いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

山形県米沢市 松川弁当店 上杉神社・稽照殿 上杉記念館旧上杉伯爵邸 上杉博物館

2024年09月22日 12時09分16秒 | 山形県

松川弁当店駅前店。山形県米沢市駅前。

2024年9月6日(金)。

米沢市郊外の伊達政宗公生誕地・舘山城跡で警察の助けを借りて熊から逃げてきた興奮した気持ちのまま、12時直前に松川弁当店横の駐車場に駆け込んだ。

松川弁当店は、「米沢駅」から徒歩5分に位置する弁当屋。明治32年(1899)の奥羽本線開通と同時に創業して以来、鉄道とともに歴史を歩んできた老舗である。米沢牛を使った弁当を中心に販売している。

「るるぶ」「マップル」に掲載されていたので、たまには贅沢な牛肉弁当をと楽しみにしていた。

牛肉弁当も松・竹・梅のように高いものは1980円からあるが、一番安い1380円の牛肉弁当を購入した。調製のため数分待たされたのち、駐車場の車内で食べた。

松が岬公園案内図。

松川弁当店から旧米沢城本丸跡にある上杉神社方面に向かった。工事中の道路を抜けると広大な無料駐車場があり、観光客にやさしい。

濠に囲まれた本丸跡に上杉神社と博物館施設の上杉神社稽照殿、その南に上杉記念館(旧上杉伯爵邸)、南東に伝国の杜(米沢市上杉博物館など)があり、徒歩圏内である。

まず、濠を渡って上杉神社へ向かうと、旧上杉伯爵邸が対岸に見えた。

上杉神社。拝殿。米沢市丸の内。

主祭神は上杉謙信。上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。明治9年(1876年)現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、大正12年(1923年)、米沢市出身の伊東忠太の設計により、現在の本殿と宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」が再建された。

上杉神社稽照殿(けいしょうでん)。

1923年鉄筋コンクリート造2階建,銅板葺。

上杉神社再興時に建築された宝物殿で,設計は伊東忠太の手になると伝える。鉄筋コンクリート造で和風の外観を比較的忠実に再現しており,全体を2層の銅板葺きとし,2階には高欄を廻す。数多くの上杉家由来の品を納める宝物殿として親しまれている。

初代米沢藩主景勝、直江兼続、九代藩主鷹山の遺品である絵画、書跡、古文書、刀剣、甲冑、武具、仏器、陶漆器、服飾類等多種多様な遺物を収蔵している。

【重要文化財】茶地竹雀丸文綾片身替胴服、【重要文化財】絹本著色阿弥陀三蔵像、【重要文化財】長巻 無銘伝 片山一文字。【山形県指定文化財】紫糸威伊予札五枚胴具足 上杉景勝所用、本小札浅葱糸素懸威胴丸具足 上杉謙信所用、琵琶 銘 朝嵐など多数展示しているが、撮影禁止である。

稽照殿の設計者である伊東忠太は文化勲章を受章した米沢市出身の建築家で、明治から昭和時代多くの寺社建築を手がけた。稽照殿は神殿と調和を保つ日本風の外観をみせた重層建築で、平成10年に登録有形文化財に認定された。

特別展では、明国箚付(みんこくさっぷ) 上杉景勝宛(1幅)、明冠服類(みんかんぷくるい)(文禄五年上杉景勝受贈)(紗帽(展角付)、犀角帯、大紅刻糸胸背斗牛円領、緑貼裏、靴)

が展示されていたので、驚いた。豊臣秀吉の朝鮮侵攻のさい、文禄の役後に、明との外交交渉のなかで、明は冊封体制下に入らせるため、秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5年(1596年)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見して激怒し、慶長の役が始まる。その冊封の印として秀吉麾下の諸将に配布された明の官服類であり、わずかな例しか残っていないという。

上杉記念館(旧上杉伯爵邸)。米沢市松が岬。

銅板葺きで一部二階建ての柱や長押には木曽檜を用い、玄関と門は総欅造りである。

見学は無料。食事もできる。

玄関。丸に九枚笹に対い雀を描く上杉笹(うえすぎざさ)の家紋。

勧修寺笹(かじゅうじざさ)は、藤原北家勧修寺流の一族が使用する竹輪に九枚笹に三羽の飛び雀を描く図案で、藤原北家良門流(勧修寺流)の勧修寺重房を祖とする上杉家も同様に竹に雀紋を使用する

上杉伯爵邸は、明治29年、上杉茂憲伯爵(上杉氏十四代・最後の米沢藩主)の本宅として造営された。敷地は約5,000坪(16,530平方メートル)、建坪は530坪と壮大な大邸宅で、建設には3万7739円という巨費をかけた。この新邸は鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた。建設の総指揮および設計は、茂憲側近の池田成章が担当し、当時、東京帝国大学の講師であった伊東忠太の意見を参考にした。

ところが、大正8年5月19日の大火で類焼し灰燼に帰した。茂憲が4月18日に東京の本郷邸で逝去した約1ヵ月後のことで、伯爵を継いだ上杉憲章は、おもに東京で生活したことから、当初は米沢の本邸再建は見合わされた。しかし、大正10年になって再建が計画され、翌11年7月に着工、市民の手伝いで胴突(てんつき)が行われた。同年末には事務所・応接室・上段・書斎などが完成し、翌12年には世子部屋(お子様部屋)・台所などを建て、門・土蔵などすべての建物が完成したのは大正13年で、翌14年5月に落成の祝宴が開かれた。

これが現在の上杉記念館である。建坪は285坪(940平方メートル)と焼失前の約半分となったが、銅板葺で一部二階建、柱や長押には木曽檜を用い、玄関・門は総欅造りと、落ち着いた中に気品がただよう純日本風の邸宅となった。

庭園は東京の浜離宮庭園を模して造園したものである。

設計者は中條(ちゅうじょう)精一郎である。中條は米沢藩士中條政恒(安積開拓に功績)の長男で、東京帝国大学工科大学で建築を学び、また上杉憲章に随行して英国に留学、ケンブリッジ大学で建築学を修めた。その後、曽禰達蔵(そねたつぞう)と建設事務所を設立し、慶応義塾大学図書館や東京海上ビルなど数多くの設計を担当した。旧山形県庁も中条の作品である。長女は、作家の宮本百合子。施行は上杉家出入りの江部栄蔵。

上杉伯爵邸は、第2次大戦後、米沢に進駐した米軍将校の宿舎に使用されたが、昭和25年に接収が解除、米沢市が上杉家より譲り受け、翌26年から昭和50年まで、中央公民館として市民に利用された。

昭和54年からは、市内観光の中核施設「上杉記念館」として、観光客や市民に開放されている。

上杉記念館大広間・玄関棟の外観は延びのある入母屋屋根と庇の間に真壁を見せる清廉な意匠とする。

客間棟は、洗練された巧みな大工技術を用いた質の高い建物である。全体に立ちが高く、側廻りの廊下及び1、2階の側廻りに設けた欄間が外観意匠を特徴づける。

仏間棟は、客間棟の西に接続して建つ宝形造りの建物である。6畳の間の背後に花唐窓風の縁取り壁を配した仏壇を設ける。簡素な建物ながら洗練された意匠になる質の高い純和様の建物である。

子供室や使用人室との重なりが重厚感と軽快感をあわせもつ。

米沢市上杉博物館。米沢市丸の内。

天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来した狩野永徳筆の国宝上杉本洛中洛外図屏風がメインの展示。ほとんどは撮影禁止。

豊臣秀吉から上杉景勝への朱印状。

武田勝頼から上杉景勝への書状。

足利義輝から上杉謙信への書状。

1990年代後半に旧博物館を見学したときは、上杉鷹山(上杉治憲)の書状に見える歌「なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり」が心に残る博物館であったが、その面影はなかった。

上杉鷹山の師である尾張藩校・明倫堂の督学(学長)細井平洲への言及も少ない。

 

このあと、直江兼続の墓所がある林泉寺、旧米沢高等工業学校へ向かった。

山形県米沢市 舘山城跡 熊と伊達政宗に会える城



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。