・現地三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。
・私とアフガニスタンを結んだのは、昆虫と山である。今から三十五年前の1978年6月、福岡県の山岳会「福岡登高会」のヒンズークッシュ遠征隊に参加したのがきっかけであった。・・・。
このヒンズークッシュ山脈の北麓にパミール高原があり、モンシロチョウの原産地だと言われている、・・・。私は十歳の頃、昆虫のとりこになって現在に至るが、ヒンズークッシュは一度訪れたい場所のひとつであった。何も初めから、「国際医療協力」などに興味があったわけではない。
・地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えている。・・・。この不文律の有名なものが「パシュトヌワレイ(パシュトゥンの掟)」で、多少の地域で民族差はあるものの、アフガン農村社会を律する共通の掟だといえる。・・・。代表的なものが、メルマスティア(客人歓待)とハダル(復讐法)である。これは、外国人の想像を超える強固な農村地帯の掟である。
・私は、小学校一年生までを若松に住み、昭和27年、福岡市に近い古賀町(現古賀市)に引っ越した。理由は分からななかったが、父が事業に失敗したり、連帯保証人を気軽に引き受けたりで借金を重ね、食い詰めたあげく、最後の持ち家に移ったものらしい。
・別の出会いがあって妥協点を備えてくれた。それがキリスト教、いや正確には内村鑑三である。ミッションスクールの西南学院中学部に通っていた私は、いきおいキリスト教と向き合わされた。・・・。『後世への最大遺物』(内村鑑三)のインパクトは相当大きく、過去の世代の多感な青年たちと同様、私もまた自分の将来を「日本のために捧げる」という、いくぶん古風な使命感が同居するようになった。当時、日本全国で「医療過疎」が大きな社会問題になって久しかった。そこで、医学部進学を決心した。これには父も大賛成して、大学進学の許可を与えてくれたのである。
・マタイ伝の「山上の垂訓」のくだりを暗記するほど読んだ。人と自然との関係を考えるとき、その鮮やかな印象は今も変わらない。
野の花を見よ。(略)栄華を極めたソロモンも、その一輪の装いに如かざりき。
「汝らの恵みは備えられて在り、暖衣飽食を求めず、ただ道を求めよ。天は汝らと共におわします」。そう読めたのだ。
・「天、共に在り」を、ヘブライ語で「インマヌエル」という・これが聖書の神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する。
・生きる意味
1997年、私は九州大学医学部卒業と同時に、佐賀県にある国立備前療養所に入った。精神神経科を選んだのは、当時、人間の精神現象に興味があったこと、精神科なら比較的ゆとりができて、昆虫観察や山歩きもできるだろうという程度の安易な気持ちがあったのは否めない。それに、自分が傾倒していた思想家に、内村鑑三、宮沢賢治、西山幾太郎、カール・バルトらと並んで、精神科医のビクトール・フランクルがいたこともあった。
・ある時、受け持ちの統合失調症の患者が自殺しようとして止めたとき、患者から尋ねられた。
「生きることの意味感がないのです。先生はなぜ生きているのですか」という。だが、改めて問われると、自分もよく分からない。「仕事や昆虫の興味で」というのもまともな答えにならないし、「与えられた生命の意義」を説くほど宗教的でもない。結局、その時々の状況の中で、義理や人情に流されながら生きているだけで、確たる信念を貫いているわけではない。
・哲学者で精神科医のヤスパーは明確に述べている。
「一人で成り立つ自分はない。自分を見つめるだけの人間は滅ぶ。他者との関係において自分が成り立っている」
・「意味は人間に隠されている。その隠された意味を人間が無理に意識しようとすれば、それは人為の造花になって虚構から免れない。不安は意識されることによって現実化する。悩む者に必要なのは、因果関係の分析で意識化することではなく、意識を無意識の豊かな世界に戻すことである」と、フランクルは近代的な精神分の罠を警告している。そしてこれらの発見は、当時の私としては何かを納得させるものがあった。
・精神科医フランクル
「良心が意味を感ずる器官だ」と言い、神学者カール・ハルトは神と人の厳然たる序列と一体性、万人に通ずる恩寵の普遍性を説き、人間中心の近代の自由神学を否定している。「論語」は最も明快で、「これを知るを知るとなし、知らざるを知らずとなせ」、「温故知新」だと、この消息を伝えている。
・1983年9月、私の赴任決定をきっかけに発足したのがペシャワール会である。公的な関係あkら言えば、現地PMS(平和医療団・日本)の集金団体ということになるが、それ以上のものがある。発足当時の会員は、同窓生、山の仲間、同じ教会の人々が中心だったが、徐々に現地活動に共感する人々に変わっていった。
・ハンセン病の治療は、1981年12月、私がペシャワール・ミッション病院に下見にいった折、あるドイツ人医師に出会ったのが機縁である。名をルース・ファウという女医で、カトリックのシスター、20年間をパキスタンのハンセン病治療に捧げてきた。カラチの「マリー・アデレイド・レプロシー・センター」を根拠地に、パキスタン中のハンセン病を根絶する雄大な計画を立案中であった。・・・。しかし、パキスタン全土で患者約二万名、ハンセン病専門医は三名のみという状態で、ひとり悪戦苦闘していた。
・多いときは70名を超え、私と看護士2名だけでは、とえても体力が追いつかなかった。このとき、診療助手の主力が比較的健康な患者たち自身で、自然に役割が出来上がっていった。彼らは、自らのハンセン病患者でありながら、病友たちの世話を喜んで行った。遠隔地から来て、まるで収容されたように病棟で無気力に過ごしていた者も、役割を持たされると、昼夜を問わず働いた。
・「足底潰瘍」で、最も厄介なものであった。放置すると、皮膚ガンや骨髄塩をおこして、しばしば切断手術を行わなければならない。患者の履物を見ると、ボロボロで釘を打って修繕したものもあり、これでは傷ができない方が不思議であった。予防に勝るものはない。現地のサンダルに似せ、靴底に特殊なスポンジを敷き、傷を起こしやすい部位に不自然に体重がかからないように工夫を凝らした。これが大当たりで、大量に病棟のサンダルが出回り始めてから、足の切断手術が激減した。
・私が赴任した1984年、国境の町・ペシャワールの直ぐ向こうでは、凄惨な内戦が展開していた。アフガン戦争である。
・この当時診療所建設に共鳴して協力した職員たちが、その後も強力な味方となった。時には生死を分ける場面でさえ行動を共にして、困難を切り抜けることができたのは、ひとえに誠実な人間の絆であった。
・2000年春、中央アジア全体が未曽有の旱魃にさらされた。5月になってWHOが注意を喚起した内容は、鬼気迫るものがあった。アフガニスタンの被害が最も激烈で、人口の半分以上、約1,200万人が被災、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあり、国連機関が警鐘を鳴らした。
・2007年7月、ダラエヌール診療所で悲鳴を上げていたアフガン人医師の建言を容れ、「もう病気治療どころでない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の獲得に乗り出した。
・日本人青年たちは地元の若い職員数十名を率いて、作業地をあっという間に拡大した。2000年10月までに274か所、翌2001年9月までには660か所となり、その9割以上で水を出した。この活動は、後に述べる米国の「アフガン報復爆撃」中も休みなく続けられ、彼らが去った後も引き継がれた。2004年には1,000か所を超え、最終的には2006年までに約1,600か所に達し、数十か村の人々が離村を避け得るという大きな仕事に発展していった。
・PMSとしては、元来のアフガン農村の回復こそ健康と平和の基礎だと唄江え、砂漠化した田畑を回復する努力が行われた。ダラエヌール渓谷を中心に、灌漑用水を得ることが大きな目標となった。
・2001年10月13日、・・・国会の衆議院特別委員会で、話をすることが求めれた。・・・
「よって自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消ことが最大の問題であります」
この発言で議場騒然となった。
「対日感情は一挙に悪化するだろう。これは過去先輩たちが血を流して得た(平和主義という)教訓を壊つものである」
「最後に、党派を問わず、一人の父親、母親として皆さんに訴える。くりかえすが、大旱魃と飢餓対策こそが緊急課題である」と、食糧支援計画をアピールして、締めくくった。
・日本でまことしやかに報道された「ピンポイント攻撃(テロリストの場所だけを攻撃して市民に被害を与えない)」の実態は、無差別爆撃であった。
・世界が捏造と錯覚で成り立っていることに愕然とせざるを得なかった。・・・。両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの姿が心に焼きついて離れない。彼らが長じたとき・・・不憫な思いと共に、うそ寒いものを感ぜざるを得なかった。
・PMS奥地診療所の閉鎖
まず物価高騰である。ものがないところに外国諸団体が気前よく大金を落とすから、カネがだぶつく。インフレが甚だしいものがあった。・・・。次に人材の流出である。特に医師層や技術者は他のHGOに高給で引き抜かれ、診療所の維持が危機に瀕した。多くはカブールで5倍、10倍の給与を保証され、我々の許を去った。
・拡大する「対テロ戦争」
治安は悪化の一途をたどり、米軍の「アルカイダ掃討作戦」は、いたずらに反米感情を煽るばかりで実が上がらなかった。
・「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」という確信を深めた私は、空爆下の食糧配給の訴えに寄せられた「いのちの集金」約6億円を投じて、農業復興に全力をつくす方針を固めた。計画の骨子は以下の通りである。
1) 試験農場 乾燥に強い作付の研究
2) 飲料水事業 現在の事業を継続、総数2000か所を目指す
3) 灌漑用水事業
① 枯れ川になった井堰・溜池の建設
② 大河川からの取水
・「ジャリハバから約13kmの用水路建設を数年で完成、砂漠化したシェイワ郡3000町歩を回復、用水路は『アーベ・マルワリード(真珠の水)』と名付け、毎秒6トン(1日50万トン)の水を旱魃地に注ぐ」と公言した。もう後には引けなかった。
・しかし、宣言にふさわしい力量があったとは言えない。・・・。このとき、笑わずに協力してくれたのが、河川工学の坂本教授、小林技師である。
・温故知新-日本の農業土木技術とアフガニスタン
そこで現地はもちろん、帰国して暇さえあれば水利施設をみてあるいた。
・これまで、県境がどうして決められたか考えたことがなかったが、やっとわかった。人々の暮らしの単位と言える村落は、当然、異なる水系で隔てられているからだ。
・アフガンと日本、河川を見る限り、類似点もある。
1) 山間部の急流河川が多いこと
2) 冬季と夏季の水位差が大きいこと
3) 大きな平野が少なく、山に挟まれた盆地と小平野で農業が営まれること
・斜め堰-先人たちの知恵と力作
福岡県朝倉市に山田堰という取水口がある。
筑紫川は「日本三大暴れ川」の一つで、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並んで、「筑紫次郎」として有名だ。
・用水路
1) 割れないこと
2) 自在に屈伸して設置できること
3) 壊れても、籠と石材さえあれば誰でも補修できること
4) 植生がなじみ、他の生物が住みやすいこと
5) コストが高くないこと
・その後の多くの困難と工夫は割愛しよう。まるで精神と気力だけが生きていた7年間であった。数百年ぶりの大洪水、集中豪雨などの天才だけでなく、米軍による誤射事件、地方軍閥の妨害、反米暴動、技師たちの脱走、裏切り、盗難、職員の汚職と不正、内部対立、対岸住民との角逐、用地接収をめぐる地主との対立、人災をあげれば枚挙に暇がない。個人的にもこの間、多くの肉親と友人を失い、家族を置き去りにし、あちこちに不義理をして、気がめげることがないでもなかった。絶望的と思えた状況で水路と心中する心境になったこともある。正直、戦場で白兵戦を演ずる方が楽であったろう。事業完遂のためなら、誇りも捨てた。綱渡りのようなこともやりながら、難局を切り抜けた。巨額をはたいて多くの人々の希望をかきたて動かし、無数の飢餓難民が水を渇望していることを思うと、泣き言は言っておれなかったのである。
・2007年2月、用水路は第一期工事を終えつつあり、PMSは住民たちの懇請を入れて、モスクとマドラサの建設に踏み切った。これには全国組織の宗教委員会も加わり、大きな出来事として報ぜられた。地鎮祭の折、人々が叫んだ声が印象的である。
「解放が、これで俺たちは自由になったんだ!」
伝統文化そのものを否定されてきた人々にとり、「水」にも劣らぬ拠り所を回復したと言える。
・モスクでは1,200名が一堂に礼拝でき、600名の学童が学んでいる。
「天の時、地の利、人の和」という。
・それほど「ガンベリ砂漠灌漑」は地元民にとって、奇跡に近い出来事だとおもわれていたのである。いつしか職員たちの間で、「ガンベリへ、ガンベリへ」が合言葉になっていった。次第にあっかする政情の中で、この仕事が一縷の希望となった。PMS職員は住民と一体になり、必死で働いた。
・2003年以来の悲願達成を目前に、誰も泣き言を述べなかった。その通り、用水路の成否には、彼らの生存が掛かっていたからだ。作業員の大半が近隣農民である。成功を信じて多くの者が家族を呼び戻していた。用水路が失敗すれば、再び過酷な難民生活が控えている。まさに生死の境で生き延びようとする健全な意欲こそが、気力の源であった。
・PMSの農場開拓は、こうして不動の基礎を得た。濁流の取水堰から約25km、ガンベリ平野は平和である。死の谷を恵みの谷に転じ、豊かな収穫を約束する。
・ダビデの詩は、数千年の時を超え、朽ちない事実を伝えている。
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ。
主はわれをみどりの野にふさせ、憩いの汀に伴いたもう。
たといわれ死の影の谷をあゆむとも、禍を恐れじ。
汝、我と共にいませばなり。
かならず恵みと憐れみと我にぞいきたらん
(https://www.wordproject.org/bibles/jp/19/23.htm詩篇第23篇より抜粋)
・宮沢賢治『注文の多い料理店』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html
注文の多い料理店 宮沢賢治
・アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。1992年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発泡しない方が勇気の要ることを知っている。
・「天、共に在り」
科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざると得ないだろう。
これが、30年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。
感想;
まさに人生からの問いかけに「YES]と言って取り組まれたのだと思います。
現地の人と一緒に、現地の人の苦しみを解決するために取り組まれました。
多くの人が中村哲さんに共感して支えて来られたのだと思います。
昆虫好き、クリスチャンなど様々な出会いが、アフガニスタンでの活動に全てがつながっているように思いました。
台湾南部の荒れ地にに灌漑用水路を引いた、八田 與一さんのことを今でも感謝し続けている台湾の人々がいらっしゃいます。
https://www.nippon.com/ja/column/g00557/
不毛の大地を緑野に変えた八田與一
中村哲さんはまさにアフガニスタンの困窮している人々のために尽くされた方でした。
医療支援、ハンセン病治療、井戸掘り、灌漑用用水路を命のリスク(戦争、爆撃、襲撃など)のある中、その時その時の問いかけ(要望)に応えられました。
中村哲さんは2019年12月4日(73歳)に殺害されました。
ご冥福をお祈りいたします。
中村哲さんはアフガンへの貢献だけでなく、多くの人の心にも種蒔きをされたと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中村哲_(医師)
中村哲さん(ウイキペディア)
ロゴセラピーでは、人生の意味を自分から見つけると考えるのではなく、人生の方から人生の意味を尋ねてくると考えます。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
・私とアフガニスタンを結んだのは、昆虫と山である。今から三十五年前の1978年6月、福岡県の山岳会「福岡登高会」のヒンズークッシュ遠征隊に参加したのがきっかけであった。・・・。
このヒンズークッシュ山脈の北麓にパミール高原があり、モンシロチョウの原産地だと言われている、・・・。私は十歳の頃、昆虫のとりこになって現在に至るが、ヒンズークッシュは一度訪れたい場所のひとつであった。何も初めから、「国際医療協力」などに興味があったわけではない。
・地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えている。・・・。この不文律の有名なものが「パシュトヌワレイ(パシュトゥンの掟)」で、多少の地域で民族差はあるものの、アフガン農村社会を律する共通の掟だといえる。・・・。代表的なものが、メルマスティア(客人歓待)とハダル(復讐法)である。これは、外国人の想像を超える強固な農村地帯の掟である。
・私は、小学校一年生までを若松に住み、昭和27年、福岡市に近い古賀町(現古賀市)に引っ越した。理由は分からななかったが、父が事業に失敗したり、連帯保証人を気軽に引き受けたりで借金を重ね、食い詰めたあげく、最後の持ち家に移ったものらしい。
・別の出会いがあって妥協点を備えてくれた。それがキリスト教、いや正確には内村鑑三である。ミッションスクールの西南学院中学部に通っていた私は、いきおいキリスト教と向き合わされた。・・・。『後世への最大遺物』(内村鑑三)のインパクトは相当大きく、過去の世代の多感な青年たちと同様、私もまた自分の将来を「日本のために捧げる」という、いくぶん古風な使命感が同居するようになった。当時、日本全国で「医療過疎」が大きな社会問題になって久しかった。そこで、医学部進学を決心した。これには父も大賛成して、大学進学の許可を与えてくれたのである。
・マタイ伝の「山上の垂訓」のくだりを暗記するほど読んだ。人と自然との関係を考えるとき、その鮮やかな印象は今も変わらない。
野の花を見よ。(略)栄華を極めたソロモンも、その一輪の装いに如かざりき。
「汝らの恵みは備えられて在り、暖衣飽食を求めず、ただ道を求めよ。天は汝らと共におわします」。そう読めたのだ。
・「天、共に在り」を、ヘブライ語で「インマヌエル」という・これが聖書の神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する。
・生きる意味
1997年、私は九州大学医学部卒業と同時に、佐賀県にある国立備前療養所に入った。精神神経科を選んだのは、当時、人間の精神現象に興味があったこと、精神科なら比較的ゆとりができて、昆虫観察や山歩きもできるだろうという程度の安易な気持ちがあったのは否めない。それに、自分が傾倒していた思想家に、内村鑑三、宮沢賢治、西山幾太郎、カール・バルトらと並んで、精神科医のビクトール・フランクルがいたこともあった。
・ある時、受け持ちの統合失調症の患者が自殺しようとして止めたとき、患者から尋ねられた。
「生きることの意味感がないのです。先生はなぜ生きているのですか」という。だが、改めて問われると、自分もよく分からない。「仕事や昆虫の興味で」というのもまともな答えにならないし、「与えられた生命の意義」を説くほど宗教的でもない。結局、その時々の状況の中で、義理や人情に流されながら生きているだけで、確たる信念を貫いているわけではない。
・哲学者で精神科医のヤスパーは明確に述べている。
「一人で成り立つ自分はない。自分を見つめるだけの人間は滅ぶ。他者との関係において自分が成り立っている」
・「意味は人間に隠されている。その隠された意味を人間が無理に意識しようとすれば、それは人為の造花になって虚構から免れない。不安は意識されることによって現実化する。悩む者に必要なのは、因果関係の分析で意識化することではなく、意識を無意識の豊かな世界に戻すことである」と、フランクルは近代的な精神分の罠を警告している。そしてこれらの発見は、当時の私としては何かを納得させるものがあった。
・精神科医フランクル
「良心が意味を感ずる器官だ」と言い、神学者カール・ハルトは神と人の厳然たる序列と一体性、万人に通ずる恩寵の普遍性を説き、人間中心の近代の自由神学を否定している。「論語」は最も明快で、「これを知るを知るとなし、知らざるを知らずとなせ」、「温故知新」だと、この消息を伝えている。
・1983年9月、私の赴任決定をきっかけに発足したのがペシャワール会である。公的な関係あkら言えば、現地PMS(平和医療団・日本)の集金団体ということになるが、それ以上のものがある。発足当時の会員は、同窓生、山の仲間、同じ教会の人々が中心だったが、徐々に現地活動に共感する人々に変わっていった。
・ハンセン病の治療は、1981年12月、私がペシャワール・ミッション病院に下見にいった折、あるドイツ人医師に出会ったのが機縁である。名をルース・ファウという女医で、カトリックのシスター、20年間をパキスタンのハンセン病治療に捧げてきた。カラチの「マリー・アデレイド・レプロシー・センター」を根拠地に、パキスタン中のハンセン病を根絶する雄大な計画を立案中であった。・・・。しかし、パキスタン全土で患者約二万名、ハンセン病専門医は三名のみという状態で、ひとり悪戦苦闘していた。
・多いときは70名を超え、私と看護士2名だけでは、とえても体力が追いつかなかった。このとき、診療助手の主力が比較的健康な患者たち自身で、自然に役割が出来上がっていった。彼らは、自らのハンセン病患者でありながら、病友たちの世話を喜んで行った。遠隔地から来て、まるで収容されたように病棟で無気力に過ごしていた者も、役割を持たされると、昼夜を問わず働いた。
・「足底潰瘍」で、最も厄介なものであった。放置すると、皮膚ガンや骨髄塩をおこして、しばしば切断手術を行わなければならない。患者の履物を見ると、ボロボロで釘を打って修繕したものもあり、これでは傷ができない方が不思議であった。予防に勝るものはない。現地のサンダルに似せ、靴底に特殊なスポンジを敷き、傷を起こしやすい部位に不自然に体重がかからないように工夫を凝らした。これが大当たりで、大量に病棟のサンダルが出回り始めてから、足の切断手術が激減した。
・私が赴任した1984年、国境の町・ペシャワールの直ぐ向こうでは、凄惨な内戦が展開していた。アフガン戦争である。
・この当時診療所建設に共鳴して協力した職員たちが、その後も強力な味方となった。時には生死を分ける場面でさえ行動を共にして、困難を切り抜けることができたのは、ひとえに誠実な人間の絆であった。
・2000年春、中央アジア全体が未曽有の旱魃にさらされた。5月になってWHOが注意を喚起した内容は、鬼気迫るものがあった。アフガニスタンの被害が最も激烈で、人口の半分以上、約1,200万人が被災、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあり、国連機関が警鐘を鳴らした。
・2007年7月、ダラエヌール診療所で悲鳴を上げていたアフガン人医師の建言を容れ、「もう病気治療どころでない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の獲得に乗り出した。
・日本人青年たちは地元の若い職員数十名を率いて、作業地をあっという間に拡大した。2000年10月までに274か所、翌2001年9月までには660か所となり、その9割以上で水を出した。この活動は、後に述べる米国の「アフガン報復爆撃」中も休みなく続けられ、彼らが去った後も引き継がれた。2004年には1,000か所を超え、最終的には2006年までに約1,600か所に達し、数十か村の人々が離村を避け得るという大きな仕事に発展していった。
・PMSとしては、元来のアフガン農村の回復こそ健康と平和の基礎だと唄江え、砂漠化した田畑を回復する努力が行われた。ダラエヌール渓谷を中心に、灌漑用水を得ることが大きな目標となった。
・2001年10月13日、・・・国会の衆議院特別委員会で、話をすることが求めれた。・・・
「よって自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消ことが最大の問題であります」
この発言で議場騒然となった。
「対日感情は一挙に悪化するだろう。これは過去先輩たちが血を流して得た(平和主義という)教訓を壊つものである」
「最後に、党派を問わず、一人の父親、母親として皆さんに訴える。くりかえすが、大旱魃と飢餓対策こそが緊急課題である」と、食糧支援計画をアピールして、締めくくった。
・日本でまことしやかに報道された「ピンポイント攻撃(テロリストの場所だけを攻撃して市民に被害を与えない)」の実態は、無差別爆撃であった。
・世界が捏造と錯覚で成り立っていることに愕然とせざるを得なかった。・・・。両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの姿が心に焼きついて離れない。彼らが長じたとき・・・不憫な思いと共に、うそ寒いものを感ぜざるを得なかった。
・PMS奥地診療所の閉鎖
まず物価高騰である。ものがないところに外国諸団体が気前よく大金を落とすから、カネがだぶつく。インフレが甚だしいものがあった。・・・。次に人材の流出である。特に医師層や技術者は他のHGOに高給で引き抜かれ、診療所の維持が危機に瀕した。多くはカブールで5倍、10倍の給与を保証され、我々の許を去った。
・拡大する「対テロ戦争」
治安は悪化の一途をたどり、米軍の「アルカイダ掃討作戦」は、いたずらに反米感情を煽るばかりで実が上がらなかった。
・「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」という確信を深めた私は、空爆下の食糧配給の訴えに寄せられた「いのちの集金」約6億円を投じて、農業復興に全力をつくす方針を固めた。計画の骨子は以下の通りである。
1) 試験農場 乾燥に強い作付の研究
2) 飲料水事業 現在の事業を継続、総数2000か所を目指す
3) 灌漑用水事業
① 枯れ川になった井堰・溜池の建設
② 大河川からの取水
・「ジャリハバから約13kmの用水路建設を数年で完成、砂漠化したシェイワ郡3000町歩を回復、用水路は『アーベ・マルワリード(真珠の水)』と名付け、毎秒6トン(1日50万トン)の水を旱魃地に注ぐ」と公言した。もう後には引けなかった。
・しかし、宣言にふさわしい力量があったとは言えない。・・・。このとき、笑わずに協力してくれたのが、河川工学の坂本教授、小林技師である。
・温故知新-日本の農業土木技術とアフガニスタン
そこで現地はもちろん、帰国して暇さえあれば水利施設をみてあるいた。
・これまで、県境がどうして決められたか考えたことがなかったが、やっとわかった。人々の暮らしの単位と言える村落は、当然、異なる水系で隔てられているからだ。
・アフガンと日本、河川を見る限り、類似点もある。
1) 山間部の急流河川が多いこと
2) 冬季と夏季の水位差が大きいこと
3) 大きな平野が少なく、山に挟まれた盆地と小平野で農業が営まれること
・斜め堰-先人たちの知恵と力作
福岡県朝倉市に山田堰という取水口がある。
筑紫川は「日本三大暴れ川」の一つで、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と並んで、「筑紫次郎」として有名だ。
・用水路
1) 割れないこと
2) 自在に屈伸して設置できること
3) 壊れても、籠と石材さえあれば誰でも補修できること
4) 植生がなじみ、他の生物が住みやすいこと
5) コストが高くないこと
・その後の多くの困難と工夫は割愛しよう。まるで精神と気力だけが生きていた7年間であった。数百年ぶりの大洪水、集中豪雨などの天才だけでなく、米軍による誤射事件、地方軍閥の妨害、反米暴動、技師たちの脱走、裏切り、盗難、職員の汚職と不正、内部対立、対岸住民との角逐、用地接収をめぐる地主との対立、人災をあげれば枚挙に暇がない。個人的にもこの間、多くの肉親と友人を失い、家族を置き去りにし、あちこちに不義理をして、気がめげることがないでもなかった。絶望的と思えた状況で水路と心中する心境になったこともある。正直、戦場で白兵戦を演ずる方が楽であったろう。事業完遂のためなら、誇りも捨てた。綱渡りのようなこともやりながら、難局を切り抜けた。巨額をはたいて多くの人々の希望をかきたて動かし、無数の飢餓難民が水を渇望していることを思うと、泣き言は言っておれなかったのである。
・2007年2月、用水路は第一期工事を終えつつあり、PMSは住民たちの懇請を入れて、モスクとマドラサの建設に踏み切った。これには全国組織の宗教委員会も加わり、大きな出来事として報ぜられた。地鎮祭の折、人々が叫んだ声が印象的である。
「解放が、これで俺たちは自由になったんだ!」
伝統文化そのものを否定されてきた人々にとり、「水」にも劣らぬ拠り所を回復したと言える。
・モスクでは1,200名が一堂に礼拝でき、600名の学童が学んでいる。
「天の時、地の利、人の和」という。
・それほど「ガンベリ砂漠灌漑」は地元民にとって、奇跡に近い出来事だとおもわれていたのである。いつしか職員たちの間で、「ガンベリへ、ガンベリへ」が合言葉になっていった。次第にあっかする政情の中で、この仕事が一縷の希望となった。PMS職員は住民と一体になり、必死で働いた。
・2003年以来の悲願達成を目前に、誰も泣き言を述べなかった。その通り、用水路の成否には、彼らの生存が掛かっていたからだ。作業員の大半が近隣農民である。成功を信じて多くの者が家族を呼び戻していた。用水路が失敗すれば、再び過酷な難民生活が控えている。まさに生死の境で生き延びようとする健全な意欲こそが、気力の源であった。
・PMSの農場開拓は、こうして不動の基礎を得た。濁流の取水堰から約25km、ガンベリ平野は平和である。死の谷を恵みの谷に転じ、豊かな収穫を約束する。
・ダビデの詩は、数千年の時を超え、朽ちない事実を伝えている。
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ。
主はわれをみどりの野にふさせ、憩いの汀に伴いたもう。
たといわれ死の影の谷をあゆむとも、禍を恐れじ。
汝、我と共にいませばなり。
かならず恵みと憐れみと我にぞいきたらん
(https://www.wordproject.org/bibles/jp/19/23.htm詩篇第23篇より抜粋)
・宮沢賢治『注文の多い料理店』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html
注文の多い料理店 宮沢賢治
・アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。防備は必ずしも武器によらない。1992年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで私たちと事業を守った。戦場に身をさらした兵士なら、発泡しない方が勇気の要ることを知っている。
・「天、共に在り」
科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざると得ないだろう。
これが、30年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。
感想;
まさに人生からの問いかけに「YES]と言って取り組まれたのだと思います。
現地の人と一緒に、現地の人の苦しみを解決するために取り組まれました。
多くの人が中村哲さんに共感して支えて来られたのだと思います。
昆虫好き、クリスチャンなど様々な出会いが、アフガニスタンでの活動に全てがつながっているように思いました。
台湾南部の荒れ地にに灌漑用水路を引いた、八田 與一さんのことを今でも感謝し続けている台湾の人々がいらっしゃいます。
https://www.nippon.com/ja/column/g00557/
不毛の大地を緑野に変えた八田與一
中村哲さんはまさにアフガニスタンの困窮している人々のために尽くされた方でした。
医療支援、ハンセン病治療、井戸掘り、灌漑用用水路を命のリスク(戦争、爆撃、襲撃など)のある中、その時その時の問いかけ(要望)に応えられました。
中村哲さんは2019年12月4日(73歳)に殺害されました。
ご冥福をお祈りいたします。
中村哲さんはアフガンへの貢献だけでなく、多くの人の心にも種蒔きをされたと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/中村哲_(医師)
中村哲さん(ウイキペディア)
ロゴセラピーでは、人生の意味を自分から見つけると考えるのではなく、人生の方から人生の意味を尋ねてくると考えます。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/logo.html
人が創る品質 -ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)-
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