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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

その地の人々

2020-05-23 | 読書ノート


 今回の読書ノートはエスペラント原作小説「Homoj sur la tero」である。作者はスエーデンの Stellan Engholm(1899 - 1960)。Grandtorento という街の近くにある Novponto と呼ばれる農場を舞台に3代にわたる人々の生き方を描く。eLibro で170ページほど、1932年発行の本では200ページくらいである。
 気まぐれな農場主の Kristoforo、実質的に農場を支えている妻の Kajsa が初代である。父と同じ名前の息子 Kristoforo も含めて平和な家庭だが、お互いの関係はドライで親密さには欠ける。父が死んで、Kajsa も年を取り、Selma という若い女性がお手伝いに入り、Kristoforo との間に子供 Eskil が出来てしまう。これが3代目になる。2代目の Kristoforo は自由に生きようと農場を売って大金を手にする。それなりに誠実な面もあって、Selma と Eskil の将来のことも一応考えている。後に Kristoforo と Selma は結婚するのだが、Eskil の父親が誰かはあいまいなままである。売り払った農場と自分の家を借りる形で生活は続けられる。農場を支えているのは Selma である。
 ドライで親密さには欠けるが、お互いに誠実ではある家族関係は2代目になっても同様だが、結局彼らをつないでいるのは農場である。いったん家を出て放浪する Eskil も最後には戻ってくる。
 淡々とストーリーが進み、登場人物の内面には余り切り込まない。彼らの周囲の人たちも含めて、人間像が浮かんで来ないのだ。農場での仕事などもほとんど描写されていない。それでいて読み終わったあとにはしっかりした読後感が残っている。

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Fanny

2020-05-19 | 読書ノート


 今回の読書ノートは英語からの翻訳である。原作者のエドナ・ファーバー(Edna Ferber: 1885 - 1968)は、アメリカ合衆国の女性作家、劇作家。ミュージカル「ショー・ボート」の原作者である。原題は「Fanny herself」、20世紀初頭に巨大な通信販売業で活躍した一人の女性の半生を描く物語、eLibro で360ページの長編である。日本語には訳されていないようだ。

 Fanny はイリノイ州の Winnebago という中都市で商店を経営するユダヤ人の家に生まれる。作者自身がユダヤ系なのだが、この小説ではユダヤの民族問題や第一次世界大戦・女性参政権運動などは背景に過ぎない。父が死亡したあと、母が仕事を切り回す。Fanny も13才の時から働き始める。兄の Teodoro は早くから音楽の才能が認められて早くから音楽の才能が認められてドイツに留学に行く。Fanny 自身もデッサンの才能があったが、兄の留学費用のために母子で必死に働く。母の死後、Fanny は自宅と店を売り払ってシカゴに出て、新興の巨大通販会社 Haynes Cooper の総支配人に自分を売り込む。まだ女性が大企業で活躍する例が少なかったこの時代だが、幼児服部門を任されることになる。彼女はその「人々が何を考え、要求し、あこがれているかを感じ取る」能力を生かして次々に成功を収め、総支配人の右腕になる。しかし、すべてを殺して仕事に夢中になってきた彼女は、少しずつ自分の内面や好きだったデッサンについて思うようになり・・・。

 エスペラントは平易で分かりやすく、ストーリーも分かりやすい。かなりのハイスピードで読むことが出来た。

 ネット検索すると本の表紙などの画像が沢山見つかる。
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金で出来たお嬢さん

2020-05-15 | 読書ノート


 カルマン・ミクサース(1847〜1910)は、ハンガリーの小説家・ジャーナリスト・政治家。たぶん日本語訳された作品はないのではないか。エスペラントだから読める作家だと思う。
 eLibro で50ページほどの小品で、読後に日本の落語のような感じが残った。

 Stefano Csemez は錬金術に熱中するほど金に執着している。彼には掌中の玉ともいうべき美しい娘 Krustina がいる。彼の友人たち、妻に先立たれた2人の男と Kristina の友だちの兄 Nikolao の3人が Kristina に求婚をすると、Stefano は「娘と同じ重さの金を持ってきた男に娘を与える」という。他の2人はあきらめるが、Nikolao は金を掘りに飛び出していく。1年後、Nikolao から便りが届く。「すでに17ポンドの金を手にした、あと64ポンドだ。」 Kuristina はすぐに返事を出す「17ポンド減量したから、あと47ポンドよ!」
 その返事が届いたのかどうかも分からないままに10年が過ぎた。すでに Stefano はこの世の人ではなくなっていた。旅人から Nikolao を見たという話が伝わる。「ブラジルにいて、半キンタル(50ポンド)の金を持っている」と。あぁ、それだったらもうすぐに帰ってきても良いのに、私のこの声が彼に聞こえたら・・・。
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Fontamara

2020-05-11 | 読書ノート


 今回の読書ノートは「Fontamara」、作者の Ignazio Silone(1900-1978)はイタリアの社会主義者であり、イタリア共産党創立(1921)メンバーの一人でもある。1927年に任務でイタリアを離れたが、1930年スイスでスターリンに反対の姿勢を示してイタリア共産党から除名される。同じ頃に書かれた最初の長編小説「Fontamara」のドイツ語版が1933年に出版され世界的なベストセラーになり、1939年にはエスペラント版も出版された。さらに長編小説「パンと葡萄酒」、「雪の下の種」やエッセイ「独裁者の学校」(邦題「独裁者になるために」)などの作品を発表。1944年にイタリアに帰国、1946年にはイタリア社会党の幹部になるが、まもなく政治的な駆け引きに失望して身を引き、執筆活動に専念した。

 イタリアの架空の山村 Fontamara に住む Kafono と呼ばれる素朴で貧しい農民たちの物語である。一人の農民とその息子・妻が代わる代わる語る形で話が進められる。ユーモアのある語り口で様々なエピソードをはさみながらのんびりと話が進むが、厳しい農民たちの生活は壮絶である。
 近くの湖が干拓・耕地化され、彼らは毎日長距離を歩いて移動し、その湖あとの土地で働いている。税金の負担が大きくなったり共同の牧草地が私有化されたりして農民の生活が圧迫され、土地が担保に入って利子を払うために賃仕事に出なければならないのである。社会はファシストの支配にあり、村人たちのどんな小さな反抗の芽も摘もうと秘密警察が監視している。
 Kafono たちは「毎日のように」出される「法律」によってそれまでの権利が剥奪され、次第に生活が苦しくなる。争うには法律に詳しい弁護士が必要である。弁護士は常に村人の味方だと信じさせながら言いくるめてしまう。
 村には大切な潅漑用の小川があった。村の中では毎年のように水争いが起こるほどである。この小川から大地主の農地に水を引く工事が始まった。驚いた農民たちは町に出かけて抗議するが、「村人の理解者」である弁護士が仲立ちになって、わけがわからないうちに「水量の4分の3を地主に、残りの4分の3を Fontamara に」という協定にサインしてしまう。
 そして100人もの武装警官に囲まれて水路の開通式が行われ、村人たちは初めてだまされたことを知り騒ぎになる。しかしまたしても「村人の理解者」の弁護士によって、地主への水の供給に期限をつけることで納得させられるが・・・





この2枚の写真はネットから。
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石の都

2020-05-07 | 読書ノート


 Sxtona urbo というのは古代ローマのことである。物語は紀元1世紀、キリスト教初期の頃、まだキリスト教とユダヤ教の分離がはっきりしていなかった頃が舞台である。といっても、Faraono や Quo Vadis? のような歴史小説とは少しちがう。これはこの時代に生きた一人の女性の物語で、歴史そのもは背景に過ぎない。
 3部構成の大作で、イギリスのケルト族の生活、ローマでの奴隷としての生活、ローマでの市民としての生活が描かれている。こういう視点で古代を描いた小説は余り多くないのではないだろうか。日本でも例えば戦国武将を主人公にした作品は多くあるが、その時代に普通の民が実際にどう生きていたのかを描く小説はあまり聞かない。この小説ではそれぞれの場所での生活が非常に丁寧にリアルに描かれている。登場人物も多く、それぞれがいきいきとしている。
 第一部は 少女 Bivana が生まれ育ったイギリスのケルト族の小さな集落が舞台である。日常の生活を読みながら読者は Bivana とともに祭りや部族の王や将軍、部族間の争い、そしてローマ帝国にまで次第に社会全体に認識を拡げていくことになる。 Bivana の家族や友人たちなどの人間像が浮かび上がってきたところで、ローマ軍の侵攻で村が破壊され、それまでのつながりがすべて断ち切られてしまう。 Bivana はとらえられて奴隷としてローマに連れてこられる。家族や友人たちがどうなったのかも分からないままになる。
 第2部はそのローマでの生活である。 Bivana はケルトの村でもあったように、祭りなどの生け贄にされると恐れていたが、奴隷市場で競りにかけられて農場に買われ、台所で働くことになる。ここでは農場主とその家族以外はすべて奴隷である。中には農場主の秘書のような仕事をする奴隷もいる。 努力すれば市民になることも夢ではない。逃走の計画を立てる彼女だったが、言葉を覚え、仲間・友人との絆も広がり、ついには結婚を強制させられて子供も生まれる。農場主が亡くなったときに Bivana の夫が自由な市民になり、農場主の奥さんの好意もあって子供と Bivana をその夫が買い取ってローマでの生活が始まる。
 第3部はそのローマでの生活である。夫の所有する奴隷という立場だが、コピー・印刷所を経営する夫を手伝う。2人目が生まれるときに息子ともども市民になり、娘は市民として生まれる。十字架で死んだキリストの再生とか初期キリスト教の諸分派間の闘争、ローマの大火とそのあとのキリスト教徒への弾圧など様々な事件が起きる中、 Bivana は必死に家族の生活を守ろうとする・・・。
 ごく大雑把なストーリーを紹介したが、それぞれの場面での実際の生活が非常にリアルで引きつけられる作品である。エスペラント原作文学では屈指の名作といってよいと思う。
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La Sxtona Urbo

2020-05-05 | 読書ノート


 読書ノートは Anna Lowenstein のエスペラント原作小説である。作者は世界エスペラント協会の会長を2001年から2007年まで務めたイタリアの Renato Corsetti の奥さんである。1951年にロンドンに生まれ、13才の時にエスペラントを独習、1977年から世界エスペラント協会の事務所(ロッテルダム)で働く。女性解放運動の雑誌「Sekso kaj egaleco」を創刊・編集。若者向けの雑誌「Kontakto」にもしばしば投稿した。現在はローマ近郊に住む。1982年に初めてローマを訪れて巨大な石の建造物を見たときの強い印象がこの小説を書く発端になった。このご夫婦とはキューバで行われた世界エスペラント大会(2010年)でお会いして少しだけ会話をしたことがある。Corsetti さんには私が編集・印刷して自費出版した「Raportoj el Vjetnamio」を高く評価して頂いたし、奥さんにはこの世界大会での折り紙についての私の講演を評価して頂いた。

 巻末に「Klarigoj pri la traduko」という一文がある。ここではこの小説で使用した単語について書いてあるのだが、これがなかなか面白い。
 「詩人はすでにある単語、malproksima, fora, distanca に満足できないで、lontana という語を使うのが良いと考える。他の人は代わりに dista を使う。おそらく彼らにとってはエスペラントが生きている言葉ではなくて、半煮えのスープの一種であり、その中に誰でも自分の人参を放り込んでも良いような物なのだろう。そして上の2つの単語は今の辞書に取り入れられている。これは辞書に英語同様の複雑さを急速にもたらす恐れがある。」
 社会の発展に従って新しいものや概念が生まれ、それに従って言葉も発展していくが、すでに存在するものに新しい言葉をつけ加える必要はない。ということで、作者は原則として基礎単語(Akademio による追加語を含む)のみを使用し、どうしても必要な場合や、すでに広く使われている語のみそれ以外の語を使った。いくつかの専門用語(植物名、ローマの貨幣など)以外では全くの新語はケルト民族の祭り Beltono と Samono の2つだけである。
 というわけで、この本はほとんど辞書を引かずに読むことが出来た。上に示したコピーは、作者が使った「基礎単語以外」の単語である。ほとんどは比較的よく見る単語である。
 他にも直接話法・間接話法における時制など、重要なことが書かれているので、本文を読む前にこの部分を読んで置いた方がいいと思う。
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Fabloj kaj Aforismoj

2020-04-26 | 読書ノート


 ハンガリー語から訳された寓話と格言集である。eLibro で338ぺーじもある。何がいいたいのか私にはさっぱり分からない話も多くて読むのにいくらかの忍耐を要したが、読み始めた本はとにかく最後まで読み通すというのが私のスタイルである。
 ここでは内容には触れずに、単語の使い方で面白かったものだけを紹介する。

 ekvojis:旅に出かけた
 trovi dungon:仕事を見つける
 liberigxis cxiuj diabloj de la infero:地獄の悪魔が全部出てきた。(ののしり言葉の1つ)
 ajnulo:他人
 dormi nur one-duone:仮眠しかできない
 ajnafoje:いつだって
 iras glate, kiel oleite:油を差したように順調に行く
 tielas:そんなふうだ
 Stumpita Lando:敗戦国(?)
 marprofunda silento:海の底のような静けさ
 nuris la respondo:返事はそれだけだった
 ne emigeblas:やろうとは思えない(?)
 kiomas la orgojlo:高慢でいっぱい
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雲になってきえた

2020-04-21 | 読書ノート


 今回の読書ノートは長崎の原爆教材「雲になってきえた」のエスペラント訳である。もう今は使われていないのかも知れない。
 長崎・山王神社にある大クスが自分が見たり風や鳥に聞いた話を語る。被爆直後の惨状から20年以上経って、これから生まれてくる子供にも原爆症の恐れがあることまで、原爆にからむ様々なことが語られる。
 この大クスは爆心地に近く、被爆直後は葉がすべて吹き飛ばされ、大きな枝まで落ちてほとんど枯死寸前だったという。数年後には見事に復活して、今も残る数少ない「生き証人」の1つとなっている。
 エスペラント版も再版はされていないと思うが、世界中で読んでほしい本だと思う。

下の写真は被爆直後と現在の大クスの姿(山王神社のサイトより)




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ミュンヒハウゼン男爵の冒険

2020-04-17 | 読書ノート


 「ほら吹き男爵の冒険」という題でも知られている荒唐無稽な物語である。調べてみて驚いたのだが、ミュンヒハウゼン男爵というのは実在の人物である。18世紀のプロイセンの貴族で、自身が周囲に語ったという話が元になっているという。かれの話をこっそり記録した人が無断で出版したのが始まりで、多くの人によって加筆されて100以上のバリエーションがあるいう。
 このエスペラント版では原作者が Rudolf Erich Raspe となっている。非常に古い版だが、物語の中にはミュンヒハウゼン以外の出典から流用されたものもあるらしく、ウィキペディアにはこれが却ってミュンヒハウゼンの評判を落としたとある。



 140ページほどの小冊子だが、語られる「冒険」はその一つ一つが短い。それらをもっと長い物語にすることもできるのではないかと思う。沢山の精緻な挿絵が楽しい。
 日本の落語もそうだが、荒唐無稽といってもあまりに馬鹿馬鹿しくなると却って興をそぐことになる。ホラ話の中にも妙に納得させるものがないと読んでいても楽しくない。その意味では、この本の後半はかなりつまらない、もちろん私の主観だが。
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生命を探る

2020-04-13 | 読書ノート


 江上不二夫「生命を探る」(岩波新書)を松葉菊延がエスペラント訳したものである。1971年発行。原著は1967年。その後1980年にかなりの改訂がされて第2版が出ているが、これは初版を訳したものである。
 そもそも生命とは何か? から始まって宇宙生物学まで「化学」の立場から解き明かす。かなり本格的な入門書である。部分的に難しくて消化不良になるところもあったが、ノートをとりながら何とか読み通した。
 専門用語が大量に出てきて、とくに動植物名などはエスペラントの辞書だけでは不十分で、学名から調べることも多かった。専門用語だけでなく、例えば「La komuniko kaj manifestacio de informo(情報の発現と伝達)」といった普通の単語で書かれていてもその意味をつかむのはなかなか大変だった。半分ほど読んだところで、原著(第2版)を取り寄せて時々参考にした。こういった科学のいろんな分野の啓蒙書がもっとエスペラント訳されるといいと思うが、あまり売れないだろうな・・・。
 興味ある内容が満載だが、少しだけ紹介しておこう。

 牛乳を飲んでも牛にならないのはなぜか? 牛のタンパク質と人間のタンパク質とは同じではない。では牛乳や牛肉を食べてそのタンパク質を体内に取り入れても我々はなぜ牛にならないのか? タンパク質を体内の酵素や微生物が分解するとアミノ酸になる。このアミノ酸を再構成して人間のタンパク質を作るから我々は牛にならない。

 酒を飲むと身体が温かくなるか? 実際には身体の中心の温度は低下する。血管が膨張して体温が多く放出されるようになる(とくに冬には血管が収縮して体温の放出を防いでいる)。恒温動物のエネルギーは、個体維持・筋肉の働き・体温保持に使われるが、実際に調べると、アルコールのカロリーは体温保持には使われていない。
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詩人の墓のナデシコ

2020-04-08 | 読書ノート


 詩人というのはスロバキアの詩人、フランツェ・プレーシェン(1800-1949)である。スロバキア最大の詩人で、その命日の2月8日はスロベニアの休日になっている。この小説はこの詩人を主題にしているわけではない。
 著者の August S'enoa(1838-1881)はクロアチアの作家・詩人で、この小説もクロアチア語からの翻訳、80ページほどの中編である。
 舞台はクロアチアの Kranj というプレーシェンが弁護士として働いていたクロアチアの町、ここにその墓もある。この墓にいつも花を供えている少女と2人の青年との悲しい恋の物語である。ナデシコというのは、プレーシェンの墓で少女が摘んだ花で、主人公の青年はそれをプレーシェンの詩集にはさんで大切にしている。美しい叙情に満ちた小説で、主題はよくわかるのだが、歴史的背景などの状況がやや分かりにくくて少々読みにくい。多くの作家や歴史上の人物の名前が出てくる。きちんと注がつけられてはいるが、この方面の知識が私にあまりないことも理解を妨げている。
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地底世界ペルシダー

2020-04-04 | 読書ノート


 「ターザン」で紹介したバローズの「ペルシダーシリーズ」第1巻のエスペラント訳である。ネットで見つけたもので、ターザンとは別の翻訳者(Gary Mickle)である。訳者は1968年にエスペラントを学び、2年後に練習のために翻訳を始め、次第にのめり込んでいった。25年後に自分で校正をしながらタイプ打ちをして、2001年にネット上に公開した。本の形でも出版されているのだろうか、上の表紙写真はネットで拾ったものである。
 数百マイル地下に潜ると、地球の内部は空洞になっていて太古の世界がある。中央に動かない太陽が輝いているので時間の概念がない世界である。球の裏側なので水平線がない。巨大なモグラ機械でこの地底世界に入り込んだ人の冒険物語である。地底世界の人間の言葉を主人公が容易に習得してしまうのはターザンに通じるものがある。
 ストーリーは分かりやすくエスペラントも難しくはないのだが、ターザンよりは少々読みにくい。普段使わない単語がやたらに多いのだ。ちょっと気になったので、途中4ページほどの中にどれくらい私にはなじみのない単語が出てくるかメモしてみた。いずれももっと易しい単語に置き換えられると思うものばかりである。
 kanjoneto, rojo, kapriolado, cetaco, drolforma, loza, kanoto, pirogo, disipi, minca, sinua, protuberanco, hida, domicilo, maligna, voblema, debiligxi
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Cxu li?

2020-03-31 | 読書ノート


 しばらくぶりの読書ノートは長編原作小説「Cx li?」である。作者の Henri Vallienne(1854-1908)はフランスの医師でエスペラント初期の作家、Kabe に続く美文家といわれる。1903年にエスペラントを知り、翌年には翻訳作品を出版している。1905年に心臓病で倒れ、外出も出来なくなるがエスペラントの創作活動を精力的に続け、1908年に亡くなる短い間に2編の長編小説などを書いた。これがエスペラント界で初めての長編原作小説である。「Cxu li?」はその2冊目である。上の写真はネットで拾った物で、私自身は eLibro で読んだ。本の形では447ページ、eLibro では627ページの大作である。単語の使い方に違和感を憶えることが多かったが、エスペラント文は易しくて読みやすい。ストーリーはとても面白いが、文学的評価はあまり高くないと思う。1938年にはカロチャイが大幅に書き直して Literatura Mondo に発表したが、一部分だけに終わっている。

 ストーリーは複雑で簡単にはまとめられないが、少しだけ紹介しておこう。舞台はフランスである。
 Beatrico と Regxino、2人の美しい女性はいとこ同士である。2人は幼馴染みの Fernando を愛していて、Fernando も出来れば両方と結婚したいと思うほどだったが、結局 Beatrico と結婚する。結婚後すぐに Beatrico が病気になり、夫婦生活が出来ない Fernando は Regxino と関係してしまう。
 Fernando は殺人容疑で逮捕され、終身刑で送られた先で脱走する。Regxino はスイスで遭難していた Fernando を見つけて連れ戻すが、この男は自分は Ferdeko だと名乗る。実際、彼は Ferdeko の名でパスポートなどを所持していた。しかし周りの人たちは脱獄した犯罪者が偽装していると信じて彼を守ろうとする。Ferdeko は Regxino と結婚するが、Beatrico との仲を疑って嫉妬に狂う Regxino とはじきに破局に至る。Regxino は Beatrico を殺そうとして失敗、行方不明になる。Ferdeko と Beatrico は実質的な夫婦関係になり、Beatrico は妊娠する。そこに本物の Fernando が帰ってきて・・・。

 話は Fernando の出生にまでさかのぼり、Fernando の養父である Maziero という銀行家が特に重要な役割を果たしているのだが、ここには書けなかった。またFernando と Ferdeko は容貌・体格だけでなく声や性格もそっくり同じで、しかも2人とも熱心なエスペランチストである。エスペラント自体はストーリー上ではちょっとした小道具に使われているに過ぎないが、それでもその「世界性」がうまく使われている。
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La volvotigo de Amikeco

2020-03-11 | 読書ノート


 今回の読書ノートは現在活躍中のエスペランチスト堀泰雄さんのお父上、堀正一さんのエッセイ集である。堀正一さんの本は以前にもこの読書ノートで取り上げたことがある(ニュージーランド旅行記)。
 Revuo Orienta や Oomoto に掲載されたものが17編まとめられている。生物学者らしく、イソギンチャク、アサガオ、食虫植物、花粉といったテーマの話が続く。中には原爆実験への強い抗議の文も出てくる。学術用語が沢山使われているが、丁寧な挿絵がたくさんあって理解を助けてくれる。
 表題にもなった「La volvotigo de Amikeco」はこんな話である。ノルウェー・オスロに住む建築科の文通友だちは花が大好きである。あるとき彼は Cobaea scandens の種を送ってきた。日本の植物の種と交換したいというのだ。冬の厳しい国に何を送るのか考えた末に、アサガオの種とその育て方を書いて送った。送られた種を4月中旬に播き、5月中旬には芽が出てきた。すぐに航空便で知らせてやると、ノルウェーからも同様の便りが届く。送ったアサガオがどう育っているのか、心配でならない。こうして花の咲くのを待ちながら双方で大事に育てる様子を報告しあっている。
 この話には「La kreskanta volvotigo de Amikeco」という続編もある。
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Dialogo inter surduloj

2020-03-07 | 読書ノート


 今回の読書ノートは Jean Codjo の「聞こえない人たちの対話」である。Jean Codjo はアフリカ・ベニン出身のエスペランチスト、最初は国立大で、次いでドイツで言語学とドイツ語学を学び、のちにカナダに渡る。アフリカのエスペラント運動で中心的な役割を果たしている。本人のページが Facebook にもある。
 Jean Codjo は3編の比較的短い本を書いた。異なる文化を持つ人々の出会いと相互理解の難しさがその主なテーマとなっている。今回紹介するのはその2冊目で、2002年の作品。私は eLibro で読んだ。上の表紙写真はネットで拾ったものである。

 Dege はアフリカの小さな村 Koaga で家族とともに生活していた。あるとき、白人の船がやってきた。Dege はその船のボーイとして雇われ、仕事をしながら白人の言葉を覚える。船が出航するとき、Dege も一緒に行ってしまう。それからずいぶん時間が経って、Dege が突然自動車で村にやってきた。彼は白人の国で養子になり、学校へも通って、今では教師になっていた。村では驚くべき成功者であり、blankulo kun nigra hauxto:黒い肌の白人とさえ言われる。彼はその後も時々やってきて、村の生活改善の企画を持ち込み、村人にいろんな話をする。村人もその時を心待ちにするのだが、一向に理解は出来ない。自由恋愛やら民主主義やら、村の長年の風習や年功序列の村社会に反することばかりである。小説の最後では、村人たちも物質文明の便利なものを使うようになるのだが、それが村人を幸せにしたのかどうか?
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