苫小牧市美術博物館。苫小牧市末広町。
苫小牧市美術博物館のHPを見ると、常設展示に漫画「ゴールデンカムイ」でモデルになった煙草入れと矢毒入れがあるほか、4月29日から6月26日まで、企画展「アイヌ刀―エムㇱ・タンネㇷ゚イコㇿ・タクネㇷ゚イコㇿ―」と収蔵品展「動物の絵」の開催が分かった。
北海道を一周して苫小牧に戻って来る7月5日ごろには終わっているので、6月9日は、常設展を除いて見学することにした。常設展は戻ってきた7月3日(日)に見学した。
苫小牧市美術博物館企画展「アイヌ刀」、収蔵品展「動物の絵」
アイヌ刀とはアイヌが所持していた儀礼用の刀剣で、蝦夷刀とも称される。
アイヌが和人から入手した日本刀の刀身にアイヌ文様を施した鞘や柄などを拵えたもの「エムㇱ(刀)」や鞘や柄に飾り金具などを取り付けた刀身のないもの「イコㇿ(宝)」があり、イコㇿには「タンネㇷ゚イコㇿ(長い宝)」と「タクネㇷ゚イコㇿ(短い宝、腰刀とも)」などがある。
アイヌ刀は闘争などに用いられるのではなく、儀礼の際に魔を祓うものとして男性にとって欠かせない持ち物であり、宝物として「チセ(家)」の「イヨイキリ(宝物棚)」に大切に保管されていた。
アイヌの主力武器は短弓とトリカブトを使った毒矢であり、接近戦では戦闘用のストゥを使うため刀剣は儀礼にしか使われないが、ユカㇻ(叙事詩)にはクトネシㇼカなどの霊力を宿した刀による戦いが語られる。
アイヌ語では、イコㇿ(宝物)、またはエムㇱ(刀・帯刀・太刀)とよばれる。資料によっては刀の鞘をエムㇱとするものもあるが、いずれも男性が儀礼の際に帯びる。通常はアットゥシと同じくオヒョウダモなどの樹皮の繊維で織られた刀帯「エムㇱ・アッ」で肩から下げ、左腰の位置に提げる。
エムㇱは、拵(装具)をアイヌが作り、和人から入手した刀身や鍔と組み合わせて完成させたものである。宝刀はチセの奥にあるイヨイキㇼ(宝物棚)でエムㇱ・アッで飾り下げられ、あるいは美しい木箱に収納され、神事の際に用いられた。
刃を下にして左腰に提げるため、装飾を佩表にのみ施した拵もある。
アイヌは高度な製鉄技術を持たなかったため、刀身は和人が作製したものを交易で入手していた。そのため、イコㇿ、エムㇱを問わず、刀身は日本刀の太刀の形式を取るが、儀礼刀であることや儀式によっては刃を自分に向けて持つこともあるため、刃引きされていたり、最初から刃を付けない場合もある。また踊りの際に音が鳴るようにあえて鍔を緩めている。
イコㇿは道外の和人によって作られたものが完成品としてアイヌ社会にもたらされたものである。イコㇿとされる伝世品はほとんどが刀身を欠いている。刀身のある場合もなまくらな鉄刀の例がある。錆びた刀は霊力が強く斬られた魔物は戻ってこられないという伝承があるため、あえて刀身を手入れせずに錆びさせていることもある。
これには和人とアイヌ双方の関係も影響しており、1457年のコシャマインの戦い以後、武器となる日本刀のアイヌへの受け渡しが激減し、1669年のシャクシャインの戦い直後に行われたと考えられる刀狩りで、マキリなど生活用品としての刃物以外は入手されなくなったと推測されている。
16世紀からは実用外で装飾用の儀礼刀としての必要性が高まり、平安末期から室町時代頃に多く製作された「蛭巻太刀」のような装飾性の高い拵えの太刀を移入していた。後には「蝦夷拵(えぞごしらえ)」と称される山銅や白銀、後には真鍮などの金具で飾られた太刀や腰刀の拵えがアイヌ向けに製作されるようになり、こちらを移入するようになった。これらもアイヌの需要に合わせて装飾性が高まっていった。
蛭巻太刀でも江戸期の武士の刀装と比べれば過剰な装飾で高価なため和人側の需要は無かったが、その異風な趣や蝦夷地で年月を経た金具の寂びた風情が、江戸の数寄者の目を惹き、アイヌが儀礼で使用していたものを工芸品として和人社会へ逆移入することもあった。拵えは概ね16世紀までは京都、17世紀以降は江戸を中心とした金工職人が作成していた。