或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「私の頭の中の消しゴム」in Osaka~その3

2012-07-16 02:32:12 | 日記
夜中にはいろいろと考えが錯綜するね。

私の本来あるべき立脚点に立ち返ってきたのかもしれない。

それだけ、「私の頭の中の消しゴム」という劇が、

私に与えた影響が大きい、ということになる。

これからどう生きていくか、過ごしていくか、

考えるためのきっかけとなったことは確かだと思う。

「私の頭の中の消しゴム」in Osaka~その2

2012-07-16 02:22:49 | 日記
なっちは竹を割ったような性格のようだ。

アフタートークで、

「好き嫌いをはっきりとする」「嫌いと思ったらスパッと切る」、

と言っていた。


以前書いたが、私が、「好き」、と言えるのは、meine Liebsteに対してだけである。

かといって、他は全て、「嫌い」、というわけではない。


「ファン」というものにも言及したことがあった。

「好き」と「嫌い」の間に、「ファン」が存在するのかもしれない。

でも基本的に、あまり嫌いな人はいない。

なら全部、「ファン」かというと、そうも言いきれない。


仏教の「中道」、という考えからいくと、「極端はいけない」、ということになる。

なら私の中では、「好き」「ファン」「中道」「嫌い」、と分けることができるかもしれない。

ほとんどの有名人に対しては、「中道」、が当てはまると言える。

なっちは、「ファン」、になるだろう。


ちなみに、本義の「中道」というものは、上述のようなものではない。

生き方、考え方に於いて、基本的に、「中道」であるべし、ということになる。

極私的な言語借用としての、「中道」、という考え方が私の中にはある、と言えるだろう。


少し今日(日付では昨日)の観劇で、私の中では、「コペルニクス的転回」、が起こったのかもしれない。

「私の頭の中の消しゴム」in Osaka

2012-07-16 01:40:10 | 日記
なっちの言葉で思いを強くした。

meine Liebsteが認知症になったのなら、

在宅介護や施設入居しているところへ、

毎日のように会いに行こうと。


大切な人が記憶を失ってくる。

私の事さえもわからなくなってくる。

でも、私は通い続ける。

認知してくれても、他人扱いされても、

一生続ける。


私のことなどどうなってもいい。

というか、これは自己満足かもしれないが。


ある程度記憶が残っていたり、

一時的に記憶がよみがえったりしたら、

辛いのはmeine Liebsteのほうかもしれない。


でも、私が辛くなったり、耐えられなくなったりしても、

通い続ける。


辛さから拒否されるかもしれない。

でも、もし直接会えなかったとしても、

通い続ける。


なぜなら、私はmeine Liebsteを愛しているから。

愛する人の姿をできるだけ長い間、見ていたい。

どんな状態であっても。

できるだけ一緒の時間を共有したい。

最期の日まで。


いや、

私の方が先に死ぬかもしれない。

しかし、いずれにしても、

「永遠の愛」、というものを実証したい。


Die Liebe ist ewig.