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60年代の名曲 シーカーズ  ジョージーガール/Georgy Girl

2024年06月16日 19時19分04秒 | 音楽

シーカーズ  The Seekers  「ジョージーガール Georgy Girl」。1966年。

作曲はトム・スプリングフィールドで、同名映画のテーマ曲として作られた。少女を励ます歌。

1966年10月に発売され、1967年初めにかけてヒットした。アメリカでもキャッシュボックスでは1位となったが、ビルボードではモンキーズの「I'm a Believer」に阻まれて2位にとどまったというので、1967年1月のことらしい。

シーカーズ (The Seekers) は、1962年にオーストラリア・メルボルンで結成されたフォーク調ポップ・コーラス・グループ。

英米で初めて人気を得たオーストラリア出身のグループ。男性3人組であったが、1963年に紅一点の女性ボーカル Judith Durham ジュディス・ダラム(1943年~)が加入後、イギリスに渡って活躍し、1967年に「ジョージー・ガール」をヒットさせた。1968年7月にジュディス・ダラムがソロ活動のため脱退して解散。その後、同じメンバーで再結成を繰り返し、現在に至る。

シーカーズの魅力はジュディス・ダラムの声質で、馥郁として爽やか、癒し力が素晴らしい。

3人の男性はメルボルンの同じ高校出身で、1950年代末に前身となるドゥワップ・グループを結成した。その後はフォークを指向して1962年にシーカーズと改名し、ジャズシンガーであったジュディス・ダラムが加入した。

ジュディス・ダラムはメルボルン近郊に生まれた。音楽の資格を得るためにメルボルン大学付属音楽学校でクラシックのピアノと声楽を学ぶつもりであったが、同時にブルース・ゴスペル・ジャズにも関心をもち、1963年、メルボルン大学のジャズバンドでボーカルを担当することになり、レコードを録音した。

ほぼ同じ時期、広告会社の秘書として勤務した初日に、会社幹部だったシーカーズのメンバーと出会い、ボーカルを担当することになり、1963年11月にレコードデビューした。

1964年3月、英国航路旅客船でのエンタテイナーとして契約したシーカーズは乗船し、10週間後に帰国する予定だったが、ロンドンにとどまってテレビに出演していたとき、トム・スプリングフィールド(60年代の人気女性歌手ダスティ・スプリングフィールドの兄)と知り合い、彼のプロデュースで彼が作詞作曲した「I'll Never Find Another You 恋はたったひとつ」を11月にEMIのアビーロード・スタジオで録音した。12月に発売したところヒットし、1965年にはイギリスとオーストラリアで1位、アメリカで4位と成功を収めた。

1965年には「The Carnival  Is Over」もヒットして、ラジオやテレビで人気を得た。

1966年には、サイモン・アンド・ガーガンクル結成以前にイギリスでソロキャリアを積んでいたポール・サイモンの楽曲「Someday One Day」をヒットさせている。

1966年初めに、オーストラリアへ一時帰国したが、その後もイギリスで活動を重ねた。

Morningtown Ride」(1964年に録音)を再録音して発売。英2位。

1966年12月「Georgy Girl」発売。

1967年3月帰国。メルボルンでの帰国公演20万人の観客数は南半球最大のギネス記録という。

1968年2月ジュディスは脱退をメンバーに告げ、7月にグループは解散コンサートを開催した。

1968年11月発売のベスト盤「The Best of The Seekers」はイギリスでビートルズのホワイトアルバムを押しのけて1位となり、ローリングストーンズの「ベガーズ・バンケット」が1位となることを阻んだ。

 

ジュディス・ダラムは1970年代はジャズを中心にソロ活動やテレビに出演した。

メンバーのキース・ポトガーは1969年にニュー・シーカーズを結成し、1970年代に「I'd Like to Teach the World to Sing」などをヒットさせた。

1975年から再結成を繰り返し。1992年からオリジナルメンバーで再結成。

ジュディス・ダラムは同時にソロでの音楽活動を続けている。ジュディスは1969年に結婚した夫とともに1990年に交通事故で重傷を負った。ファンからの励ましが1992年の復帰につながったが、夫は事故がもとで1994年に亡くなった。2013年に脳内出血し、読み書き能力にダメージを負ったが歌唱力は回復した。

「Morningtown Ride  朝の街に陽が昇る」

アメリカの女性フォーク・シンガーソングライターのマルビナ・レイノルズMalvina Reynolds(1900~1978年)が1957年に作った子守唄。

「The Carnival Is Over」。

ロシア民謡のメロディーにトム・スプリングフィールドが詞をつけた。

 

「ジョージーガール」GEORGY GIRLと「MORNING TOWN RIDE]の2曲は、カセットテープで永いこと聴いていた。1967年春ごろから洋楽を熱心に聴きだしたが、「ジョージーガール」は「I'm a Believer」と同じく、ラジオでよく流れていた。中学校のクラスでも評判になるぐらいに好まれた曲だった。

ビージーズより前の私が知っている最初のオーストラリア出身のグループである。「恋はたったひとつ」は知らない。

1970年代なかば、ラジオでシーカーズ特集があり10曲弱録音したうち4曲カセットテープに採用した。

アメリカでは1950年代末からフォークが流行した。女性ボーカルを含んだグループであるピーター・ポール&マリーは1961年に結成され、1962年に「レモン・トゥリー」でデビューした。ジョーン・バエズと比較するとポップであり、さらにポップであったのがシーカーズであった。


60年代の名曲 ジュディ・コリンズ 青春の光と影/both sides now

2024年06月16日 18時29分09秒 | 音楽

ジュディ・コリンズ Judy Collins 青春の光と影 both sides now 

「青春の光と影」(Both Sides, Now)は、シンガーソングライターのジョニ・ミッチェルが作詞作曲した楽曲。ジュディ・コリンズによって最初にレコーディングされ、以後多くのミュージシャンにカバーされた。

1967年3月、ミッチェルは飛行機の中で「青春の光と影」を書き上げた。「I've looked at clouds from both sides now」という歌詞はソール・ベローの小説「雨の王ヘンダソン(Henderson the Rain King)』(1959年)からインスパイアされた。彼女は次のように述べている。

「私は飛行機でソール・ベローの『雨の王ヘンダソン』を読んでいた。本の初めで雨の王ヘンダソンもちょうど飛行機に乗っていた。彼はアフリカに向かう途中で、下に広がる雲を眺めていた。私は本を置き、同じように窓の外の雲を見た。それからすぐさま曲を書き始めた。」

ただし、1966年11月17日のジョニ・ミッチェルのライブでこの曲がラジオ放送されているので、実際にはこれ以前に完成していたとみられる。

 

1967年10月発売のジュディ・コリンズのアルバム「Wildflowers」に初めて収録された。その1年後の1968年10月にシングルカットされ、コリンズのバージョンは12月21日付のビルボードで8位を記録した。彼女のバージョンは1969年2月公開のアメリカ映画『Changes』(邦題:青春の光と影)に使用された。

ジョニ・ミッチェルは、ジュディ・コリンズのバージョンを嫌っていた。

 

ジュディ・コリンズは1939年ワシントン州シアトル生まれ。

ロサンゼルスとデンヴァーで幼少期を過ごす。ポピュラー音楽に接しながらもクラシック・ピアノやミュージカルの教育を受けるなど、多彩な音楽を体験する。学生時代に教会での演奏活動を通じ、トラディショナル・ミュージックに触れ、フォークに目覚め、フォーク・ソングに没頭するようになる。

20歳で、コロラドのパブで演奏活動を始め、ニューヨークのクラブに辿りつき、グリニッジ・ヴィレッジで活動する。22歳で自らエレクトラ・レコードに売り込み、新しいフォークの流れも取り入れたトラディショナル・ソングをメインにしたファースト・アルバムをリリースした。

ジュディはレナード・コーエンの歌を最初にカヴァーしたシンガーであり、レナードの現代的な歌詞とジュディの美しい声のコントラストは最高のマッチングといわれた。

また、ジョニ・ミッチェルがまだどのレコード会社とも契約がない時に彼女の才能を見抜き、1967年発表の「ワイルドフラワー」で彼女の作品を2曲収録。うちの1曲が「青春の光と影」であり、ジュディにとってもジョニにとっても初めてのトップ10ヒットとなった。

以降、スティーヴン・スティルス、ライ・クーダーを始め、様々なアーティストと交流を持ち自らの世界を完成させて行く。

クリントン元大統領の娘の名前「チェルシー」は、ジョニ・ミッチェルの楽曲「チェルシーの朝」をカバーしたジュディ・コリンズが1969年4月にリリースしたシングルバージョンをクリントン夫婦がロンドンのチェルシー地区を散策しているときに聴いて命名したという。

クロスビー・スティルス・&ナッシュの「青い瞳のジュディ」は、当時スティブン・スティルスの恋人だった彼女をモデルにした曲というのは有名な話らしい。

 

日本でヒットしたのは、1968年12月ないし1969年春ごろであろう。ラジオを聞いていた音楽好きの青少年から好まれた曲で、1970年代に発行されたポップスの歌集にはたいてい収録されていた。

ジョニ・ミッチェルを知るきっかけとなった。


80年代の名曲 リビングカラー LIVING COLOUR CULT OF PERSONALITY

2024年06月16日 17時53分16秒 | 音楽

LIVING COLOUR CULT OF PERSONALITY 1988年

リビングカラー LIVING COLOUR は88年の1st「VIVID]で人気を得た。ヴァーノン・リードの超バカテクのギターにより、黒いレッドツェッぺリンとよばれた。次第にパンク色を強め全3作発表後解散、01年に再結成。

私はMTVでPV「CULT OF PERSONALITY」を見てすごい迫力に圧倒された。新しいハードロックの始まりを感じた。一時期は日本でも人気があり、来日公演で名古屋に来て、クラブクアトロでライブがあり、当時のチケットがでてきたので、見にいったようだが、印象に薄い。

1stの時期しか知らないのだが忘れがたいバンドだった。検索すると2作目以降も聞いてる人も出てはくるが、日本では無名に近い。

 you tubeを見るとさすがにアメリカでは人気が高い。89年、93年の映像は自然賛美的な内容。04のライブは確かにレゲエ、パンク風でブッシュの批判がテーマで、ジミヘン風のギターソロあり。06年12月イタリア・ボローニャのライブでは超絶テクギターは健在だった。しかし、政治的なメッセージ性のある曲が多い。さすがに、アメリカは懐が深い。

「CULT OF PERSONALITY」自体、ケネディ、ムッソリーニ、スターリンなど政治指導者をテーマにしている。06ライブ、90年代はエコロジーロックとでもいおうか、社会的関心が高い。なお、初期のライブ目撃者はジャズバンドみたいだったとのコメントもある。単純にパンクではない。

ヴァーノン・リードのテクはジャズから来ていると思われる。影響を受けたミュージシャンにマイルス・デイヴィス、ジョン・マクローリンがいる。彼は工科高校を経てニューヨーク大学で学んだ。

 

「CULT OF PERSONALITY」1989年ビルボード13位。1990年グラミー賞(ベストハードロック・パフォーマンス部門)。

a speech by Malcolm X.

"... And during the few moments that we have left, ... We want to talk right down to earth in a language that everybody here can easily understand."

John F. Kennedy's inaugural address is heard ("Ask not what your country can do for you ...").

The song ends with Franklin D. Roosevelt saying "The only thing we have to fear is fear itself",

 

2007/2/7の記事を一部改変。


80年代の名曲 グロリア・エステファン 1-2-3 Get on your feet Rhythm Is Gonna Get You

2024年06月16日 17時34分43秒 | 音楽

Gloria Estefan  1-2-3            1988年7月ビルボード3位

Gloria Estefan  Get on your feet          1989年9月発売、全米11位

Gloria Estefan  Rhythm Is Gonna Get You  1987年全米5位

Gloria Estefan  Conga                 1985年全米10位

グロリア・エステファン Gloria Estefanのコンサートを1989年か1990年ごろ横浜球場で見た。私が関東方面のコンサートへ行った数少ない例である。今度木村カエラの武道館ライブ(2007年)にいくことと、本の整理をしていて1979年のドゥービーズとか1986年のスターシップの会場販売ブックが出てきたことで思い出した。

私がライブをわざわざ見ようと思ったのは、名曲「1-2-3」(1988年)のPVが素晴らしかったからだ。曲・音がいいのはもちろんだが、それ以上にエステファンが動き回る姿のキレの良さに感動したからだ。単にラテン系というものではない。実際のステージでそれを期待したのだが、それほどではなかったように思う。

 片言のように聞こえる英語も魅力的だ。キューバ移民なので、発音はうまくない。これがいい。

グロリア・エステファンの経歴については、ベスト盤のCDをレンタルした1988年頃から知っている。2005~2006年ごろ、CATVの「ヒストリーチャンネル」でバイオグラフィーという番組があり、ロック・ポップスターの経歴が紹介されていた。当然「グロリア・エステファン」も紹介されていた。

 交通事故からの復帰、アトランタ五輪での歌唱など人生自体がドラマチックだ。スペイン系の母性優位的な印象もある。

ヒット曲もスペイン語だけのも入れて数多く、現在も新曲を出しているから聞かなければとは思うが、私には80年代後半の数曲で充分なのだ。当時、ベスト盤をレンタルして、カセットに落してドライブ中によく聴いた。

グロリアは美人というだけでなく、知性があり、リーダーシップもあると当時から感じていた。

夫婦共に親日で新婚旅行は熱海温泉とは知らなかった。

半生記のミュージカルが2018年12月から東京で公演されるようだ。古くはマイアミ・サウンドマシーンというグループ名だった。

 

2007/6/7掲載分を一部改変。


福島県南相馬市 雲雀ヶ原祭場地 相馬野馬追・宵乗り競馬

2024年06月16日 13時21分46秒 | 福島県

相馬野馬追・宵乗り競馬。雲雀ヶ原祭場地。福島県南相馬市原町区牛来字出口地内

2024年5月25日(土)。

相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県の相馬地方で3日間にわたって行われる祭典で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。相馬氏の祖といわれている平将門が下総国(千葉県北西部)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられ、2024年度からは、毎年5月末の土曜日・日曜日・月曜日、甲冑に身を固めた総勢約400騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指物をつけて疾走する豪華絢爛で勇壮な時代絵巻を繰り広げる。メインイベントは、日曜日13時から雲雀ヶ原祭場地で開催される神旗争奪戦で、陣螺を合図に満を持していた数百騎の騎馬武者達が集結し号砲一発、舞い下りる御神旗を求めて突進する合戦さながらの騎馬戦である。

4月中旬に名古屋市の中日ビルにある福島県の事務所を訪ねて、プロット用の全県地図や各地のパンフレットを入手した。そのときに、福島の「まつり」で一番有名な相馬野馬追が5月下旬に変更開催されると知った。相馬野馬追は神旗争奪戦の場面をテレビのニュース映像でずいぶん見ているので、さほど興味はない。かえって交通が混雑して避けたいぐらいだったが、行程上遭遇してしまった。

事前にネットで調べると、1日目の土曜日も行事が多く、交通規制は避けられないと覚悟した。雲雀ヶ原祭場地は単に現地確認程度で満足するつもりだったが、隣接する南相馬市博物館は見学予定地である。

ナビの目標を南相馬市博物館にして、小高区の相馬小高神社から向かうと、警察の交通誘導があり、迂回させられて雲雀ヶ原祭場地入口から南相馬市博物館へ向かう道路で渋滞した。付近に駐車場はなさそうだったので、そのまま進んで、13時ごろ南相馬市博物館の駐車場に着いた。

普段の土曜日なら空いているはずだが、雲雀ヶ原祭場地に一番近い無料駐車場のため、100台ほど駐車しており、見物客の駐車区画外への路上駐車も多い。パトカー・警官がいたので駐車の件で相談しようと近づくと、駐車場内で事故があったらしく、運転手たちに事故の届け出などをアドバイスしていた。話が一段落したようなので、路上駐車していいのか尋ねると、「公道ではないので関知しない。していいとも言えない。出入りに邪魔があったときは対処する。」という回答。路上駐車黙認と判断して、車に戻ると、近くにいた人が、そこ空いたよと教えてくれたので、近づいてきた車に、こちらのほうが早くから待っていたとアピールして、正規の区画に駐車することができた。

南相馬市博物館の駐車場から雲雀原祭場地へは道標が完備している。

観客席となる本陣山の裏側道路を歩いて5分ほどで入口前に着くと、臨時の厩舎が道路横に造られていた。

13時30分ごろ雲雀ヶ原祭場地に着くと、大勢の人がいて、仮設売店には人だかりができていた。

祭場地の中には、馬や人がいて賑やかだった。

祭場地から出てくる馬がいた。

本陣山といわれる観客席にも多くの人が座っていた。

本陣山の方向に歩いていると、14時から宵乗り競馬が行われるという案内放送があったので、1回目だけ見てから博物館見学することにした。

案内放送を聞いていると、競馬が終わると、勝者は札をもらって先頭になって、本陣山中央の坂(羊腸の坂)を駆け上がる、というので、その坂の中途脇の一番アングルの良さそうな場所に陣取ることにした。5mほど上には地元のテレビ局のカメラが準備していた。

13時45分ごろ、本陣山の山頂パドックから本陣山中央の坂(羊腸の坂)を人馬が下っていった。

14時になると、北東端の東屋近くから競馬の第一レースが始まった。

レースが終わり、勝者が審判員席に近づき、勝利札を貰いに来た。

このあと、勝者を先頭に坂を登ったが、動画撮影は最後に終了ボタンを押した場面しか映っておらず失敗していた。

 

本番前日の競馬を1レースだけであるが、鑑賞することができて満足したので、南相馬市博物館を見学するために往路を戻った。

福島県南相馬市 小高(おだか)神社・小高城跡 中世相馬氏の本城