「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

兄妹の「和魂洋才」―『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』、『山川健次郎の生涯』他

2014年02月11日 | Life
☆『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(久野明子・著、中公文庫)、『明治の女子留学生』(寺澤龍・著、平凡社新書)、『山川家の兄弟』(中村彰彦・著、人物文庫)、『山川健次郎の生涯』(星亮一・著、ちくま文庫)、『日本人と近代科学』(渡辺正雄・著、岩波新書)☆

  きっかけは昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」である。幕末を勝者(薩長)の側からではなく、敗者(会津)の側から描いていることで目新しさも感じられたが、最初はそれほどおもしろいとは思わなかった。ところが、会津戦争のころから俄然おもしろくなってきた。会津藩のおかれた苦境や、その苦境のなかで闘い生きていく会津の人たちの姿が、ドラマ後半になって、より鮮明に描かれはじめたからかもしれない。
  さらに、後半のモチーフが武力や政治権力ではなく、教育の力で社会を変革していこうとするところにおかれていたことも、とても興味深く思えた。新島襄・八重夫妻を主役としたのは、そのモチーフを具現化するためだったように思われた(実際はどうだったのだろうか)。八重の兄の山本覚馬もやはり興味深く描かれており、さらに詳しいことを知りたくなり、ウェブで少し調べたりもした。しかし、もっとも興味を持ったのは、山川健次郎・大山捨松(山川咲)の兄妹である。ドラマでは、健次郎を勝地涼、捨松を水原希子が演じていた。余談ながら、勝地涼が演じた健次郎は、健次郎の若き日の写真とけっこう似ていたように思う。
  山川健次郎は、白虎隊士の出身でありながらアメリカへ留学し、帰国後は東京帝国大学総長などにまで上り詰めた人物である。また、近代的な意味での日本最初の物理学者であり、日本人初の物理学教授でもあった。物理学者としては魔鏡(※1)の研究やX線の実験、「千里眼」事件(※2)の調査研究にもたずさわった。しかし、健次郎がもっとも手腕を発揮したのは、教育行政や科学振興の分野であろう。東京物理学校(現在の東京理科大学)の創設への協力が、その最初の仕事であったという。その後は、施設の拡充、学校の増設、研究所の新設などや、多くの講演活動もおこなった。また、田中館愛橘や長岡半太郎などの物理学者を育て、今日の日本の物理学の基盤を築いた。
  健次郎は、いわゆる朝敵である会津藩の出身にもかかわらず、異例の立身出世を遂げた人である。しかし、立身出世という言葉は健次郎には似合わない。彼は学生を熱心に指導し、その意味では厳しい教師だったが、誠実で勤勉な人柄であり、暮らしぶりも清貧であったという。帝大総長などの重職に就いたのも、自らの野心からではなく、周囲から推された結果によるものだった。
  健次郎の謹厳実直さは、古き良き「会津精神」やその逆境によって育まれたといえるだろう。彼の教育行政・科学振興・人間教育は、そういった精神と留学の経験によって成されたものであり、「和魂洋才」の言葉で集約することができるように思う。とはいえ、当今ときおり見られる偏狭な国家主義などとは明らかに異なる。
  明治天皇が乗車するはずだった御召し列車が門司駅構内で脱線し、その責任者が鉄道自殺を遂げた事件があった。その折、当時九州帝国大学初代総長を務めていた健次郎は、人命を尊重すべきという見解を新聞に発表した。天皇という大義名分のもとで、人命が軽視される時代風潮に警告を発したのだという。象徴天皇となった現在においても、自らの保身ばかりを考えて、こういった発言はなかなかできないものだ。健次郎の人柄を知るうえで意味深い逸話である。
  明治の初め、5人の女子留学生がアメリカに渡ったことはよく知られている。同時に、そのなかの最年少が津田梅子であり、後年津田塾大学の前身である女子英学塾を創始したこともよく書き添えられている。しかし、津田梅子の陰に隠れて、他の4人についてはほとんど知られることがなく、そのなかの一人が山川健次郎の末妹である大山捨松(当時は、山川咲を改名して山川捨松)だったことも意外と知られていないように思う。もっとも、会津では新島八重よりも大山捨松のほうが有名だという話を聞いたことがある。
  健次郎にしても捨松にしても、その留学はさまざまな運や縁によって導かれたものであった。しかし、留学生としての思いは、会津の再興、しいては日本の将来に向けて貢献したいという願いだったように思う。健次郎や捨松の勉学心には舌を巻く。天与の才があったにしても、強い目的意識に支えられていたことは察するに難くない。捨松は日本人女性として初めてアメリカの大学を、それも優秀な成績で終えて帰国したが、当時の日本には彼女の能力を活かす場はなく、予想外の失意を味わうこととなった。会津の仇敵である大山巌と結婚したのも、そういった複雑な感情と無関係ではないだろう。幸いにも大山との生活は、親愛の情に満ちた幸せなものだったようである。
  捨松といえば、大山巌夫人としての「鹿鳴館の華」に光が当てられることが多いが、彼女の本当の活躍はもっと地味なものが多い。捨松がもっとも関心を抱いていたのは女子教育であった。また、看護婦の育成にも尽力した。鹿鳴館での社交の一方で、慈善バザーを開いたが、それらと無関係ではない。これまた津田梅子の陰に隠れてしまうが、女子英学塾の創設に協力し、後年顧問にもなっている。留学生時代からの親友であるアリス・ベーコンを通じて日米親善の役割も果たした。ちなみに『鹿鳴館の貴婦人』の著者・久野明子さん(捨松のひ孫に当たる方)は、捨松を「鹿鳴館」や「貴婦人」という華々しいイメージから解放してあげたくて、もっと地味なタイトルを考えていたという。しかし、編集者たちのすすめで、日本人好みのいまのタイトルになったのだという。ついでながら、「八重の桜」にも健次郎や捨松の活躍が少しばかり描かれていたが、主役である新島襄・八重夫妻に引き寄せるかたちで描かれるためか、ここに挙げた本の「史実」とは異なる部分があったことも付け加えておきたい。
  捨松や津田梅子は帰国後も、日本語より英語のほうが堪能であり、お互い英語での会話を楽しんでいたという。そういったことも災いしてか、捨松をモデルとして書かれた徳富蘆花の小説『不如帰』では、洋行帰りの意地悪い継母として描かれ、長年にわたって捨松を苦しめた。捨松が日本語よりも英語を流暢に話していたとしても、そのこころは日本人であった。留学で身につけた合理的な精神も、日本人の魂を変えるものではなく、新しい日本を築いていくための方途であった。捨松もまた、健次郎と同様に「和魂洋才」の人であったといえるだろう。
  捨松が女子教育に力を注いだのに対して、健次郎は女性の本分を結婚して子女を育成することにおいていたという指摘もある(その意味では、女子教育の重要性を説き、同志社女子大学の前身である同志社女学校の開学にも関係した山本覚馬のほうが先進的であったといえるかもしれない)。このことは皮肉であるというよりは、時代の制約として捉えるべきだろう。いずれにしても、健次郎・捨松兄妹の「和魂洋才」は、幕末・維新を通して会津がおかれた逆境と、運よく与えられた留学の場で育まれ、日本の行く末を見据えた生き方の発露であった。
  昨今の日本の現状を見ていると、「和魂洋才」的なことを言いながらも、およそ「和魂」を忘れた「洋才」のまねごとであったり、「和魂」が国粋主義の隠れ蓑であるように感じることがあまりに多い。政治家の主張は自己目的化し、その主張の実現に拙速でありすぎると言わざるを得ない。政治の世界のみならず、世間を見ても不誠実で謙虚さを欠いた言動も少なくない。そんないまの時代だからこそ、以下の山川健次郎と大山捨松の言葉を、いま一度、虚心に味わってみるべきではないだろうか。

  「日本では忠義のために死んだといふやうな人は沢山あるが、真理のために死んだといふ人はまだ聞かないやうだ」(山川健次郎)

  「人は祖国のために死ぬことは名誉あることだといいますが、祖国のために生きることの方がもっと大変なことだと思います。もし、誰かが死ぬことで、日本の国のためになるのでしたら、私は喜んでその一人になるでしょう。でも、今日本が一番必要としているのは、心からこの国に貢献したいと願っている人達による息の長い仕事なのです」(大山捨松)





  『日本人と近代科学』を読んだのは、もう何年前になるだろうか。画像のように、その頃はなぜか本のカバーを剥いでしまうクセがあった。ともあれ、そこで山川健次郎の名前を初めて知った。そこには大山捨松のことも簡単にふれられていたのだが、まったく記憶に残らなかった。
  「八重の桜」を見て、山川健次郎のことを思い出し、健次郎に引かれて大山捨松のことも知りたくなった。ドラマが終わりに近づいた秋ころから、健次郎・捨松兄妹のことが書かれた本を読み漁った。それがここに挙げた、上記の『日本人と近代科学』を除く、4冊である。ちょうど母の介護が終末期を迎えていたころでもあり、この兄妹の生きかたは慰めや励みにもなった。母の介護のことを書いた後で、やはり一言ふれておきたいと思った次第である。

  ※1:青銅鏡の一種で、鏡面に太陽光を当てて、その反射光を白壁などに投影すると、鏡の背面に鋳造された文様などが映し出される。

  ※2:熊本に「透視」能力を持つ御船千鶴子という女性があらわれ、健次郎はその実験に立ち会った。さらに、「念写」も行う長尾郁子という女性が丸亀にあらわれ、健次郎自らが実験をおこなった。健次郎は留学時代、「透視」能力を持つという学生の「透視」実験を目撃し、すでに興味を持っていたという。
  その背景として、19世紀後半に電磁波、X線、放射能などの発見があいつぎ、不可視な現象に物理学者の関心を集めていた時代でもあった。また、早くから「千里眼」の実験をおこなっていたのは福来友吉などの心理学者であったが、彼らは「千里眼」に肯定的であり、世間も盲信する傾向にあったという。そのような風潮のなかで、健次郎は科学的(物理学的)にその真偽を正そうとしたのは、迷信や詐欺の流行を防止する目的からであった。ここにも、科学者・教育者として社会的責任を果たそうとした健次郎の姿勢があらわれているように思う。

  

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