幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「徳川家康の人間関係学 最後に勝ち残る男の選択」童門冬二著 ”人質時代の学びがその後に生きる”

2023-04-03 01:05:18 | 本の紹介
・家康は、自分のやったことは、自分で責任を取らなければならないと考えてきた。それは、絶対に人に指をさされまい、絶対に人から悪く思われまい、という生活信条を持っていたからである。

・家康の「花(名誉)と実(収入)を同一人に与えない」という人事運営方針が、はっきりこのとき(関ケ原後の論功行賞)打ち出されている。・・・
 政治権力という花を与えられた「譜代大名」は、石高の面では非常に少なかった。後に「老中」と呼ばれて集団指導体制をとる徳川トップクラスの大名たちの石高も、せいぜい五、六万石で、それほど多くはない。
 これは、一種の「分断政策」である。家康が権力を保持するために取り入れた「非情な支配体制」ともいえる。

・家康がはじめたこの「鉢植え」、つまり転封・改易は、大名に対する最も強力な制裁措置として、徳川幕府が倒れるまで二百数十年おこなわれ続ける。

・家康も、(信長暗殺時に大阪から三河に逃走時)こういう土民の群れにまといつかれた。それを、先に立った茶屋(四郎次郎 )が、金をバラ撒きながら巧みに鎮め、無事に家康を伊勢の白子の浜に連れ出した。家康はここから船に乗って、海路三河に戻った。

・家康の信条は「世論重視」
奉行に命じたのは一人でない、三人いた。それぞれ性格の違う人間を組み合わせた。これは、かれが徳川幕府を開いてからもつねに用いた方法である。・・・
「今度の月番のお役人より、先月のお役人のほうがよかった」
という評判が立つ。家康にすれば、まるで家来をドッグレースに追い込んだようなものだ。これはかれの性格による。

・(秀吉は)出身身分の問題があるのでかれは武士の最高職である征夷大将軍になれなかった。だから公家の職である関白そして太政大臣になった。

・それほどの力のある太原雪斎(今川義元の参謀・軍師)が、人質の松平竹千代(家康の幼少名)にに目を向けた。・・・八年の間、雪斎はまめに竹千代を臨済寺に呼んでは、いろいろな教育を施したといわれる。

・愛読書として手から離さなかったのが『吾妻鏡』と『孟子』と『六韜三略』である。

・孟子の考えは、「君、君足らざれば、臣、臣足らず」ということである。
しかし、朱子の考えは「君、君足らずとも、臣、臣足れ」ということだ。

・豊臣秀吉が後年にこんなことをいっている。
「信長様は勇将だったが、良将ではない。剛が柔に勝つことは知っていたが、柔がが剛を制することを知らなかった。一度敵になった者へのお怒りは終わりまで解けず、ことごとくその根を断ち、葉を枯らそうとした・・・これは器量が小さいからだ。人から恐れられるけれども、人から愛されることはない。たとえば虎や狼を見て、噛みつかれるのを恐れる者は、これを殺して害を逃れようとする。明智光秀の反逆もこのためだ」

・下剋上の思想というのは、「主人が部下を選ぶだけでなく、部下も主人を選ぶ時代」だったといっていい。

・信長が着目したのは、武田信玄と上杉謙信が川中島で合戦をおこなっているのはつねに「農閑期」だったことだ。これから信長は類推する。
「農繁期になると武田軍も上杉軍もそれぞれ甲斐国と越後国に帰っている。ということは、信玄と謙信が動員している兵はそのまま農民なのだ」と。
武田軍団も上杉軍団も「兵農未分離」の状態にあることを見抜く。
「これはいいことを発見した」
と思う信長はただちに自己軍団の改革に乗り出す。それは、「兵農分離」である

・農民は農村に定住して農業に専念しろ。
 兵士は城下町に住んで、合戦のプロになれ。
と命ずる。・・・そうなると今度はプロ化した兵士の生活の面倒をみる商人が必要になる。そこで信長は、
「商人よ、諸国からおれの城下町に集まってくれ。来てくれた商人に対しては、商売の自由を保証し、税もかけない」
と宣言する。・・・これがいわゆる「楽市・楽座」になる。

・現在でも経営体が活性化するためには、
 ・理念の設定
 ・その追求
 ・そのための推進組織の変革
 ・意識改革を重要視する
などということが、そのまま学べるのではなかろうか。

・諫言は一番槍より難しい(家康)

・家康の人使いの妙味は、なんといってもこの「分断政策」にあった。つまり、右手に左手のやることを知らせない。

・徳川幕府の土台の法律になる「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」、あるいは「諸寺院法度」などの制定を指導した。
 この法律の制定は、非常に大きな意味をもつ。なぜならば、それは天皇や公家、僧侶まで、その行動を制約してしまったからである。
 この法律によって、京都御所にいる天皇や公家は、政治の場から完全に遠ざけられ、「日本の古い文化の保持者」にされてしまった。それだけでなく、広大な領地も没収されて、全体にわずか三万石程度の費用で、天皇や公家は細々と生きざるを得なくなったのである。

・林羅山は、徳川幕府に「儒学」のうち朱子学を取り入れて、武士の精神的拠り所をつくり出した。同時に、かれは「キリシタン追放」に重大な役割を果たしている。
 また、徳川家康の意を汲んで、豊臣家を滅ぼす口実となった「鐘銘事件」で、相当なこじつけの論理を展開したのもかれだ。

・世論を引きつけたというのは、家康は最後まで秀吉夫人ねね(高台院)を大事にし、”正妻派”として行動したことである。これで、淀君、秀頼を戴く石田三成たち”愛人派”に反感を持っていた福島、黒田、藤堂、加藤、浅野、蜂須賀らの、文字通り、秀吉の子飼の武将を全部味方にできた。日本はどうも正妻の座はなかなか強いようだ。だから石田三成の敗北と大阪落城は、”愛人派”の敗北だったのだ。家康の世論を見抜く目が確かだったのだ。

・家康は日本社会の維持管理法として、この身分観をはっきり制度として確立することを企んだ。それが士農工商制度である。士農工商制度によって日本人は全部この四つの階層に分けられた。家康というのはひどい男で士農工商の下に改めてもう一つの層をつくったことは有名だ。・・・
これが家康の「人間の切実なニーズを逆用する方策」ということである。
 こうしてかれは日本の国土に、目には見えるものと見えないものの両方でがんじがらめに日本人を縛りあげる制度を創出したのである。

・徳川家康は人間を、「慢性飢餓症」の状態に置いて、逆流してくるパワーを国家経営のエネルギーに使った。かれは日本人を決して満腹にはさせなかった。お腹が満たされるとろくなことは考えない。
「人間は常に飢えさせておくに限る。原八分目にすべきだ」

・「(石田)光成は豊臣秀頼公に背いた悪臣である。よって、これを討伐する」
 「上杉景勝は豊臣秀頼公に謀反を起した。よって、討伐する」

・駿府城に集めた多彩なブレーンに家康が命じたのは、
 ・豊臣氏をいかにして滅ぼすか
 ・徳川政権の正当性をいかに理論構築するか
 ・豊臣氏滅亡後の徳川政権の長期存続をいかに図るか
の三点だった。

・太原雪斎が教えたものとしては、『孟子』のほかに『六韜三略』や『貞観政要』がある。家康が生涯好んだ書物はこの三つだったといわれる。

・「一人の人間がすべての能力を兼ね備えているということはあり得ない。必ず欠点がある。したがって、事を為すには多くの人間がそれぞれの能力を出し合い、お互いに補い合わなければならない」
これがかれの分断法の土台になる。徳川幕府の役職者はすべて複数であって、単数ではない。

・将来を支える部下をつくる
春日局は、
「竹千代様(三代将軍家光の幼名)が将軍になられたときに、それを支える忠臣たちの育成」
が大事だと思った。・・・春日局はそのために、少年家光に遊び相手、勉強仲間として、信頼できる大名の子弟に目をつけた。そして選んだのが、松平信綱、安倍忠秋、堀田正盛、三浦正次、稲葉正勝、水野光綱。岡部永綱などの少年群である。
 もちろん、この案は祖父家康の許可を得、同時に秀忠、お江与夫妻の許可も得た、同時に表で幕政を扱う老中一同の承認も得た。竹千代には家康が選んだ補導役が三人いた。この了解も得た。

・もう一つ、大事な問題がある。それは、竹千代の含羞癖をどのようにして克服するかであった。春日局の頭に閃いたのが、駿府城に行ったときに、家康がポツンといった言葉だった、
「竹千代の世話を頼む。ことに及んでひるむようなときは、わしの夢を見ろといえ。見ても見なくてもいい。相手に苦手なことをいうときは、『昨夜、夢に祖父が出てきて、こういった』と告げさせろ。すなわち、自分の言葉は、祖父、家康の言葉であるといえば、大抵の大名たちは承知するはずだ。そうすれば、少しずつ竹千代にも自信が湧いてくるはずだ」
 いまにして思えば、家康は、実に意味深長なことを告げたのである。つまり、その言葉は
「自信のないトップリーダーに、自己暗示の妙法を示した」
といえる。

感想
 信長、秀吉、家康のいろいろなエピソードも紹介されていて、お薦めの本です。
 家康は長い人質時代を無為に過ごすのではなく、そこで学び、状況を把握しながら、上手く信長に従い力をつけて行ったようです。
 徳川260年間の礎をしっかりと作り、憂いであった豊臣秀頼を理由をこじつけて殺害して、秀吉子飼いの武将が反乱しないようにもしました。
 関ケ原の戦いは豊臣×徳川の戦いではなく、正妻派×愛人派との視点はなるほどと思いました。力をつけてから、自分の思い通りにしていったのでしょう。
 秀頼公が出馬していれば、子飼いの大名も反旗を翻すことはできなかったと推論されていました。
 歴史にタラレバはないですが、ちょっと違っていると家康は政権を獲得できなかったでしょう。
 ロゴセラピーではないですが、人生からの問いかけを全て自分の未来のためにその時その時に良い判断をし良い行動してきたように思いました。

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