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ポーランドからの報告

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映画 『シンドラーのリスト』 の舞台を訪ねる ③

2006年09月09日 | 観光ガイド

第二次世界大戦直後(1939年11月)の時点で、クラクフとその周辺領域には、約68,400人のユダヤ人が住んでおり、クラクフの人口の1/4を占めていました。ユダヤ人の多くは カジミエジュ地区(Kazimierz)と呼ばれる中世からの歴史的なユダヤ人地区に住み、商いなどをして生計を立てていました。しかし第二次世界大戦が始まると、ユダヤ人はゲットーへの移住を命じられます。

ゲットーの中では、ナチス軍による殺戮が日常茶飯事でした。とりわけズゴダ広場は、後にユダヤ人をゲットーからアウシュビッツ、プワシュフなどの強制収容所に運ぶための待合場所~ウムシュラークプラッツとなり、収容所行きに逆らう人は容赦なく射殺されました。ズゴダ広場は戦後 ゲットーの英雄広場 と名前を変え、クラクフ・ゲットーで亡くなった方の弔いの場となっています。

2005年12月、このゲットーの英雄広場に、新たな追悼モニュメントが開幕されました。イスをモチーフにしたもので、ユダヤ人学校の生徒が、一人ひとつずつ教室のイスをもって移動しているシーンを映した当時の有名な記録フィルムにちなんでいるそうです。

 

ユダヤ人がゲットーへ強制移住させれた一方で、逆にゲットー指定区域に住んでいたポーランド人も、ゲットー外に強制退去となりました。そんな中、ゲットー中心部・ズゴダ広場の一角に建っていた薬局 Apteka Pod Orłem のオーナーだけは、ポーランド人でありながら、引き続きゲットー内にとどまることを許可されました。彼は「ゲットー内にとどまることを許された唯一のポーランド人」として見たゲットーの様子を 、後年『 Apteka Pod Orłem 』という本に記しています。

現在この薬局は クラクフゲットー博物館 として開放されており、当時の様子を映した貴重な写真の数々をみることができます。このゲットーの英雄広場、クラクフゲットー博物館へは、旧市街からトラム3・9・11・13・36・38番が便利です。



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映画 『シンドラーのリスト』 の舞台を訪ねる ②

2006年09月08日 | 観光ガイド

第二次世界大戦のポーランドでは、ワルシャワ・ゲットー(1940年)、クラクフ・ゲットー(1941年)をはじめ、ウッジ、ルブリンなどポーランド国内の主要な街のほとんどにゲットーが設置され、ユダヤ人はゲットーへの強制移住を命じられました。クラクフには1939年11月の時点で人口の1/4を占める約6万人のユダヤ人が住んでいましたが、ほとんどが、クラクフ・ゲットーからベウジェツ、アウシュビッツなどの絶滅収容所へ送られ、尊い命を奪われました。

クラクフ・ポドグジェ地区のルヴォフスカ通りは、このゲットーの壁の一部が再現されています。実際に訪れてみると、とても高く、圧倒されます。この高い壁に阻まれて、ゲットーからの脱出は殆ど不可能だったことがわかります。



クラクフのゲットーは、歴史的なユダヤ人地区であったカジミエジュ地区ではなく、ヴィスワ川の対岸のポドグジェ地区(Pod Górze)に設けられました。「カジミエジュ地区にゲットーが設置された」と書いてるガイドブックがありますが、これは誤りで、実際はポドグジェ地区です(下の地図を参照)。スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の撮影では、カジミエジュ地区にゲットーのセットを組んで撮影していたので、それと混同したものと思われます。



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映画 『シンドラーのリスト』 の舞台を訪ねる

2006年09月07日 | 観光ガイド

オスカーを受賞したスティーブン・スピルバーグ監督の名作映画『シンドラーのリスト』は、ここクラクフが舞台となっています。クラクフ・ポドグジェ地区には、そのシンドラーの工場が、今日も当時のままの姿で残されており、映画のシーンにも登場した入り口の階段やシンドラーの執務室などを見学することができます。

第二次世界大戦初期の1939年、ナチス占領下のクラクフにやってきたドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、古工場を買い取り、ゲットーのユダヤ人を低賃金で雇って、ドイツほうろう容器工場をオープンしました。しかし1943年クラクフ・ゲットーが解体され、ゲットーのユダヤ人はクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることが判明すると、自身の工場をプワシュフ収容所の所属とし、工場の敷地内にプワシュフ収容所所属の私設収容所を設置、工場のユダヤ人労働者を強制労働収容所へ送ることなく、引き続きシンドラーの工場にとどめました。

  

さらにプワシュフ労働収容所の解体も決まり、クラクフのユダヤ人はすべて絶滅収容所として悪名高いアウシュビッツへ送られることが決まります。するとシンドラーは、工場のユダヤ人労働者を、生まれ故郷チェコのブリンリッツへ連れて行くことを決断します。彼は『シンドラーのリスト』を作成、このリストに載った1200人余りの人がシンドラーとともチェコのブリンリッツへ旅立ちました。こうしてシンドラーは、私財をなげうち、1200人ものユダヤ人の命を救ったのです。



このシンドラーの工場へは、街中からトラムの3・9・11・13・36・38番などでゲットーの英雄広場下車、そこから徒歩4分です。ところで映画『シンドラーのリスト』が製作されるまで、ポーランド人は「シンドラーの工場」の存在さえも知りませんでした。映画が大ヒットし観光客が訪れるようになると、「シンドラー」の名前もそれなりに有名になってきましたが、それでも現在でもなお多くの人が、シンドラーの工場についてのエピソードを知りません。

実際正直なところ、ポーランドにおいてはアウシュビッツ、ゲットーなどユダヤ人ホロコーストに関する話題は避けられる傾向にあり、また外国人がホロコーストの話をするのも好まれません。シンドラーの工場近くを歩いていると「わざわざこんな汚い工場見学して...」とでも言いたげな、地元の人の冷めた視線で出迎えられることもあります。。



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クラクフで ダ・ヴィンチ を見る

2006年09月01日 | 観光ガイド

世界中で話題騒然となっている、ダン・ブラウン作 『ダ・ヴィンチ・コード』。映画も公開され、その影響で日本を含め世界中でレオナルド・ダ・ヴィンチ人気が高まっています。ダ・ヴィンチの絵画を見に、ヨーロッパ旅行でミラノやパリへ立ち寄る方も増えており、各地のダ・ヴィンチの絵画を有する美術館は大混雑のようです。私も先月イタリア旅行に行ったものの、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にある「最後の晩餐」は完全事前予約制で見られずじまい、フィレンツェのウッフィツィイ美術館も長蛇の列で、予約券を買うのにも一苦労でした。

そんな中、意外と知られていないのですが、ローマ、フィレンツェ、ロンドン、パリなど絵画美術で知られる街と並んで、ここクラクフでもダ・ヴィンチの作品を鑑賞することができます。チャルトリスキ美術館所蔵の 『白テンを抱く貴婦人』 という油彩画で、ダ・ヴィンチのミラノ滞在時の作品とされ、「モナ・リザ」、「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」とあわせダ・ヴィンチが描いた三つの女性肖像画のひとつです。モデルとなっているのは、ミラノ公の愛人で「花のように美しい」といわれた当時16歳のチェチリア・ガッレラーニといわれ、「ダ・ヴィンチの描いた最も美しい肖像画」とも賞する人もいるほどです。またダ・ヴィンチの絵画は未完のものも多い中で、数少ない完成作品といわれています。



この油彩画を所蔵している チャルトリスキ美術館 は、チャルトリスキ家のイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人が1801年に開館したポーランド最古の美術館です。2001年には京都市美術館、2002年には横浜市美術館でチャルトリスキ・コレクション展が開催されていますので、そのときに鑑賞された方も多いかと思います。イザベラ夫人の個人コレクションが元となっているため、所蔵品の種類・年代など実に多岐にわたり、カテーナ、ルーベンスなどの作品がある一方で、ミイラなどもある変わった美術館です。

クラクフへいらしたら、ぜひともこのチャルトリスキ美術館を訪れてみてください!ダ・ヴィンチがブームの今、せっかくクラクフに来て『白テンを抱く貴婦人』を見ないで帰るのではもったいないです。しかもミラノやパリに比べまだ知名度が低いせいか、入場待ちの列もなく、『白テンを抱く貴婦人』のコーナーも混んでいません。並ばずにダ・ヴィンチの絵画を見たい人にお勧めの、穴場的スポットといえます。

チャルトリスキ美術館の場所は旧市街、フロリアンスカ門のすぐそばで、中央広場からは聖ヤン通りをまっすぐ進み、突き当たり右側の黄色い建物の一階入り口を入ったところです。美術館は三部構成になっており、時間のない人はダ・ヴィンチの絵だけ鑑賞することも可能です。


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ヴロツワフの"Hala Stulecia"(百年ホール)"が新たに世界遺産に登録される

2006年07月27日 | 観光ガイド
先日、ポーランド南部の都市ヴロツワフの、"Hala Ludowa(ハラ・ルドーヴァ)"が新たにユネスコ世界遺産に登録されました。建設当時、世界最大の円形天井を誇った建物で、"Hala Stulecia"(百年ホール)"という当時の名称での登録となります。先週リトアニアで開催されていた、第30回世界遺産委員会で正式に認定されました。

ヴロツワフはとてもきれいな街ですが、日程の都合などで、これまで日本から訪れる人がそう多くはありませんでした。今回の世界遺産認定で、今後は大手のツアーの日程に組み込まれることも多くなると思います。これでヴロツワフを訪れる人がもっと増えれば、と思います。

ポーランド国内では、他に「チェンストホーヴァのヤスナ・グーラ修道院」などが、世界遺産への登録待ちとなっています。


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クラクフ・カジミエジュ地区 ①

2006年07月06日 | 観光ガイド
カジミエジュ地区は、中世からの歴史的なユダヤ人地区で、クラクフ旧市街の南隣に位置します。ポーランド全国で唯一、第二次世界大戦で破壊されずに残った為、今日でも古いシナゴーグやユダヤ人墓地などがそのまま残されており、大変歴史的価値のある場所です。



戦後長らく放置されていた為、一時期はスラム街かと見まがうほど廃れてしまいましたが、80年代から再開発が進み、さらに1993年にスピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』が上映されると、ホテルや喫茶店、アートギャラリーなどが相次いで開設され、見違えるほどきれいになりました。現在ではすっかり「おしゃれな街」のイメージが定着しています。


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山岳リゾート地、ザコパネへ行って来ました ③

2006年06月30日 | 観光ガイド
ザコパネ滞在3日目は、グバウフカ山へ行って来ました。グバウフカ山は手軽に楽しめる観光スポットとして定番の場所で、ケーブルカーやリフトで山頂まで登ると、ザコパネ市街や、はるかタトラ山脈の岩山を見渡せます。景色のいいことも手伝って、のんびりねそべって日光浴、がポーランド人の休日スタイル。都会では日当たりの悪い家も多いことから、リゾート地では、思う存分太陽の光を楽しみます。私達もそれにならい、のんびりと日向ぼっこをしてすごしました。



ザコパネは、どちらかというと、海外からの観光客よりも、地元ポーランド人のためのリゾート地。そういうわけでか、私自身も、「海外からの観光客」として訪れた5年前に比べ、「ポーランド在住者」として訪れた今回のほうが、ザコパネを思う存分楽しめたという気がします。モルスキエ・オコしかり、グバウフカ山しかり。

そして今回、クラクフの自宅から出かけてみて、その近さも魅力の一つなのだと気付きました。自宅からわずか2時間でリゾート地へいけるなんて、とても贅沢ではありませんか?(東京に住んでいた頃は、多摩地区にある自宅から成田空港まで、すでに3時間かかったことを思い出します。) 


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山岳リゾート地、ザコパネへ行って来ました ②

2006年06月28日 | 観光ガイド
ザコパネ滞在2日目は「モルスキェ・オコ(Morskie Oko)」という名の青緑色の湖を見に、タトラ自然公園へ出かけました。

モルスキェ・オコは、平原の国ポーランド において、数少ない山岳リゾート地の一つです。タトラ自然公園へはザコパネからミニバスで約30分。そして自然公園の入り口からさらに岩山の中の道を歩くこと2時間20分、急に視界が開けると、青緑色の湖が目の前に広がります。



モルスキェ・オコ(Morskie Oko)とは、ポーランド語で「海の瞳」という意味。ポーランド人には、きれいな青い色=「スラブ民族のきれいな青い瞳」のイメージがあるのですが、モルスキエ・オコも、その湖水の色が、まるで青い瞳のように美しいことから、「海(色)の瞳」の名前がついたようです。しかしもちろん、湖水の色は実際には青一色ではなく、季節・天候・水深などによって、青色や緑色、エメラルドグリーンなど、さまざまな表情をみせます。そしてそれがまた、モルスキエ・オコの魅力の一つでもあります。

そんなわけで、ポーランド人は、タトラ山脈やモルスキエ・オコが大好き。ザコパネにきたら必ず訪れる場所となっています。

とはいえ平原の国のポーランド人に大人気のモルスキエ・オコも、実は日本人からすると、よくある高原の湖といった感じなんです。(モルスキエ・オコを訪れた複数の日本人談)ご多分にもれず私も、5年前に(まだ日本に住んでいた頃)旅行でザコパネとモルスキエ・オコを訪ねたときは、「こんなものか。ずいぶんと小さいな」というのが正直な感想でした。しかし二度目の今回は、逆に「なんてすばらしい!」と素直に感動してしまいました。平原の国に3年住んで、思考回路もポーランド人と似てきたのでしょうか? 


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山岳リゾート地、ザコパネへ行って来ました ①

2006年06月27日 | 観光ガイド
6月の聖体節の連休を利用して、二泊三日で、ザコパネに遊びに行って来ました。聖体節の祝日は必ず木曜日にあたるため、金曜日に休みを取ると、木・金・土・日の四連休になります。あまりお天気があまりよくない日が続いていたので心配でしたが、連休中はなんとか晴れになりそうとわかったところで、急いで旅支度。宿もあわてて予約し、とるものもとりあえず、といった感じで出かけました。

ザコパネは、平らな国ポーランドにおける数少ない山岳リゾート地。夏は登山、冬はスキーと一年中大勢の観光客が訪れる行楽地です。私がザコパネを訪れるのは、今回が二度目。前回は5年前に一度、まだ日本に住んでいた頃に、観光でクラクフとザコパネを訪れています。



ザコパネの街の見所は、クルプフキ通り・コシチェルナ通り・コシチューシコ通りの近辺に大体集中しています。とくにメインストリートのクルプフキ通りは、一年中所狭しと屋台がならび、手作りの民芸品や野菜や果物、チーズなどが売られていて、ただ散策するだけでも、とても楽しめる場所です。

通りを歩いてお土産物屋を眺めたり、民族音楽を聴きながら屋台でビールを飲んだり。そんなこんなで街をぶらぶらしているうちに、初日の夜は暮れていきました。


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クラクフ・ヴァヴェル城

2006年06月12日 | 観光ガイド

クラクフの王宮、ヴァヴェル城は、ポーランドを代表する歴史遺産です。ポーランド語で『Zamek Krolewski na Wawelu~ヴァヴェルの上の王宮』と呼ばれているように、ヴィスワ川を背に、ヴァヴェルの丘の上に建っています。

ヴァヴェル城の歴史は10世紀にまでさかのぼります。1320年にクラクフがポーランドの首都となると、国の政治をつかさどる王宮として、また文化の中心地として栄えました。



王宮はゴシック様式にて建設され、その後16世紀初頭にジグムント王によってルネッサンス様式に大改築されました。王室は全部で71室あり、3階建ての外付きアーケード式回廊が、中庭をぐるりと取り囲んでいます。この王宮の中庭の一角に、壁際にそって人が並んで立っている場所があります。チャクラムとよばれるその場所に立って瞑想していると、不思議なパワーが沸いてくる、とい言い伝えがあるそうです。

城内にはちょっとしたカフェやレストラン、ホテルなどもあり、のんびりとした時間を過ごすには、まさに最適の場所。観光客や小中学生の遠足のグループの他、地元の人も沢山来ています。




16世紀末、国土の東方への拡大に伴って、ポーランドの首都はクラクフからワルシャワに移転されました。しかし今でもクラクフの人は「政治的な首都はワルシャワだけれど、文化の首都はクラクフ」と自分達の街にとても誇りを持っています。


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