寺山修司は他人からあれこれと批判されることが大嫌いなひとだったという。
寺山修司は家族のことをよく書いている。寺山の父は警察官でアル中の対面恐怖症でどうしょうもない男だった。此も真実かどうかあいまいなのだが、「父は酔っては気持気が悪くなると、鉄道の線路まででかけていって嘔吐した。…私は車輪の下にへばりついて、遠い他国の町まではこばれていった「父の吐瀉物」を思い、なんだか胸が熱くなってくるのだった。」と書いている。
このネット上の文章はまた「小学生担った頃、自分のへその緒をみせてもらった。貝殻のようなへその緒の入っている木の箱は、二月二十七日付けの朝日新聞につつまれていて、二・二六事件の記事のすぐその下には「誰でせう?」と大きな見出しの広告があり男装の麗人の写真が載っていた。二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いないと思って居た。(『誰か故郷を想わざる』)という。
この文章が本当か、嘘なのかを問うてみてもしかたのないこと。二・二六事件の青年将校と男装の麗人の写真をつきあわせるといった想像の取り合わせは一種の批判を伴っていて誰もが思いつかないような感覚のおもしろさが寺山修司のおもしろさでもある。
母親を殺そうと思い立ってから
李は牛の夢を見ることがおおくなった
青ざめた一頭の牛が
眠っている胸に上を鈍いはやさで飛んでいるのを感じた
とんでいると言うよりは浮かんでいるといった方がいいかも知れない
ともかくその重さで
汗びっしょりになって李は目ざめる
すると闇のなかで
安堵しきった母親ヨシが寝息をたてているのが見える
李はその母親をじっとみつめる
こんどはたしかに夢ではなく現実なのに
母親ヨシ乃顔が
どこかやっぱり青ざめていた牛に似ているような気がするのでる
そう思っているとふいに闇のむこうで
連絡船の汽笛が鳴る
こんなみうすぼらしい
こんなさみしい幸福について
もしおれがそっとこの部屋を抜けだしてしまったら
誰が質問にこたえてくれるだろう
一体誰が?
ああ 暗いな
と李は思う
その李の頭上にギターがさかさまに吊られている
これは北朝鮮の少年の母親殺しの記事を七二〇行の叙事詩にした「李庚順」の中の一節で或る。一年間「現代詩」に連載したあと、朗読会を持つ。この年は歌集『血と麦』を発表。いままでの猥雑な半ばいいがかりを完全否定するかのような、歌集である。他の追従を許さないみごとな言葉の疾走を展開することになる。