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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

NASKあれこれ

2005-06-22 | アメリカ旅行
 エスペラントにもいわゆるネイティブがいる。親が国際結婚で、家庭内ではエスペラントを使っているような場合である。成長するにつれて社会とのつながりが広がって住んでいる場所の言葉で生活するようになるから、ネイティブだからといって必ずしも優れたエスペランティストではないらしい。
 2000年のNASKでは、2人のネイティブがいた。そのうちの一人に聞いてみたが、彼は「自分にとって、エスペラントは自然だが、得意ではない」というのだ。実際、彼のエスペラントはアメリカ人の英語のようにものすごく流暢で聞き取るのがたいへんである。そのくせ、私でも知っているような基本的な単語で詰まったりする。実に奇妙な感じで、「エスペラントの趣旨から、ネイティブは作るべきではない」という意見にも一理あると思った。

 大学では様々な夏期集中講座が行われていて、エスペラント講座もそのひとつであった。したがって、希望すれば正規の単位を取得できる。私も希望しておいたら、スポメンカに「あなたには単位なんて必要ないでしょう。それとも今から修士号でも取るつもりなの?」と言われてしまった。「いや、まあ、その、単なる記念にと・・・」
 というわけで、別に必要はないのだが、サンフランシスコ州立大学の語学単位を「優秀な成績で」(と信じておこう)3単位取得した。どこかの元議員がうらやましがるかも。

 講習最終日の14日(金)は、中級・上級と入門・初級がそれぞれ合同で3時間の授業を受けて、午前中ですべての日程が終了した。中・上級の前半はスポメンカの指導で「エスペラントとは何か?」をテーマにした討論。いいたいことがなかなか口に出せないもどかしさを感じた。後半はゴダールによるエスペラント音楽の紹介。非英語圏のアーティストがメジャーになるためにエスペラントで歌う例があるとか。
 15日、早朝に軽い地震があった。日本人にとっては何でもないのだが、地震のない国から来た人にとっては、かなりいやな気分のものだったようだ。
 宿舎と食事は16日(日)の昼までだったが、金曜日の午後から少しずつ帰っていく。15日の朝、M.K、N.N、H.Y、スポメンカなどを見送った後、私も10時半頃に大学を出た。
 そしてこの年が十数年続いた州立大学でのNASKの最後の年になった。大学の計画のためにエスペラント講座が開けなくなって、翌2001年はサンフランシスコ市立大学で行われ、2002年からアメリカの東部、バーモント州のブラトルボロ(Brattleboro)という町で行われている。

   写真はヤーバグエナ・ガーデン 正面の壁にエスペラントのメッセージ
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エスペラントの国際試験

2005-06-21 | アメリカ旅行
 世界エスペラント連盟(UEA)と国際エスペラント教師連盟(ILEI)の国際試験については、NASK参加申し込みしてまもなく「受けませんか?」という誘いのメールが来たので、すぐに「受けまーす!」と返事しておいたのだが、何の準備もしていかなかった。もっと大勢が受けるのかと思ったのだが、受験者は4人(初級・中級各2人)だけだった。試験は第1部が文法、第2部が聞き取りと筆記、第3部が面接である。それぞれで合格しないと次の段階に進めない。
 一夜漬けの効く試験ではないが、エスペラントの歴史や文学についての知識が要求される。エスペラント歴の浅いものにはもっとも苦手な分野である。そこで、ビルがレクチャーしてくれることになった。NASK2週目の7月3~6日、休日の4日を除いて1.5~3時間の特別講義である。一回聞いただけではとても憶えられるものではないが、ノートを整理しながら復習した。ミカエルがエスペラント文学史の本を持っていたので、7日の午前中に少しだけ読んだ。
 最初の文法試験は7日(金)の昼少し前から40分。問題文の中に文法ミスを発見したほど、これは余裕で通過。
 午後は通常通りに講義に出席して、夜は筆記試験(3時間)である。実のところあまり正確には覚えていないのだが、おおよそこんな感じであった。
 まず試験官が長文を2回読むのを聞いて、いくつかの質問に答える。整理しきれないうちに次の長文が読み上げられ、私はパニックに陥ってしまった。2つ目の長文は要約せよというものだったが、内容が難しくてほんの少ししか書けなかった。3つ目は正確に書き取る問題。リリーロ? RかLかどっち? あれ、話はどうなった? わーっ、アタマ真っ白!
 読解力を問う問題は、長文を読んで質問に答える。これは生物発生(?)に関する科学論文らしく、日本語で読んでも難しいようなシロモノ。エスペラントの歴史や文化に関する問題は、答えを語群から選ぶ形式。最後にいくつかのテーマから一つを選んでエッセイを書く。
 自信のあるのはエッセイ(私はエスペラントによる国際交流をベトナム戦争と枯れ葉剤被害に関連させて書いた・・・と思う)だけで、後はさんざん。ダメだったぁ~~~! とみんなにも言っていたのだが、翌朝張り出された合格者名簿には、私を含めて4人全員の名前があった。
 最後の面接は8日(土)の午前に行われた。ほとんどの参加者はミュア・ウッズ国定公園に遠足に行ってしまった。
 最初に、電車かバスの中の光景を描いた漫画的な絵が示された。真ん中に太った人が立っていて、天井の一部といっしょにちぎれたつり革を持って困惑している。足許には大きなカバンがある。この絵を見て話をしろという。見たままを言ったら、それだけかと言う。何のことかわからなくてまごまごしていたら、この人はどういう人かとか、カバンには何が入っているのかと聞く。(そんなんどこにも書いてないぞ!)えーっと、銀行の頭取です。カバンには取引上の重要書類が入っています。。。今朝運転手が急に病気になって、しかたなくバスに乗ったのです、と言ったら試験官が嬉しそうな顔をした。それでやっと気がついた。これはこの絵を元にして自由に話を作れということだ。それなら全国合宿のK.Kさんの講義でやった事じゃないか。。。と、その時にはすでに次の質問に移っていた。
 アンドレオ・チェについて。これはエスペラントの直接教授法の創始者である。
 最近読んだ本について。これも準備してあった。ほんの一部しか読んでなかった「奥さん信じてくださいよ」というセールスマンを主人公にしたエスペラント原作小説について、いかにも全部読んだような顔をしてとくとくと話した。
 日本の食べ物について。寿司について解説。生魚が寿司ではない、あれは刺身。寿司というのは・・・。
 終わったらどっと疲れが出たが、待っていてくれた数人の仲間と解放された気分で街へ。
 正式な合格通知は日本に帰ってから郵送されてきた。

   写真はサンフランシスコ観光名物のケーブルカー
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消えた遊び道具

2005-06-20 | アメリカ旅行
 寄宿舎は4階だったか、フロア全部がエスペラント講習会参加者で占められていた。真ん中にエレベーターホールがあって、ソファやテーブルが充分な数だけ置いてあった。7月2日の午後に、私の持ってきた日本のゲームで遊んで、その夜遅くまで若い人がトランプなどで遊んでいた。翌日の朝か夕方に、碁のセットがなくなっているのに気づいた。誰かが部屋に持っていったのかと思っていたが、一向に戻ってこない。
 「持っていった人はいったん返却してください」という張り紙をしたが、戻っては来なかった。講習会の世話人エレンが心配し始めた。そのうちに、私は中国将棋もなくなっていることに気づいた。これは箱入りのセットで、紙製の盤・駒と、解説書のセットで、箱の中の盤・駒だけなくなっていた。
 寄宿舎のこの階に来るのは、エスペラント仲間と、掃除の女性たちだけである。彼女たちは中国語を話している。確証があるわけではないが、状況は明らかと思われた。
 私はエレンに話した。どちらも日本で買えば数百円のものだから、私にとってはたいしたことではない。それよりも、碁や中国将棋を知っている人にとっては、このアメリカでは手に入れることが難しいこれらの遊び道具が、とても価値あるものかもしれない。それだったら、私が持っているよりもその誰かが持っている方がいいというものだ。だからこのことについてはもう心配しないでくれ、と。
 NASKの日刊通信の第12号に、このことについての私の短い文が載っている。

   幸せにする道具であれ

 私の遊び道具たちはどこにあるのだろうか?
 それらは私にとってとても大事なものというわけではない。なぜなら日本では容易に、安価に手に入るものだから。
 そして、それらは、私がこの講習会で得た何か(この「何か」をどう表現すればいいのかわからない)に比べればほとんど無に等しい。
 ただほんの少し私を悲しませるのは、それらが何も言わずに消えてしまったことだ。しかしそれもまた重要なことではない。
 私は、それらが誰かを楽しませ、あるいは慰めてくれることを望むのみである。

   写真は大学近くの公園
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休日の過ごし方

2005-06-19 | アメリカ旅行
 休日には、いろんな行事が行われた。もちろん参加は自由である。
 7月1日(土) 近くの公園へ歩いて遠足。みんなでゲームをして、後は自由におしゃべりしたり池の周りを散策したり。弁当はあらかじめ申し込んで、食堂で作ってもらった。
 2日(日) この日は本当の休日。みんな街に出かけたり近くの親戚の家に行ったりして休日を楽しんだようだ。
 午前中に国際試験の説明会が行われて4人が参加。私とM.Kさんは初級、ミカエルともう一人のミカエルは中級を受験する。
 いくつかのゲームを持参していたので、レザやエレン(NASKの世話人)と相談して通知を貼りだしておいたら、数人が教えてくれとやってきた。寄宿舎のホールで碁、十六ムサシ、オセロ、中国将棋、花札などについて話して、みんなで遊んだ。碁について知っている人は多いようだ(ルールまでは知らなくても)。
 この日はエスペラントについていくつか講師や上級受験生に質問した。
 ミカエルとは長時間議論した。ベトナム戦争などについては意見がほぼ一致したが、「ならず者国家」論では一致できなかった。彼は「どこかに第2のヒトラーが現れたらほってはおけない」からアメリカが攻撃されなくても、他国を攻撃することはあるというのだ。
 4日(火) この日はアメリカ独立記念日で休日。午前中はM.Kさんと国際試験のための勉強。午後は日本人5人で集まって歌の練習。9日に訪れるハルモン邸で歌うためである。
 午後3時頃から十数人で街に出かけた。ショーンが案内してくれた。フィッシャーマンズ・ワーフを歩き、チャイナタウンで食事をして、港で花火見物。途中で別行動で来ているグループに会った。
 8日(土) 巨大なレッドウッドの森、ミュア・ウッズへ遠足。行きたかったが、この日は国際試験の第3部があっていけなかった。
 試験が終わったら、ショーン、リーの2人と、日本人3人が遠足に行かないで待っていてくれた。私とM.Kさんを加えて7人で街へ。まず行ったのがゴールデン・ゲート・ブリッジ。メキシコ料理で昼食。ヤーバブエナ・センターから繁華街(ユニオン・スクエア?)に出て買い物。
 9日(日) ハルモン邸でパーティ。日本が好きなエスペランティストで、日本式のお風呂や庭園がある大きなお屋敷。地元のエスペランティストや日本から来たジョエルさんも加えて50人近い人がいたと思う。ケーキなどが準備されていた。我々も入れて、何組かが歌ったり演奏して盛り上げた。

   写真はハルモン邸
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エスペラントな夕べ

2005-06-18 | アメリカ旅行
 午前と午後は講義時間である。その前後と間の食事時間も出来るだけ多くの人と会話する大事な時間である。そして、夕食後にも何らかの企画がある。出席は自由だから、部屋にこもって宿題をやったり休んだりしている人もいるが、こんなに楽しい時間を見逃すのはもったいない話だ。どんなことが行われたのか、ざっと見てみよう。
 6月26日(月) 第1日目 「お互いに知りあうために」 主に4人の講師の自己紹介。
 27日(火) 湧命法について(レザ) 湧命法というのは、整体法の一種。西園寺というエスペランティストが編み出した方法で、ロシアやベトナムなどにも広がっている。
 28日(水) 折り紙の夕べ(日本人参加者も手伝ってくれたが、もちろん私が主役)
 29日(木) 日本のビデオドラマ「夏の別荘で」 八ヶ岳エスペラント館で撮影された全編エスペラントのみの推理ドラマ。
 30日(金) 茶道(N.Y) 他の日本人も手伝ったが、レザやスポメンカが我々にまけないくらいよく知っている。
 7月3日(月) カナダの夕べ(カナダからの受講生がケベック州の言語問題などを話した)
 5日(水) グァテマラの夕べ(マヤ族出身の受講生が、戦争で先住民がたくさん殺され、今も差別と闘っていることなどを話した。在学中の大学では唯一のマヤ族ということで、露骨に差別されたり、右翼的な人たちに脅されることもあるという。彼女の持ってきた伝統的なショールや袋物などがなかなかよくて、おみやげ用に数枚ほしかったが、人気があって1枚しか買えなかった。)
 6日(木) 芸術の夕べ レザの本格的な日本舞踊、日本人のN.Nはフラダンス、一番若い受講生のクラヴィーシャ(11才)が体操、そのほか、歌、演奏、合気道、テニスボールを使ったお手玉、ダンスなどなど。
 7日(金) みどりの夕べ(H.Y) 七夕にちなんで、毛筆で自分の願いを書く。要は書道の紹介。このときだけ、私は国際試験のために参加できなかった。
 10日(月) 日本の夕べ 日本紹介のスライドのほか、みんなが持ってきたものを寄せ集めて紹介。コマ、けん玉、日本茶、わさび味のあられなど。この後アメリカのエスペラント映画「悪夢」(英語の字幕つき)を上映。
 11日(火) 詩の夕べ スポメンカがプロデュース 一つの詩をいろんな国の言葉で朗読(私も日本語で朗読した)。新作の詩を発表する人もいた。
 12日(水) イランの夜(レザ)
 13日(木) 終了式 各自が講師から修了証を受け取った。ちょっと感動。

   写真はメキシコレストランにやってきたバンド
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アメリカの大学食堂

2005-06-17 | アメリカ旅行
 3週間のエスペラント講座の間、外出した時を除いて食事は3食とも大学構内の食堂で食べる。公立(サンフランシスコ州立)の大学だから、私立に比べるとあまり良くないんだとアメリカ人に聞いたが、量・種類は充分すぎるほどである。入り口で学生証のようなものを見せて中に入る。メインディッシュは3種類くらいの中から選んでお皿に取ってもらう。肉料理はほとんど挽肉を使ってあった。アメリカといえばステーキと思ったのだが「そういうのは高いからここでは出ない」といわれた。他に卵料理は別のカウンターで注文できる。
 メインディッシュと卵料理以外はすべてセルフサービスで、食べ放題である。甘いケーキが数種類。パンが数種類あって、自分で焼く。バターやジャムも当然ある。ワッフルも焼ける。数種類のシリアルがある。さらに日替わりのコーナーがあって、メキシコ料理や中国料理がおいてある。野菜のコーナーには十種類くらいの野菜とピクルスやオリーブの実などがあり、数種類のドレッシングがある。野菜はブロッコリーも人参も、日によって切り方が違うだけですべて生である。他に飲み物のコーナーがあった。ただしアルコール類はなかった。
 これだけ豊富にあるから食べるものには苦労はしなかったが、あまりおいしいとはいえなかった。実は、アメリカにいた通算5週間で、食べ物を美味しいと思ったことはほとんどなかった。もっとも高級料理店のようなところには一度も行ってないのではあるが。
 サンフランシスコ市街に出たら、メキシコ料理を食えといわれたが、やっぱりそれほどでなかった。
 アメリカ人の先生ゴダールが、いろんな国(地域)の文化・風習について講義の中で話したが、アメリカについてはこんなことを話した「ある時飛行機にいろんな国の人と乗っていた時、オヤツに出されたナッツが古くなっていて、みんな食べなかった。しかし、アメリカ人だけは平気で食べていた」
 ポートランドで、若いエスペランティストと歩いていた時、街頭でカロリーメイトのような濃厚栄養食品らしきものを配っていた。私は美味しいとは思わなかったが、彼は「これはとても良い食べ物だ」という。美味しいかどうかでなく、栄養的に良いかどうかで判断したらしいのだ。
 これだけの経験でアメリカ人の味覚を非難するわけにはいかないと思うが、私が経験した範囲では、食べ物のもっとも美味しくない国である。

   写真はメキシコレストランの食事
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エスペラント講習と日刊通信

2005-06-16 | アメリカ旅行
 3週間の間、午前は8時半から11時半(初級・上級)、午後は1時半から4時半(入門・中級)まで講義である。休日(土・日と7月4日=アメリカの建国記念日)は遠足などの行事があった。私は午後の中級講座は皆勤したが、午前は半分くらいしか出ていない。とくに第2週は国際試験受験のための特別講義に出ていた。
 休みの日を除いて、毎日通信が発行された。A4で4~8ページ。上級受講生のリー・ミラーが編集をしていたが、原稿は受講生みんなが書いた。私もポートランドからバークレーにたどり着くまでの旅行記を書いた。私が「折り紙の夕べ」で配った資料もそのままコピーして再録された。折り紙をテーマにして詩を書いた人もいた。

  芸術の大家レオナルドが言った:
  夢の中で雲を見ながら君は絵を見るだろう。
  そのとき彼の想像力に私はとても驚いた。
  しかし今、カラスやカモメが天才的な手によって
  紙から誕生するのを見てもっと驚いた。
  彼の見事な指の呼びかけで
  ほらウサギが走り、蛙が跳び
    馬が駆け、つばめがとび
    白鳥が優雅に滑り
    らくだが堂々と行進し、
    ・・・
 といった調子(原文は韻を踏んでいる)である。私の折り紙に着想を得たものには違いないが、作者のイメージがどんどんふくらんでいる。
 休みの日に偽物の通信が発行されたことがある。浴室で盗難事件があったから、部屋から裸で浴室へ行くことを勧める。月曜日は水が出ないから公園の池で体や衣類を洗う許可が出ている。池には鴨がいるからエサにするパンを食堂から少し持ちだしても良い。こんな内容の冗談記事である。
 通信は13号まで発行されたが、実はNASK終了後もネット上で発行され続けた。半年ほどの準備期間を経て、2001年の1月から10月まで通算7号発行された。受講生からの投稿作品で構成され、NASK期間中に発行された通信に比べて、号数は半分でも量では数倍になっている。
 これらの通信は今でも読むことが出来る。期間中に発行された通信は抜粋がHP上に公開されているが、ほぼ完全な形のMS-WORD文書がダウンロードできる。ニセ通信も入っている。
 http://www.medialabinc.net/nask/nask.htm
 http://www.medialabinc.net/temp/fasko/fasko/

   写真は遠足で訪問したハルモン邸のクロネコ
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3週間のエスペラント生活

2005-06-15 | アメリカ旅行
 講義は録音して良いということだったから、録音可能なポータブルMDを持参していった。90分単位の講義なので、1枚80分のMDが少し具合が悪かった。今だったらiPodでも持っていくところだ。
 ゴダールの話はわかりやすかったが、スポメンカには独特の癖があって、最初の頃は聞き取りに苦労した。デニスは主に初級で教えていたので、中級クラスに来たのは3回だけであった。講義中、受講生がどんどん手を挙げて質問したり意見を言う。スポメンカの聞き取りに苦労しているところに加えて、思ったことをさっとエスペラントで表現することがなかなか出来ず、最初は劣等生の気分だった。
 1回目で全員が自己紹介をし、2回目でどれだけ憶えているか試されたが、私だけほとんど何も憶えていなかった。緊張のために余裕もなかったが、人の顔と名前を覚えるのが苦手なせいもある。
 いつもはどんどん発言する受講生にも文法の苦手な人が少なくない。書いたものには対格の使い方や自動詞・他動詞を作る接尾辞など、ミスが多かった。
 各クラスとも、教材はあらかじめ知らされていたものだけでなく、講師が準備したたくさんのプリントや受講生自身の作品も教材になった。あれだけ頑張って予習した音声教材「君、聞いたかい・・・」はあまり使われなかったが、「大冒険」は講師全員でフルに使った。
 宿題が山ほど出ると聞いていたが、それほどではなかった。これは講師によっても違うようで、スポメンカはほぼ毎回宿題を出した。講習3日目にスポメンカが「大冒険」の中の一作品を要約する宿題を出した。私は単純に「要約」をしたくなかったので、主人公の心の動きを描くエッセイのようなものを書いた。これをスポメンカが最大級のほめ言葉(かな?)で評価してくれて、翌日の講義で教材に使った。日本人にはエスペラントも難しい、その日本人がこれだけの文章を書けるのはたいしたものだとかなんとか。ちょっと面はゆかったが、おかげで割に早く劣等生気分から抜け出ることが出来た。
 のちに、音声教材「君、聞いたかい・・・」の一つの小話を「要約」する宿題が出た。他の受講生が「要約」でなくエッセイのようなものを一生懸命書いてきたのにたいし、私はうんと短い「要約」を書いて提出した。みんながあきれているのをにやにや見ている余裕が出来ていた。
 全体として、3週間の間エスペラントにどっぷり浸かっていることが最大の学習であった。日本人同士では日本語になってしまうので、食事などは出来るだけいろんな国の人と同席して話すようにする。NASK通信の第1号に「英語を話すな」とあったが、実際講師も含めて英語を聞くことはほとんどなかった。
 参加者は講師を含めて45人。アメリカの他、中国・フランス・グァテマラ・日本・カナダ・コスタリカ・ルーマニア・ロシア・セネガル。上級受講生の中には、ILEI(国際エスペラント教師連盟)のアメリカ代表で、国際試験の試験官も務めたビル・マクセイ、その後のNASKで講師を務めたリー・ミラーなど優れたエスペランティストもいた。

   写真は大学に併設されている幼稚園(寄宿舎の窓から)
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アメリカの大学でエスペラントを学ぶ

2005-06-14 | アメリカ旅行
 2000年6月26日 北アメリカエスペラント夏期講習(NASK)第1日
 朝早く目が覚めて、大学構内を探索。食堂や本屋などを見つけた。戻ってきたらレザにあった。彼は日本に住んでいたイラン人で、今回は夜の番組や受講生の生活相談などを担当する補助教員である。「折り紙の夜」についての打合せをした。
 朝の集まりの場所がみつからなくてあわてた。少し遅刻して会場へ。簡単な開会式(オリエンテーションと講師紹介)。講師はグラン・ゴダール(アメリカ)、スポメンカ・シュテミッツ(クロアチア)、デニス・キーフ(フランス)の3人とレザ。スポメンカは有名な作家であり、舞台芸術のプロデューサーのような仕事も出来るエネルギッシュで多才な女性である。
 その後で、クラス分けの参考にするための試験があった。一つの文章の全部の単語に語尾を記入するものや、やたらに沢山あるカッコ内に単語を入れるものなどだが、答えがいくつでもありそうでやりにくい。受験者がどんどん退出していく。一通り出来たところで私一人だけになってしまった。見直すのをやめて私も終わりにした。
 学内の見学ツアーがあって、再び集まってクラス分けの助言。クラスは1(入門)2(初級)3(中級)4(上級)の4クラスがあって、私は上級を勧められた。レザが来て、「大丈夫か?」と聞くから、「ちょっと無理かな?」と言ったら、中級に変更してくれた。実のところ、最初から中級のつもりでいたから、初級だと言われても中級に入るつもりだった。まさか上級と言われるとは思っていなかったし、上級の教材はまだほとんど読んでいなかった。
 最終的には本人の意思で決めるので、過去にはほとんどエスペラントがわからないのに頑張って中級に入って、終わる頃には追いついたという人もいたそうだが、日本人には無理だと思う。
 午後は1時間25分ずつの講義。前半が初級と上級のクラスが並行して行われたので、上級のクラスにでてみた。受講生たちも優れたエスペランティストが多く、やっぱりとてもついていけそうにないと思った。後半は入門と中級のクラスが並行して行われた。もちろん中級のクラスにでた。
 翌日からは、午前が初級と上級のクラスで、午後が入門と中級のクラスが各3時間である。講師は1時間半くらいで交代する。中級受講生の場合午前は自由だが、ひとつ上または下のクラスに参加できる。出席していれば、自分のクラスでなくても授業では同等に扱われる。私は一度だけ下のクラス(初級)に出たが、全く初歩的な文法をやっていたので、後は出来るだけ上のクラス(上級)に出るようにした。
 日本人にとっては、講義内容よりもエスペラントの講義を聴き、エスペラントで答える力の方が問題である。ペーパーテストの成績が良くて、文法的なことはよく分かっていても、講師の話がわからなくてはつらい。しかし、私はあえて少し上のクラスを勧める。やっているうちにだんだんわかるようになってくる(と思う)。
 今日の講義が終わって、売店で切手を購入。外国に出すハガキは55セントだが、半端な金額の切手がなくて、20セントを3枚ずつ貼った。ポストはどこかと聞いたら、「あっち」だと言うが、どうしても見つからない。宿泊棟に戻って、受付の人に投函を頼んだ。実はポストは赤ではなく青だった。私はこのポストを何度も目にしていたのだが、ゴミ箱だと思っていたのだった。
   写真はポスト
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いよいよ州立大へ

2005-06-13 | アメリカ旅行
 2000年6月25日 アメリカ旅行3日目
 朝はまた少し周辺を散策、アパートに戻って膨大な量の新聞を眺めていたら2人が起きてきた。朝食はどんなものがいいかというので、君たちがいつも食べるものを、と言ったら、彼女が買い物に出かけていった。卵、穀粒の入ったヘルシーな感じのパンを3種類、ヨーグルト、果物のジュース、手作りのプラムジャム、コーヒーと、えらく豪華な朝食を用意してくれた。
 この家は金持ちの個人が所有していて、全部で82戸、洗濯機9台と乾燥機2台が共同で使用できる。家賃がどれだけか聞き忘れた。しばらくおしゃべり。話題作りに、日本の仏壇の写真を取り出したりして。
 2人が仕事に出かけて、私は一人で歩きに出る。コーヒーを飲みたいと思って喫茶店を探したが見つからない。あまり大きくない独立住宅が並んでいて、カラフルでとてもかわいい。どの家もみんな喫茶店に見えたが本物の喫茶店は見つからなかった。本屋を見つけて入ってみたが、エスペラントの本は見あたらなかった。おもちゃ屋のような店で絵ハガキを買った。アパートに帰って、絵ハガキを書く。部屋の前にいた黒猫と遊んでいたらミコが帰ってきた。
 3時、例のボロ車で出発。途中で北アメリカエスペラント連盟(ELNA)のもう一人の事務員を拾ってサンフランシスコへ。長いベイブリッジを渡る途中で小さな島(イェルバ・ブエナ島)に下りる。陸続きの人工島(トレジャー島)は海軍基地になっている。監獄で有名なアルカトラズ島が少しかすんで見える。ゴールデン・ゲート・ブリッジはやっぱり霧の中。
 4:00少し過ぎにサンフランシスコ州立大学到着。宿泊棟を見つけてチェックイン。最後まで面倒を見てくれたミコに感謝。日本から参加の4人、M.Kさん、N.Yさん、N.Nさん、H.Yさんとも出会った。夕食でミカエル、スーザン、アジズなどとおしゃべり。ミカエルとは政治談義になった。アジズはテキサス在住だがセネガル人である。
 部屋は2人部屋を一人で使う。2人で使えば300ドルほど安くなるし、同室者がいれば常時エスペラントを使うからその方が勉強にはなる。机・本棚・ベッド・ロッカーなど、半分だけでも充分広い。シーツ類などは週に2回交換できる。シャワー・トイレは共同。シャワー室から部屋に戻る時のために、ガウンのようなものを用意すると良かった。トイレには便座用のシーツも設置されていた。洗濯室もあって、乾燥機まで使って1回1ドル半。
 ちなみにこのときの費用は、講習会に450ドル、別に3週間の滞在・3食付きで1113ドル(2人部屋なら819ドル)であった。友人に借りてきたというキャンピングカーを大学構内に停めて寝泊まりしている人もいた。
   写真は3週間泊まった寄宿舎の部屋
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バークレーを歩く

2005-06-12 | アメリカ旅行
 2000年6月24日 アメリカ旅行2日目
 朝は6時半に起床。みんな寝ているので周辺を散策する。静かな住宅街である。やっとみんな起きてくると、まずシャワーである。私にも勧めるので使うことにしたが、湯がすぐに出なくなる。台所に小さな貯湯式の湯沸かし器があって、タンクの湯がなくなると水になる仕組み。バスタブに湯を張った形跡は全くない。
 半熟というよりは黄身がほとんど生に近いゆで卵2個で朝食。えらく少食だと思ったら、これから喫茶店に行くという。喫茶店というよりはパン屋。並んでパンやクッキー、コーヒーを買って食べる。巨大なコーヒーカップ、巨大なクッキー1個で私は充分。彼らはその他にパンをもりもり食べる。
 このあとミコの案内でカリフォルニア大学バークレー校へ。セイザータワー(時計塔)に登る。頂上からの眺望がいい。大小の鐘がぶら下がっていて、演奏するためのオルガンのような楽器もある。人類学博物館はやや期待はずれ。午後になって、ミコと別れて一人で植物園に向かう。アパートの鍵を預かった。
 途中で未舗装の山道を見つけてそっちに入ってみる。散歩する人、走る人、自転車に乗る人などが楽しんでいる。なんだか延々と登りが続く。fair trail とか「エコロジーを学ぶゾーン」などの表示がある。どこにたどり着くのか少し心配になってきたが、1時間半ほどでやっと舗装道路に出た。どんどん下っていくと最初の目的地、植物園があった。のどがカラカラだったが、せっかく来たから入園。しかし飲み物の自動販売機などは見あたらない。広い園内は変化があって、様々な植物、花、サボテンなど、日本にはないものばかりだからそれなりに楽しめた。
 町に戻ったのはもう夕方。アイスコーヒーと巨大なクッキーでひとまず腹ごしらえ。別の店でクレープを1枚。歩いて帰る途中、幅20mくらいだが長い長い公園の脇を通った。何カ所かで区切られていて、中には犬の運動公園もある。後で聞いたら、鉄道の跡地を公園にしたものだという。道理で長いわけだ。さらに歩いて、偶然見つけた食料・雑貨店で果物を買ってアパートへ。ミコたちは友人の結婚式だとかで今夜は遅くなる。シャワーを使って、テレビをつけたら日本のドラマをやっていた。秀吉などの時代を描いた連続ものだったと思うが、台詞は日本語のままで英語の字幕つきである。ついでアホみたいな日本のバラエティー番組。何でこんなものを流すんじゃ?!
 プレゼント用に折り紙(連鶴)作品をいくつか作って、寝袋に潜り込んだら彼らが帰ってきた。

   写真は朝の喫茶店 どんぶりのようなものが見えるが、これがコーヒーカップ
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バークレーにて

2005-06-11 | アメリカ旅行
 2000年6月23日、ノースバークレー駅までは無事到着。
 今日泊めてもらうミコに電話をかけようと思ったが、電話機にはコインが必要である。駅前で小型トラックにジュースや小物を満載して売っている若い人に両替してくれないかと聞いたら、「一番の機械」だと言う。一番の電話機なら紙幣で電話できるのかな? と思ったが、わからない。とりあえずミコのアパートまで行ってみる。歩いて10分、アパートはすぐに見つかって、そのあたりにいた人に聞いて部屋もすぐにわかったが、やっぱり留守。駅に戻ってゆっくりあたりを眺めていたら、「一番の機械」が両替機だということがわかった。1ドルを入れたら、50、25、10、10、5セント玉が出てきた。
 すぐに電話をかけた。35セントの電話代に50セントを入れたら、アメリカの公衆電話はお釣りが出てこないのであった。バスで節約した10セントに利子を付けて返したわけだ。
 しばらく待つとミコが超オンボロ車でやってきた。18年前の日本車。ウィンカーが壊れているなど、日本では車検に通らないシロモノ。全くの初対面だがすぐに友達になれるのがエスペラントである。まず海辺の公園に連れて行ってくれた。アマチュア無線のキャンパーたち、走っている人、犬、野生のウサギ、ツバメにカモメ。人工の半島だというが、広くてゆったりした雰囲気の公園である。ガスが濃くてゴールデンゲートブリッジが見えないのが残念だとミコが言う。いったんアパートに帰って、近くの公園でたこ揚げに興ずる。
 アパートに帰ったら、彼の奥さんとその友人がきていた。2人ともエスペラントは全くわからない。ちょっと驚いたのは、この奥さんが腕に立派な入れ墨をしていたことだった。ミコはしていないようだったが、入れ墨をしている人にはたくさん出会った。アメリカではそんなに珍しいことではないようだ。日本に来たら、サウナの「入れ墨の人お断り」をどう思うだろうか?
 今日は彼女が夕食を作る番だとか。鶏肉と野菜のサラダのみの夕食が終わったのが10:30。ここは2L・DK(2部屋と居間、ダイニングキッチン)で、日本のアパートと大差はない。玄関はなくて、戸を開けるといきなり居間である。私は彼の乱雑を極める書斎に組み立て式の簡易ベッドを引き出し、寝袋で寝る。友人の女性は、居間のソファで眠る。欧米の場合、寝袋を持っていかなければいけない場合もある。
 靴は履いたままでいるのかと思ったが、部屋に入ってしばらくすると脱ぐ。土足でも歩く居間などで、裸足でも歩き、寝転がったりもする。NASK(北アメリカ夏期講習)の教室でこのことを話したら、アメリカ人の先生が「犬みたいにか」と言って笑った。
 こうしてアメリカ旅行第1日が終わった。ほとんど英語のわからない私だが、一人で行動しても何とかなりそうだと思った。

   写真は私の泊まった部屋 右下が簡易ベッドと寝袋
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ポートランドからバークレー

2005-06-10 | アメリカ旅行
 いよいよアメリカに出発である。
 2000年6月23日、名古屋空港のセキュリティチェックで、カバンの中にうっかり入れていた果物ナイフを発見されてしまった。預かり証を受け取ってナイフを係員に渡す。夕方17:40発の飛行機で名古屋を飛び立った。まもなく日が暮れて、空いた席で横になる。気がついたら外はすでに明るかった。ポートランドの近くで、三角形の、雪をかぶった美しい山がいくつか見えた。一番高いのがマウント・レイニエであろうか。
 ポートランドに着いたのは出発した日の10:30。まだあの9.11前だから、入国審査はあっさりすんだ。アメリカ滞在中の住所をコーバリスの友達にしてあったが、係官が「君の友達か?」と聞くから「そうだ、友達だ」とエスペラントで答える。分かったのかどうか、ニコッとして「それはよかった」と・・・言ったような気がする。
 旅行目的は「観光」である。これを大学で勉強するからと「留学」と書いてひどい目にあった人がいる。観光ならビザ不要(90日まで)だが、留学ではそうはいかない。
 バッグをいったん受け取って、ナイフも返してもらってバッグに入れ、すぐに預け直す。同じ場所ですべて出来るので分かりやすい。
 ここでサンフランシスコへの国内便に乗り換えである。搭乗口はすぐに分かった。案内嬢に切符を見せると、何やら言ってくれるがサッパリ分からない。そしたら、切符を入れた袋に12:00とだけ書いてくれた。「ウェアー?」「ヒアー!」今度は何とか通じた。
 12:00を過ぎて、案内放送が「サンフランシスコ」と言っているような気がした。人が集まってきた。案内の人に「サンフランシスコ?」「イエス」というわけで、その列についていく。50人乗りくらいの小型機。順調にサンフランシスコ空港到着。
 飛行機を降りたら、もう広いロビーである。人の列についていく。かなり歩いて、やっと荷物受取所があった。さてここからはバスである。案内所を見つけて、まず「コルマまで行くバスはどこから出ますか?」とエスペラントで聞く。もちろん案内嬢には理解できないが、私の言うことを聞く姿勢が出来る。そこで、「コルマ、バス」と2つの単語だけを並べる。彼女は身振りと英語で「この階段を昇って左へ」と教えてくれた。というわけで、バス停はすぐに見つかった。
 バスを待っていたら、大柄の黒人が、5ドル冊を持ってバスに乗ろうとして運転手に断られていた。困った様子なので、1ドル札5枚と交換してあげた。嬉しそうな笑顔が、私の緊張を和らげてくれた。
 私の乗るバスがやってきた。1ドルを料金箱に入れたら、運転手が「足りないよ」というそぶり。よく見たら、バス代は1ドルと10セントである。アメリカに着いたばかりでコインは持っていない。もう1ドル出したら怒ったようにそのまま乗れというそぶり。結局10セントを節約してしまった。
 コルマで降りるとバートという無人システムの近代的な地下鉄に乗り換えである。自動販売機で20ドル分のカードを購入。リッチモンド行きの列車に乗って、ノースバークレーまで順調に進んだ。

   写真はマウント・レイニエ(?)
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アメリカへ!

2005-06-04 | アメリカ旅行
 北アメリカ夏期講習の期間中は、学生が帰省して留守になった学生寮で宿泊できる。せっかくアメリカまで行くのだから、講習後も少し歩いてきたいと思った。それで、サンフランシスコ周辺のパスポルタセルボ宿泊提供者に片っ端からメールを出した。ところが、この時期は休暇を取ってエスペラント世界大会に参加する、日本に行っている、などなど一人も泊めてくれる人が見つからなかった。範囲をかなり広げて探したがダメだった。
 困っていたら、囲碁友達ののアンドレが泊めてやると言ってくれた。彼はオレゴン州のコーバリスという町に住んでいる。その後、その近くのニューポートの人が宿泊OKだと言ってくれた。さらに、バークレーのミコも講習会の前なら泊めてやるという。バークレーには北アメリカエスペラント連盟の事務所があり、ミコはそこで働いている。
 行くからには出来るだけ迷惑をかけたくない、いや、出来るだけ独力で歩きたい。さいわい、アメリカについての情報は得やすい。観光案内書で基本的なことを調べて、あとはインターネットでいくらでも詳しく調べることが出来る。ネット上の地図で、小さな通りまで出てくるから、泊まる家の位置までほぼ正確に分かる。長距離バスや列車の時刻表もネットで手にはいる。
 というわけで、6月23日名古屋~ポートランド~サンフランシスコ~バークレイ(2泊)とたどり、講習会(20泊)の後は夜行バス(1泊)でニューポート(3泊)、バスでコーバリス(ポートランドなどを含めて8泊)~ポートランド~名古屋7月28日という約5週間の旅行計画が立った。細かいことは向こうで考えよう、というわけだ。
 初めての海外個人旅行で不安はあったが、ま、何とかなるだろう!

   写真はゴールデンゲートブリッジ
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