ターフの風に吹かれて

一口馬主の気ままな日記です。
キャロットクラブの会員です。

第3回 名馬物語 ~アイネスフウジン~

2010年10月13日 | ブログ
今から12年前、1998年の2月、
一般紙の社会面に大きく報道されたニュースがある。

「ダービー馬の元馬主が自殺」

明るい話題よりも暗い話題の方が多かったその年の競馬界だったが、
このニュースもそのひとつだった。
かのチャーチルをして、「一国の首相になることよりも難しい」
といわしめたダービー馬の馬主が自らの生命を断ったことに、
その天から地への落差に、僕は激しい衝撃を覚えた。
それが、あのアイネスフウジンの馬主だと聞いて余計だった。

そこから遡ること8年前、1990年の日本ダービー。
アイネスフウジンが、
大観衆の驚嘆を振り切って鮮やかに逃げ切ったあのダービー。
驚嘆が称賛へと変わるのに、
静寂が大地を揺るがさんばかりの大喝采に変わるのに、
それほど時間はかからなかった。
あの日、東京競馬場はかつてない異様な雰囲気に包まれた。

最近のレース前の空虚で無節操な馬鹿騒ぎではない。
レースが終わった後の自然発生的な盛り上がり。
感動と興奮。

それがバブルという世相の反映だったとしても、
しかし着実にエネルギーをためてきた「競馬」という名のマグマが、
ついに爆発したことを象徴するひとつの出来事だったことも事実である。
思えばあれがピークだった。
時代も競馬も。

1990年、日本独自の暦なら平成2年、まさにバブルの絶頂期。
競馬界でいえば、あのオグリキャップが、
有馬記念で感動のフィナーレを迎える年である。
この年の4歳(現3歳)世代には、
後にメジロマックイーンというとんでもなく強い馬が現れるのだが、
春の時点ではまだマックイーンの影も形もなく、
クラシックロードは混沌としていた。

主役の候補は何頭かいた。
弥生賞を強烈な末脚で豪快に差し切ったメジロライアン。
ハイセイコーの産駒で皐月賞馬のハクタイセイ。
あるいは名脇役ホワイトストーン。
そして、3歳チャンピオンで皐月賞でも2着に粘ったアイネスフウジン。

世代の最強馬を決める日がやってきた。
5月27日、第57回日本ダービー。

 1番人気 メジロライアン 3.5倍
 2番人気 ハクタイセイ 3.9倍
 3番人気 アイネスフウジン 5.3倍

まさにオッズが混戦を示していた。
ただアイネスフウジンの逃げ切りだけはないだろうと、
僕は勝手に思っていた。
府中のクラシックディスタンスを逃げ切るなんて、
あのトウショウボーイですらできなかったのだ。
というよりも、僕がダービーを見始めてから逃げて勝ったのは、
伝説の逃げ馬カブラヤオーただ1頭のみだった。

のちにミホノブルボンやサニーブライアンもそれを成し遂げるが、
当時の僕の「常識」では、
アイネスフウジンが逃げて勝つというレースパターンはなかった。
その卓越したスピードは認めても、
まさかカブラヤオークラスの馬ではあるまいと思っていた。

パドックでの周回が終わり、合図とともに騎手が一斉に馬に騎乗する。
メジロライアンの鞍上は若き横山典弘。
乗り代わりでハクタイセイに騎乗するのは天才武豊。
さすがにどちらも顔がこわばっている。
しかし、それ以上に、
アイネスフウジン鞍上の中野栄治の表情は険しく、眼光は鋭い。
彼の、このレースにかける意気込みが痛いほど伝わってくる。

闘い。
自分との闘い。

思わず剣を片手に大魔王を倒す旅に出てしまいそうな曲に乗って、
22頭の優駿たちが晴れの舞台に入場する。
日本ダービーにふさわしい透き通るような青空の下、
22頭の優駿たちはターフに立つ。

そして、レースが始まった。

スタートよく飛び出したハクタイセイに比べて、
少し遅れぎみのアイネスフウジンだったが、
第1コーナーを曲がる頃には予定通り先頭に立ち、
向こう正面では後続を4馬身近く引き離す。
府中の2400メートルを逃げ切るつもりだ。
武豊ハクタイセイは3番手の好位置。
横山典弘メジロライアンは中団から少しうしろの位置。
3角で、開いた内をついてハクタイセイが先頭に迫る。
そして、第4コーナーを曲がって最後の直線。
ハクタイセイが先頭に並びかける。
皐月賞のように差し切るのか。
しかし、しかしここからアイネスフウジンが突き放す。
朝日杯のように、共同通信杯のように、
引きつけておいてさらに突き放す。
ハクタイセイは伸びない、馬群に沈む。
1番人気メジロライアンは?
いた、大外だ!
大外からぐんぐんと伸びてくる。
捕らえるか、差し切るか。
しかし、しかしアイネスフウジンは止まらない。
差は詰まらない。
そのまま、メジロライアンとの差はそのままに、
ついにアイネスフウジンは逃げ切った。
ダービーを逃げ切った。

 2分25秒3

堂々のダービーレコード。
文句なしの完勝。
見事な見事なレース運び。

ゴール板を過ぎてもアイネスフウジンは、
その余韻を楽しむように駆け続けた。
中野の顔はこわばったままであり、眼光は鋭いままである。
彼は何を想い、何を考えていたのか。
そして、やっと、やっと立ち止まったかと思うと、
くるりときびすを返してこちらに引き返そうとした。

そのとき。

どこからともなく「ナカノ、ナカノ」という声が聞こえ始めた。
それは自然に、本当に自然に始まった。
やがてそれは大きなうねりとなり、瞬く間に大合唱となっていった。
気がつけば、スタンドが揺れていた。

ナカノ、ナカノ、ナカノ、ナカノ、ナカノ・・・・・・・・・・

果てしなく大きく、いつまでもどこまでも声は鳴り響いた。
東京競馬場が一種異様な雰囲気に包まれた。
観客も関係者も係員も、すべての人が半ば呆然としながら、
その歓喜の中に身を包んでいた。

心の底からのコール。
勝者への賛歌。
減量に苦しんできた中野栄治に対する応援歌。
すべての想いが重なり合った大合唱。
これが伝説の「ナカノコール」である。

義務感ではなく、ただの暴徒でもなく、自己満足のひやかしでもない。
心のこもった歓喜の歌。
そんな観客に対して、何度も何度も手を挙げて答える中野栄治。
そのとき、初めて彼は笑った。
目には涙が浮かんでいた。

レース後の勝利騎手インタビューで、
「男泣きです」と目頭を熱くしながら答えた彼は、
愛馬のことを「まだまだこれから強くなる」と期待を込めて語った。
このとき、アイネスフウジンの未来も、その関係者の未来も、
さらには競馬界全体の未来も、輝きに満ちあふれていた。

はずだった。

アイネスフウジンのそれが幻であることに気づいたのは、
それから少ししてからだった。
屈腱炎を再発させてしまうのである。
暑い夏が終わろうとしている頃だった。
そのまま引退。
つまりは、アイネスフウジンにとっては、
あれが最初で最後の歓喜だったのである。

そして、冒頭のニュース。
ダービー馬の馬主が自殺したというニュース。

それ自体はバブルの崩壊そのものが原因で、
競馬とは直接関係はなかったらしいが、
しかし、やはりアイネスフウジンのオーナーが自殺したという報は、
あまりに衝撃的だった。
その人もまた、あの歓喜の中にいたかと思うと、
よけいに虚しさを増幅させた。

間違いなくあのとき、競馬はひとつのピークを迎えていた。
いや、今から思えばあれがJRAが求めてきたもの、そのものだった。
あれが、JRAが登りつめた山の頂だったのだ。
登り切った山からはあとは下ることしかできない、
ということに気づいたのは、
頂から降り始めてしばらくしてからのことだった。

競馬は今、確かに斜陽に入っている。

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