名前 ・ 言葉 勘違い
年末年始の忙しさにブログの書き込みが遅れてしまった。早1ケ月がたとうとしている。
12月に東京都のある高校の修学旅行のガイドをした。
那覇空港から観光バスに添乗して南城市の具志頭城址へ行った。バスを降りた所に具志頭の戦争の戦没者の名前を刻んだ刻名板がある。高校生達が下りて眼にしたのは、戦没者の名前だ、名前を見て不思議そうな表情をしている。ガイドのこちらは戦没者の名前であり、今生きているなら80~90、100才前後の住民であると説明した。女子学生が聞いた、「名前なんですか?」、「そう、名前です」。
不思議な名前だと言う、名前には、沖縄特有の名前がずらりと揃っている。
ウシ、カマド、ナビ、ナベ等々、生徒たちは東京生まれの現代子、解らないないのも無理はない。
こちらが説明する、昔は牛は大事な農耕用で働き者の貴重な動物、縁起をかついでウシと名付けられた、カマドは台所のカマド、現代ではめったにお目にかかれないカマドだと説明する。ナベやナビは、戦前までは鉄製のナベがあまりなかったので貴重品との認識でナベやナビが名付けられたと言った。
「皆さんのおばぁちゃんなどは、梅とか小梅の名前があるでしょう、最近はあまりないが昔の男性には牛ノ助とかの名前があったはず、みなさんが忘れているだけですよ」と説明したら学生達は納得していた。
人はこの世に生を受けて生まれてきたら、必ず名前をもらう。両親から、祖父や祖母から、あるいは親族の長老から命名してもらったりと様々である。名前はただ付けただけではない、命名する時には、一生持つ名前だから良い意味や願いを込めて名前を作るのだ。どんな名前にも由来がある、意味がある。幸せな人生を歩いてほしいとの願いが込められている。日本でも沖縄でも明治の廃藩置県以前は、名前だけしか持てなかったのが一般平民であったが、日本政府になり、姓をつけても良いとの許可が出たのだ。王族や一部の特権階級のみしか持てなかった姓が住民全員に平等に持てたことは素晴らしいことである。
さて、その東京都の修学旅行の高校生一行とひめゆりの塔に着いた、バスの駐車場からひめゆりの塔まで歩く間、父親が沖縄出身だという女子学生が聞いた、「けんかしていいですか?」側で一緒に歩く女教員も私も、「えっ!」と思った。いきなりけんかしていいかとは、困ったものだと思った。空港でバスに乗った時から、父親が沖縄出身だというので、ひめゆりの塔までの道中の私の説明に不服があり、けんかをしてもいいかと受け取ってしまった。戸惑い返事が出来ない私の先に立ち、ひめゆりの塔入り口の花屋から献花を買っている。この光景を見て、私の勘違いだと悟った。側の女教員に「けんかを売られたのかと勘違いした」と言うとおもわず吹き出していた。
女子学生徒のやさしい心を解らず誤解してしまった自分を恥じた次第だった。なんだか救われる思いがした、今の若い世代は、戦争で亡くなった人たちを憐れむ心がまだあることが分かって嬉しかった。
tiger60
名前や言葉、いろいろな背景や意味が込められている。言葉を大事にしていかねばと昨今強く感じる。時代が変わることに不安感があるからかも知れない。言葉や名前は変わっていく、人が変われば、世が変わればいろいろなことが変わるのは自然なことである。変わることに不安を抱いてはいけないことが最近分かったような気がする。みなさんはどうでしょうか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます