閉塞しきった日本の政治を、たった一人で変えた市長の「闘いの記録」――。議会、政党、宗教団体、市役所職員、マスコミ――周囲は敵だらけの四面楚歌、権力闘争に勝ち抜く「秘策」を著した『政治はケンカだ! 明石市長の12年』。市長在任中にはけっして口に出来なかった、改革に抵抗する勢力との闘いの内幕が明らかに。聞き手を『朝日新聞政治部』の著者で気鋭の政治ジャーナリスト・鮫島浩氏が務めている。泉氏がいかに闘争してきたか、同書から抜粋してお届けする。
連載『政治はケンカだ! 』第2回前編
突然だった市長引退宣言
鮫島 泉さんとは、2022年7月の参院選直前に初インタビューして以来、半年ぶりです。少子高齢化で人口減少に悩む自治体が多い中「9年連続人口増」「8年連続税収増」を成し遂げた明石市の子育て支援政策に、注目が集まり始めていた時期でした。改革の波は徐々に広がり、明石市周辺の自治体では選挙に勝つためにどの候補者も子育て支援策を掲げるようになりました。しかし2022年10月、二度目となる暴言騒動で実にあっさりと政治家引退を表明されて……。度肝を抜かれました。
泉 我ながら展開早いですね。ローリング・ストーンじゃないですけど、本当に目まぐるしい。『鮫島タイムス』で取り上げてもらった動画をかなり見てもらえたようで、前回の対談の直後ぐらいから、一気に火がついたように感じています。「明石でできたことは他の自治体でもできる」「明石でできたことは、国でもできる」というメッセージが届いたのかなと。市民に負担を課さなくても、明石で子ども施策が成功して、人口増・税収増につながったという結果が、みなさんの良いヒントになったのではないでしょうか。 ついに東京都の小池百合子知事まで子どもへの給付に舵を切りましたからね。マスコミは、「できるはずがない」と批判するばっかりですが、「トップが決断すればできる」と私は言い続けてきた。 実際に他の自治体が動き始め、「政治決断すれば、一定のことはできるんだ」という確信が得られ、非常に嬉しいです。大マスコミには到底及ばない、個人のツイッターという微力ですが、市民・国民に直接メッセージを発し続けた意味はあったかな。
鮫島 微力なんて、とんでもない。2021年末にツイッターを始められて、1年あまりでフォロワー40万人を突破しています。明石市で改革を進める泉市長に対して全国的な関心が高まっているのでしょう。 どの政党や団体からも支援を受けずに明石市長を務めてこられた、泉さんの3期12年間は、まさに孤立無縁の闘いの日々だったと言い換えることができます。今回は、泉さんの「闘争」にテーマを絞り、明石市長として変革を進める上で障壁となったいくつかの勢力について、片っ端から斬ってもらおうと考えています。
泉 人は私を「毒舌」と言いますが、私からすれば、奥歯にモノが挟まって口をグルグル巻きにされているぐらい、市長在任期間中は言いたいことが言えなかった。自分としてはもっと本質的なことを発信したかったのですが、ハレーションや誤解を避けるために、私なりにかなり我慢していたのです。ストライクゾーンのギリギリを投げてるつもりだったんですけど、他の人から見れば「頭めがけてビーンボールを投げた」ということになる。 この本の発売日には「明石市長」という肩書が外れるので、言いたいことを言わせてもらいます。「闘争」ということで言うと、市長になる以前から、私の人生は闘いの連続でした。政敵やマスコミだけじゃなく、ありとあらゆる敵と闘ってきましたから。
障害を持って生まれた弟の存在
鮫島 闘う政治家・泉房穂がどのように作られたのか、そのあたりから聞かせてください。泉さんの政治家としての原点には、障害を持って生まれた4歳下の弟さんの存在があった。
泉 弟のこと以前に、まず家がものすごく貧乏だったんです。明石市の西部に位置する、播磨灘に面した二見町という貧しい漁村。その村のなかでも特に貧しい家庭に、私は生まれました。親父は小卒で漁師になってますし、母親は中卒。私が幼い頃から、「金持ちとは喧嘩するな」「歯向かうな」というのが両親の口癖でね。「貧乏人が金持ちと喧嘩しても勝てるわけないから、悔しくても頭下げなしゃあないで」と言うんです。私は「そんなわけはない」と思ってたんですけどね。 だけど、両親がそう言うのにも理由がある。うちの親父は、兄貴2人と義兄(姉の夫)を戦争で亡くしているんです。親父からすると、3人の兄が戦争に取られて死んでるわけです。戦時中、うちの村の人たちは激戦地に行かされて、明石市内の他の地域と比べても、やたらたくさん死んでるんです。つまり、昔から貧しかったうちの村に暮らす人の命は軽かったんです。それをつぶさに見ているから、「金持ちとは喧嘩するな」となるわけです。 歴史を調べてみると、江戸時代から貧しかったようです。明石の豊かな漁師町は権力に可愛がられて、いい場所で漁をすることを許されていたのですが、うちの村は魚が獲れる漁場で漁をさせてもらえずに、餓死者が続出していた。生まれてきた子どもたちを満足に育てることができなかったので、うちの村だけやたら水子地蔵が多いんです。 そういう「貧困」とか「理不尽な差別」を、村の人はみな肌で感じていた。それを象徴するのが戦争です。
鮫島 まさに戦争のリアリズムですね。徴兵制度は「国民皆兵」を原則としていたはずですが、それはあくまで建前。実際には、皆が平等に召集されるわけではなく、弱いところから戦争に駆り出されていく。
泉 その通り。うちの親父は10歳で終戦を迎えているのですが、兄貴が3人も死んでしまったから、10歳ちょっとで漁師になって家族を支える以外の選択肢がなかった。その親父の3軒隣で、同じく貧乏な漁師の家で生まれ育ったのがうちの母親で、中学を出たら女工さんとして働きに出てました。そういう両親の下に生まれたのが私で、その4年後に障害を持った弟が生まれた。
鮫島 浩(ジャーナリスト)/泉房穂
感想;
明治維新のきっかけになった、毛利藩の高杉晋作のクーデターは一人で蜂起でした。それに賛同者が付いて行ったのです。
高杉晋作が作った”騎兵隊”の世話係していた山県有朋も当初躊躇していました。
多くの人が付いて行ったのを見て、ようやく山県有朋も付いて行きました。
泉さんに私たちが付いて行くことが政治を変えることができるかもしれません。