビューもかなりあったように思う。他人事ではなく、ここに紹介されているなかで牧野富太郎の本だけはまったく読んだことがなかったので、いずれ読んでみようかと思っている。植物にとくに興味があるわけではないが、牧野も達意の文章を書いた人であるらしく、彼の文章を味読したくなった。
  科学は厳格な論理や数式で作られている。しかし、科学を作った科学者も人であり、科学を胚胎する自然を見ることから科学を始めたはずである。人は自然を見て詩を作るように、科学者の言葉にも詩が宿る。その詩を読み解き、漫画にしたのがこの『ドミトリーともきんす』である。最後の「詩の朗読」を読みながら、高野さんの意図を自分なりに解釈すればこうなるだろうか。

  いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりでなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、とちゅうの道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道もずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではなかろうか。そればかりではない。二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。(湯川秀樹「詩と科学―子どもたちのために―」、本書p.108より転載)

  われわれはいま、科学の果実にばかり目を奪われている。収穫の先に何を見ようとしているのか。実りの前に何があったのか。このような時代だからこそ、それを知るために、すぐれた科学者たちが自然のなかに見つけた詩に注目し、彼らが語った言葉に耳を傾けるべきではないだろうか。

  

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