一年前に撮った動画を見ていたら泣けてきた。
2004年10月24日
余震が数分ごとにくるので家に帰るのをあきらめた私たちは翌日も車中泊をすることに決めた。
幸い晴れていたが、夜は冷えた。
車の中でらくらくと暖をとりたい。
ガソリンを求めて信号の消えている町を走り回った。
どこもアウト。
平成ではマンホールにつきあげられた車両。
そこらじゅうで救急車や災害支援のジープとすれちがう。
市役所はマスコミの中継車やタクシーで大混雑。
すみっこで自衛隊員(たぶん高田駐屯地)が市の職員か誰かと打ち合わせをしている。
子供が「なに~?あれ」と言っている。
はじめて自衛隊を見て珍しかったようだ。
消防署脇には各地からたくさんの消防車が集まっていた。
そして原信 ジャスコを見てがくぜんとする。
コメリ前には電線につっこんだ車両。
コメリにポリタンクを買いに行くが売り切れ。
長岡に行こうと決意。
千谷の交差点で災害支援の車両が5-6台連続で通る。
また子供に「なんであんなのが走ってるの?」と聞かれる。
飲み物を買いだめしている自転車とすれちがう。
千谷の三洋前の道がガタガタ。
瓦がふっとんでいる家。
ベイシアもガラスが割れている。
のんきに音楽を流しているラジオ。
情報が、ガソリンが、今日子供たちに飲ませるお茶が欲しかった。
------------------------------------
一年経った。
もうだいぶ忘れている。
忘れちゃいけない。
たくさんの人が駆けつけて助けてくれたこと。
してもらって当たり前、じゃなくて。
この恩を返さなければいけない。
人に「忘れないで」という前に
被災者である私たちが忘れてはいけないのだ。
伝えなければ伝わらないのだ。
2004年10月24日
余震が数分ごとにくるので家に帰るのをあきらめた私たちは翌日も車中泊をすることに決めた。
幸い晴れていたが、夜は冷えた。
車の中でらくらくと暖をとりたい。
ガソリンを求めて信号の消えている町を走り回った。
どこもアウト。
平成ではマンホールにつきあげられた車両。
そこらじゅうで救急車や災害支援のジープとすれちがう。
市役所はマスコミの中継車やタクシーで大混雑。
すみっこで自衛隊員(たぶん高田駐屯地)が市の職員か誰かと打ち合わせをしている。
子供が「なに~?あれ」と言っている。
はじめて自衛隊を見て珍しかったようだ。
消防署脇には各地からたくさんの消防車が集まっていた。
そして原信 ジャスコを見てがくぜんとする。
コメリ前には電線につっこんだ車両。
コメリにポリタンクを買いに行くが売り切れ。
長岡に行こうと決意。
千谷の交差点で災害支援の車両が5-6台連続で通る。
また子供に「なんであんなのが走ってるの?」と聞かれる。
飲み物を買いだめしている自転車とすれちがう。
千谷の三洋前の道がガタガタ。
瓦がふっとんでいる家。
ベイシアもガラスが割れている。
のんきに音楽を流しているラジオ。
情報が、ガソリンが、今日子供たちに飲ませるお茶が欲しかった。
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一年経った。
もうだいぶ忘れている。
忘れちゃいけない。
たくさんの人が駆けつけて助けてくれたこと。
してもらって当たり前、じゃなくて。
この恩を返さなければいけない。
人に「忘れないで」という前に
被災者である私たちが忘れてはいけないのだ。
伝えなければ伝わらないのだ。
自宅は住める状態でなくなるほど痛めつけられ、自宅近くの施設の寮、仮設と移ること約1年、やっと誰にも気兼ねなく暮らせる家が出来たと喜んでた。
地震から5日目、「やってるろっか?」と電話をもらったが、道路事情が悪いからと往診に出掛ける事10日間。
初日に伺った時、途中で見てきた患者さんの家の無残な状態を見て来ただけに掛ける言葉が見つからなかった。「大変でしたの」がやっとだった。
診させてもらった体も心身共に参っていた様子が伺えた。
仮設に移ってからも通院していただいたが、仮設での暮らしは高齢者にはキツイ事は体が正直に訴えてくれていた。
地震からほぼ1年、「めでた普請じゃねぇどもそ、やっぱウチが出来ると張り合ぇが出るの。」と語ってくれ、「あんどきオメさんから来てもらわんばオラどんげなってたか分からんて」とも言ってくれた。
何よりも嬉しい言葉だった。
がんばろうおぢや。
そんな話を聞きながら,別のお宅を伺うと,なんと,もう結露!
特に,千谷のユニット型(ヨドコウの○○みたいなの)は大変
だと分かりました.
そんな仮設ではありますが,長岡でも小千谷でも新たに仮設に入る,
入ったという話を聞きました.
未だ未だ忘れられて欲しくない.
大変な思いをしている人々が1万人近くもいる.
豪雪にならなくても,どんよりと冷たい中越の冬には,
暖かいサポートが再び求められる,
そう思います.
忘れかけられている。震災で傷つき
やっと少しずつ復興している事
仮設に入り
どうやって良いのか分からない人たち
小千谷市内の業者の苦悩
さまざま
まだまだぜんぜん解決していない
そんな現実をみんなで訴えるしかないと
思います。
感情は入りすぎているかも知れないけど
ブログは生の声だからさ
そうでしたそうでした。(←思い出している)
震災直後に自分を支えてくれた人のことは一生忘れないと思います。
うれしいですよね。そういってもらえると。
私はこのブログを10年後に読みたいです。
確かな記録として。
みなさんが支えてくれた証ですから。
そうだ!このブログをそのまんまタイムカプセルにしちゃおかな。
なんてね。
■木村さん
活動お疲れさまです。
住民から「灼熱地獄」というのは聞いていました。
一方、「住めてるだけでありがたいと思わないと」という声も聞かれました。
雪国の人の我慢強さが身にしみてきました。
結露は私んちでも発生するけどw天井からぽたぽたは絶対だめ。
ストレスってみえにくいですからね。
まだまだ考えていかなければならない問題ですよね。
■ユウさん
そうですね。
後で読み返すとなおしたくなるエントリーもありますが、
でもそのときそのときに思ったことだからいいのかな、って。
自分のバイオリズムみたいなものもわかるので、感情の入ったブログもいいもんです(^_^;)
一年を通して考えをあらためたことなどもあります。
23日までに書きたいと思います。
無理しないでがんばりましょうね。