「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

津田梅子の新たな「肖像」が呼ぶ感動―『津田梅子 科学への道、大学の夢』

2022年10月21日 | Science
☆『津田梅子 科学への道、大学の夢』(古川安・著、東京大学出版会、2022年)☆

  政府の発表によると2024年度上半期をめどに新しい紙幣が発行されることになっており、新五千円札の肖像には津田梅子が選ばれた。その選定理由について、財務省のホームページには以下のように記されている。

「新しい紙幣の肖像になる渋沢栄一氏、津田梅子氏、北里柴三郎氏は、それぞれの分野で傑出した業績を残すとともに、長い時を経た現在でも私たちが課題としている新たな産業の育成、女性活躍、科学の発展といった面からも日本の近代化をリードし、大きく貢献した方々です。三者ともに、日々の生活に欠かせず、私たちが毎日のように手に取り、目にする紙幣の肖像としてふさわしいと考えています。」

  津田梅子については、文脈から見て「女性活躍」に関して日本の近代化をリードし大きく貢献したことが評価されたようである。新紙幣の肖像として津田梅子以外の他の女性を挙げたいと思う人もいるだろうが、この評価そのものについては異論を挟む余地はないように思う。
  津田梅子は津田塾大学の前身である女子英学塾の創設者であり、日本における女子教育の先駆者として、その一生を捧げたことはよく知られている。いま女子教育の先駆者として一生を捧げたと書いたが、別の道に一生(後半生)を捧げた可能性、それも相当大きな可能性としてあったことは意外と知られていない。その別の道とは、本書のサブタイトル「科学への道、大学の夢」にもある「科学への道」、すなわち生物学研究者としての道である。
  徳川幕府が倒れ、近代化の礎を築きはじめたばかりの明治初期、5人の少女たちが官費留学生としてアメリカに派遣され、その最年少(当時6歳)が梅子であったことも、たいていの歴史教科書には載っていることである。しかし、父親たち家長が少女たちを留学生として応募した背景には、全員旧幕臣の出身であったことが、社会的地位の回復や上昇志向のかたちで影響していたようであり、このことはあまり知られていないかもしれない。
  とくに梅子の留学に関しては父親である津田仙の影響を無視しては語り得ない。本書は、先進的な農学者にして教育者であった津田仙の生涯と業績から書き起こしている。
  約11年に及ぶ留学から帰国し教育に身を投じるつもりだった梅子だったが、政府は何のポストも用意していなかった。梅子は同時に帰国した山川捨松とともに大きな失望感を味わった。梅子と捨松はアメリカ留学で女子教育にかける情熱を育んできたことは、以前に捨松とその兄である山川健次郎の評伝の類を読んだとき知った。捨松は結婚して大山捨松となったが、二人の情熱に変わりはなかった。
  その後、ようやく梅子は華族女学校の英語教師として採用されたが、良妻賢母を旨とする教育や自主性に乏しい生徒たちに失望し、少女時代を過ごしたアメリカに対する望郷の念なども重なって再び留学する夢を叶えようとする。やがて功を奏して留学の夢は現実のものとなり、フィラデルフィア近郊のブリンマー大学に官費留学し、結果的に生物学を専攻した。
  一般的に梅子について語られるとき、幼い頃の女子留学生としての梅子と女子英学塾の創設に焦点が当てられ、二度目の留学についてはあまり触れられていないように思う。ましてや生物学を専攻したことなどほとんど知られていないのではないだろうか。
  余談ながら先頃、女優の広瀬すずが主演した民放ドラマ『津田梅子~お札になった留学生』では、二度目の留学は最後の最後に出てきて、生物学の専攻に関しては、ほとんど脈絡もなく顕微鏡を覗く梅子がワンシーン出てくるだけというお粗末さだった。それなりに期待して見ていたのでがっかりしてしまったが、ひとまず津田仙が出てきたことだけは評価したい思う。
  本書によれば、梅子が生物学を選んだ理由としては、梅子の自然科学に対する関心や資質、父親仙の影響、捨松も生物学に関心を持っていたことなどが挙げられている。そしてさらに当時のブリンマー大学生物学科の充実ぶりも指摘されている。ここで梅子は生物学研究者として師となるトマス・モーガンと出会う。モーガンはそれから40年も後の1933年に突然変異の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞している。
  梅子とモーガンの実験発生学的研究の共著論文が、いかに優れたものであったのか、本書では資料に基づき詳細に言及している。外国の学術雑誌に最初に論文発表した日本人女性、かつ日本初の女性理学博士は保井コノであると言われているが、論文発表は梅子の方が17年も早く、このまま梅子が生物学者としてのキャリアを積んでいたら、日本初の女性理学博士に輝いたのは確実だろういう。しかし、梅子は葛藤の末、帰国し生物学と決別する道を選んだ。
  梅子が帰国を決断したのは、官費留学生として国家の近代化に貢献する役割を自らに課していたからであろうという。また、生物学を学んだことも、個人的興味だけではなく、女性が科学者として生きることが不可能に近い時代状況の中で、梅子なりの時代への挑戦だったのではないかというのである。そのままアメリカで研究生活を送っていたとしても、多くの壁が立ちはだかっていただろうし、生物学者として日本に帰国したとしても、アメリカ以上の至難の道が待ち受けていたことは想像にかたくない。
  梅子は華族女学校のような保守的な学校とは異なる私立の塾の創設し、女子のための本格的な英語教育の導入に努めた。われわれは津田塾と言えば英語と短絡的に結びつけてしまいがちだが、梅子にとって英語は最終目的ではなかった。英語を通して西欧近代の思想、学問、科学などに目を開かせ、日本人女性にジェンダー観の覚醒を促そうとしていたのである。梅子にとって、女子教育と生物学研究とは密接した関係にあったと言えるように思う。
  本書は科学史の視点にジェンダーの視点を織り込み、津田梅子と生物学との関係について光を当てた評伝だが、梅子の生涯を描くだけで終わるものではない。本書の後半のページでは、津田塾に関わってきた多くの人物について語られている。とくに梅子の後継者であった星野あいと、星野が創設に尽力した津田塾専門学校理科(数学科、物理化学科)について、かなりのページ数が割かれている。
  繰り返しになるが、これまで津田塾大学といえば英語のイメージが非常に強く、いわゆる文系の大学として捉えられてきたように思う。少々大学に詳しい人ならば、津田塾大学には理系の学科として数学科(今世紀になって情報科学科も加わった)が存在することは知っていても、かつて物理化学科(「化学」の一分野としての「物理化学」ではなく「物理学科」と「化学科」を合わせた学科)があったことを知る人はかなり少ないように思う。
  梅子は自ら創設した塾をいずれ「真の大学」にする夢を持っていたという。現在は残念ながら津田塾大学に物理化学科は存在せず、梅子が専攻した生物学関係の学科も存在したことはない。しかし、当時理系の学科も擁する「真の大学」実現の一歩手前まで来ていたのである。サブタイトル「科学への道、大学の夢」の「大学の夢」とはこのことを指しているように思う。
  さらに言えば、梅子のいう「真の大学」とは津田塾だけで留まるものではなかったのではないだろうか。現在、多くの女子学生が大学で学び、理系分野の学問を修め、科学技術に携わる女性も珍しくない。政府に肩入れするつもりはないし、先の財務省の引用文からは読み取れないが、新札の肖像としての津田梅子は、「女性活躍」だけではなく、それとの関わりで「科学の発展」にも大きく寄与した意味でも適任なのかもしれない。
  一方で、いまだに「ガラスの天井」は存在するとも言われ、現実に打ち破るべき壁が存在するのも事実だろう。また梅子が国家に貢献する役割を自らに課していたため葛藤したことは、梅子個人の人生だけを見れば、喜ばしいことではないようにも思う。本書を読み進めてきた読者の多くは、生物学者として大成した梅子の姿を見たかったと思うのではないだろうか。
  もちろん梅子の使命感を尊いと捉えることもできるだろうし、国家への貢献がすべて否定されるべきものでもない。しかし今後も貢献を強制されるような「悲劇」だけは起きないことを願いたく思うし、梅子がさまざまな葛藤と闘いながらも、女性の自立を最終的な目的として茨の道を歩んできたことこそ最も尊いことであろう。
  本書は資料に基づいて構成された評伝であり小説ではない。だから当然のことではあるが、著者・古川安氏の筆致は淡々としている。しかし不思議なもので、その行間から梅子の心根が自然と浮かび上がり、読者は静かな感動を覚えるはずである。本書はさまざまな視点から読むことができるだろう。新たな津田梅子像として、科学とジェンダーとの関わりについて、日本の生物学史の(あえて付け加えれば、これまであまり知られていなかった)エピソードとして、などなど。新紙幣の肖像になぞらえて言えば、本書は梅子の新たな「肖像」を描いた紛れもない労作である。
  本書を読み終えてまっさきに思い浮かんだのは、科学を志している若い人たちのことである。この静かな感動を若い方々と分かち合いたいと思った。これから新五千円札と日々付き合うことになるはずの若い人たち。是非女性にはと思うが、女性に限ることはない。これからはまさにジェンダーレスの時代である。また科学を志す人たちには特にと思うが、科学と縁遠いと思っている人たちにこそ読んでもらった方がよい。これからの科学は市民のすべてが関わりを持って進めていくべきものだと思うから。



  最後に、本書『津田梅子 科学への道、大学の夢』の読後『女性の自立と科学教育―津田塾理科の歴史』(津田塾理科の歴史を記録する会・編、ドメス出版、1987年)をアマゾンマーケットプレイスで購入し読み終えたことを記しておく。
  この本は本書にも参考文献として挙げられているが、津田塾理科の歴史についてのみならず、明治から敗戦後の新制大学に至るまでの日本における女性の自然科学教育の歩みについて、数多くの資料ととともに述べられている。個人的には津田塾専門学校理科と東京女子高等師範学校理科および東京物理学校の課程表・カリキュラムの比較対照はとくに興味深かった。

  


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