北海道の身近な風景

北海道内の身近な自然の風景。

伊達市にある北黄金貝塚遺跡公園:10月24日2018

2018-10-25 09:47:30 | 歴史写真

国道37号線を室蘭から伊達方面へ

向かっていると、室蘭市と伊達市の

市境界を伊達に越えてすぐのあたりで

北黄金貝塚公園の立て看板があり

何度か小路に入ってみたことが

あったが、場所がわからずに戻って

来ていた。

昨日は小路に入ってすぐに、右側への

案内板があったので、指示通りに

入っていくと駐車場がありました。

なんだ、こんなに国道から近く

だったんだ。

今までは小路に入って左側の奥との

思い込みで地図を確認もせずに探していたので

みつからなかった。

資料館(入場無料)の展示内容が非常に充実しており

1万数千年続いた縄文の様子が良くわかります。

縄文好きの人には非常におすすめの遺跡公園です。

(PCでは写真をクリックすると2段階で拡大します)

行くときの登別市冨浦漁港。

かなり波が高く荒れていました。

 

大きな看板あってすぐにわかります。

 

遊歩道を進んで行きます。

 

縄文住居が見えてきます。

 

資料館が見えてきました。

窓には「世界遺産へ一歩近づきました」。

 

入ると大きな貝塚断面の展示。

ここは貝塚に発掘現場ではなく

発掘された貝塚を切り取ってそのまま

展示したものです。

右の穴は発掘された人骨の埋葬のレプリカ。

写真は上図の③大人②貝輪の男性①おばあちゃんの順。

これは本物ではなくレプリカ模型です。

本物は札幌の大学で調査中とのこと。

ほほう、なるほど。

 

縄文人の顔予想。

ちょいと誇張しすぎかな。

夢が膨らむ想像図が楽しいです。

 

従来はアイヌ人と縄文人は別人種と

されていたのにようやく、真実が

語られるようになってきました。

 

本物の縄文土器の復元品。

自由に触ってみることができます。

なんと6000千年も前の工芸品です。

 

くし。

ミニ土偶。

上部の目のような突起は

片側だけ。

 

出土品。

 

縄文なべは美味しそう。

 

噴火湾は一大縄文文化圏だったのです。

 

東北と北海道17の遺跡で世界遺産登録を

目指しているとのこと。

 

再現された縄文住宅。

中に入って見れるのが楽しい。

 

住宅内部の様子。

 

実際の発掘現場は小山の上にあります。

これはホタテの貝殻や鹿角をまいて

雰囲気を出しているのもののようです。

 

発掘現場からの資料館。

となりは屋外イベント会場のようです。

 

近くの噴火湾海岸。

この海の幸で何万年も暮らしている北海道人。

現代人はサケ釣りです。

 

北黄金付近の漁村。

後ろの山は有珠山です。

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白老仙台藩陣屋跡(続き):6月21日2014

2014-06-22 07:34:16 | 歴史写真

(カメラ:LumixGF2+LumixG14mmF2.5)写真クリックで拡大

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陣屋は二重になっていて、外曲輪(そとくるわ)と内曲輪(うちくるわ)と言い、最初の門を

くぐったところが、外曲輪で、この四番長屋跡は外曲輪内にある。二番から五番まで長屋

跡があったが、一番がなかった。資料館で聞いてみないと不明です。

武士の家族はこちらの外曲輪内で暮らし、内曲輪内にある本陣や勘定所などに通勤して

いたんですね。ある意味現代の役所や学校なども同じようなものです。

 

ここの門から内曲輪(うちくるわ)に入るのですが、こちらには土塁の他にお堀も造られて

いて、より警備は厳重です。

 

内曲輪の入り口の門から本陣のある内曲輪をみたところ。

ふわっと明るく開けていて、外曲輪よりもいい感じ。

 

ここが内曲輪内にある本陣跡。くいが打ってところが柱のようなのでかなり広い。

 

内曲輪内に案内版があった。本陣の大きさは二棟建っていて、両方あわせて29m×

18mくらいとのことなので、結構大きな建物。

 

勘定所が本陣とは別棟になっている。会計員の武士はこちらに通勤していたんですね。

真田広之と宮沢りえが出てた山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」の勘定役人下級武士

たちを連想させます。

 

この漢字、難しいですが、調べたら厩(うまや)と同じ意味でした。要するに馬小屋。

本陣のすぐ脇に位置し、馬が重要な交通手段だったことがわかります。

いまなら黒塗りの公用車駐車場ですね。

 

厩あたりから内曲輪の入り口門をみたところ。木の前のくいは本陣跡です。

 

本陣前の大木。ひょっとしたら当時からあって、仙台藩士たちを見守っていたかも。

 

本陣の左側に位置する武器庫跡。当時は既に火縄中ではなく火打石式のゲベール銃が

主力になっていたようです。幕府側も長州征伐頃からはライフリング(銃身内のぐるぐる

螺旋)の入った新式のミニエー銃を使っていたが、薩摩、長州等の新政府軍はさらに

最新の連発式スペンサー銃(アメリカ製、南北戦争で使われた)を大量に買い入れ、

幕府軍を圧倒したようです。幕府側は伝習隊くらいしか使っていなかったようで、装備の

近代化が遅れた。

今も昔も内乱では双方に武器を売って兵器産業や商社は儲けているのです。

内乱をけしかけたり工作したりもかなりやっているようなので、最近の中東情勢

アフリカ情勢なども無関係ではないのです。

日本も武器商人の仲間入りをしようと画策していますが、使い方は買ったほうの

自由とは言え、紛争に手を貸して、一般市民の犠牲を増やすことになる

商売は良い商売とは言えません。

 

この兵器庫にはその他、槍や大砲も入っていたのかも知れません。

 

この内曲輪内は、とても心地よく、敷物ひろげてピクニックしたり、寝転んで

昼寝したりしたくなる、天気がよかったせいもありますがパワースポットにも

通じる気があふれているように感じました。また行きたくなります。

ひょっとしたら風水なども考慮して設計されているのかも。

 

 

 

これは内曲輪を出てきたところで気付いた、おそらく当時よりあったのではないかと

思われる松の巨木。倒れそうなので補強して支えてあります。

 

外曲輪の端のほうにあった稽古場跡。道場があって剣術訓練などをしたのか遺構が

ないので外の稽古場だったのかも。松の巨木は稽古をみていたかも。

 

外曲輪の入り口の門まで戻ってきました。

当時の人たちがタイムスリップし現代に来たら、巨大な鉄塔や空を飛んでる飛行機、

建設現場の大きな重機の音、なにより道路を突っ走るクルマにびっくりするでしょうね!

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ポロト湖・白老仙台藩陣屋跡:6月21日2014

2014-06-21 22:11:14 | 歴史写真

バイク(Buell)で、苫小牧経由で白老⇒大滝村⇒支笏湖と回ってきました。

仙台藩陣屋跡をぐるっと歩きましたが、バイク用ブーツで足が疲れた。

(カメラ:LumixGF2+LumixG14mmF2.5)写真クリックで拡大

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ポロト湖畔、きもちいい!

 

向こう岸に見えるのは観光に復元されたアイヌ家屋。

北海道の自然とよくマッチしています。

 

仙台藩の陣屋があった場所が、史跡となっています。

ポロト湖から車で10分くらい。

 

かなり広い。

火薬庫跡とあるのに注目。チャンバラのイメージではない。

いつ頃造られた物か?

よく見えないので拡大、補正。

1856年に作られたもので、まさに幕末、1953年ペリーが浦賀に来て開国させられてから

たった3年後に造られた、いわば蝦夷地の軍事基地の拠点だったのですね。

 

ここに記されている、諸藩、奥羽諸藩は土方と榎本が薩長のクーデター軍に恭順しないように

説得して回り、のちに賊軍とされた諸藩です。

会津藩は京都守護職で京都の治安維持にあたり新撰組も加わって、長州、薩摩のテロリスト

取締りを行っていたことで有名ですが、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、

特に薩摩藩の乱暴狼藉を取り締まり、フランスの幕府軍事顧問ジュール・ブリュネの指導のもと

大砲をぶち込んで薩摩藩の江戸藩邸を焼き払った「薩摩江戸藩邸の焼き討ち」までやり、薩長

と対立したために「朝敵」(天皇やお公家さんらの朝廷に逆らった悪者)ととして新政府からの

攻撃対象とされて薩長のクーデター軍と戦ったことはあまり一般的に知られていないようです。

 

36歳でとても健康だった孝明天皇が突然死亡して、岩倉と薩長が手を組んだ辺りから

歴史は急展開していきます。不穏な空気が日本中に流れ始めていたにも関わらず

東北の諸藩はこのように律儀に北方ロシアの脅威から蝦夷地を守るための軍を

派遣していたのですね。「1868年の戊辰戦争の勃発によって撤収」というのが

非常におもしろい。たった12年で蝦夷軍事基地は日本国の内乱のために解散と

なってしまったということです。

 歴史の真実は明治「維新」や「今一度日本を洗濯致し候」などの坂本竜馬伝説の

イメージとは違って、新式小銃の大量輸入を目論む武器商人の暗躍や権力争い

などのどろどろした陰謀に後押しされたものだったのでしょう。この後、日本は破壊

と殺戮に満ちた暗黒の時代へと舵を切っていったのはまぎれもない事実です。

長州出身の総理はそれを美化して「明治憲法」を復活させたい精神の持ち主のよう

だし、国民も「日本軍は欧米の植民地支配からアジアの国々を救い出したのだから

侵略戦争ではなかった」、「自虐史観に洗脳されている」などのもっともらしい話にすっかり

騙されているが、太平洋戦争での日本人だけでも死者数は300万人以上もいることは

事実で、今でも若い人でも、お祖父ちゃんやその兄弟、親戚の叔父さんなどなど

親類の誰か彼かは戦死しているのです。自国民がこんなに犠牲になってまで

アジアを欧米列強から救い出すなんて、まるでバカのすることです。

明治以降、専守防衛に徹して軍備の拡張をしていればこんな悲惨な結果にはなって

いなかったはずです。

 

陣屋入り口の門の横には高い土塁が築かれていて、アイヌのチャシのよう。

 

ここから基地に入ります。

 

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